贅沢をしない人々
配属から半月ほど経った日、蓮は館へ木箱を運ぶ仕事を言いつけられた。
各国から届いた報せの束を、館の奥の書庫まで運び込む。第二部隊の手の空いた者が交代でやる仕事だった。
木箱の中身は、どれも紙だった。魔物が出た。街道が崩れた。麦が足りない。国の名前が違うだけで、似たような報せが箱いっぱいに詰まっていた。
「これ、全部ムーヴ様が読むのか」
蓮は木箱を抱え直しながら訊いた。
「読むわよ」
フィールは別の箱を抱えていた。
「人も荷も、知らせも、最後はここを通るの。移動の国だから」
蓮は謁見の日に見た、ムーヴの目の下の隈を思い出した。
これを毎日読んでいれば、ああもなる。
書庫の手前に、ムーヴの執務室があった。
扉が半分開いていた。
通り過ぎる時、蓮は中を見た。
飾りのない部屋だった。壁は剥き出しの石で、棚には紙の束しか並んでいなかった。大きな机が一つ。その上も紙で埋まっていた。
ムーヴは机に向かっていた。
左手に紙を持って読みながら、右手で固そうなパンをちぎって口に運んでいた。皿はなかった。パンは紙の上にじかに置いてあった。その横に水の入った木の杯が一つ。
それだけだった。
外套の袖口が擦り切れて、糸がほつれていた。
半歩後ろの小さな卓で、あの若い男が同じパンをかじりながら、別の紙に何か書きつけていた。
ムーヴは蓮たちに目もくれなかった。紙を一枚読み終えると、横の山に置いて、次の一枚を取った。
蓮は木箱を抱えたまま、書庫へ歩いた。
書庫に木箱を下ろしてから、蓮は小声で言った。
「……ムーヴ様、昼飯あれだけなのか」
「いつもよ」
フィールは何でもないことのように言った。
「貴族様は、どなたもあんなものよ。少なくとも、私が知っている方は」
「この世界を支えてる人たちだろ。水も、傷を治すのも、全部」
「そうよ」
「なのに、パンを紙の上に置いて食べてるのか」
フィールは少し黙った。
木箱の縁を指でなぞっていた。
「……考えたこと、なかったわ」
フィールは言った。
「小さい頃から、貴族様っていうのはそういうものだって思ってたから」
書庫の壁にも、絵は一枚もかかっていなかった。
「この国、王様の絵もないよな」
蓮は言った。
「俺のいた所じゃ、偉い人の絵は大体どこかに飾ってあった」
「ないわよ。どこにも」
フィールはあっさり言った。
「王様のお姿は描いちゃいけないの。それに、お姿を見たことのある人がほとんどいないもの。貴族様だって、五年に一度の世界会議で王城に招かれた時だけ。それも、帳の向こうからお声を聞くだけだって」
「顔も見えないのか」
「王様は、そういうお方なのよ」
フィールは当たり前のことのように言った。
「お城の奥から、ずっと見ていてくださるの」
蓮はそれ以上訊かなかった。
「お、新入り。難しい顔してんな」
書庫の戸口から、ダインが顔を出した。次の木箱を抱えていた。
「ムーヴ様の昼飯を見たんです。パンだけでした」
蓮が言うと、ダインは笑った。
「ああ、あれな。俺も最初に見た時は驚いた」
ダインは木箱を床に下ろして、その上に腰かけた。
「貴族様がなんで贅沢しねえのか、昔、先輩に訊いたことがある」
「何て言ってました」
「力は、自分のためのもんじゃねえんだと。この世界を回すための、なんだ、責務ってやつだ。だから自分の贅沢には使わねえ」
ダインは顎の無精髭を掻いた。
「それと、もう一つ。こっちはもっと古い話だ。ずっと昔、力を好き勝手に使った貴族様がいて、王様に罰せられたんだとさ。それから貴族様は皆、慎ましくなったって」
「罰せられた」
蓮は言った。
「貴族様には、何も効かないんでしょう」
「そうなんだよ」
ダインは首を傾げた。
「どうやって罰したのかは、誰も知らねえ。……ま、又聞きの又聞きだ。本当かどうかは知らねえぞ」
ダインは立ち上がって、木箱を抱え直した。
「どっちにしろ、うちのムーヴ様は好き勝手なんかしねえよ。あの隈見りゃ分かる」
ダインは笑って、書庫を出ていった。
フィールも小さく頷いた。
帰り道、蓮は黙って歩いていた。
フィールが横から顔を覗き込んだ。
「さっきから、難しい顔してる」
「……少し、考えてただけだ」
何も効かない貴族を、罰することのできる王。
その王の顔を、誰も知らない。
蓮はそれを口には出さなかった。出しても、まだ何の話にもならなかった。
「気になることがあったら、訊きなさい」
フィールが言った。
「分かることなら、答えるから」
「分からないことは」
「……分からないって言うわ」
フィールは前を向いたまま言った。
蓮は少しだけ笑った。
館の方を振り返った。
あの執務室では今も、紙が一枚ずつ、横の山へ移っているのだろうと思った。




