零
パリイインッ!!
盾が砕けた。光の破片が、篝火の明かりを浴びて、きらきらと舞った。
悪魔の拳が、そのまま、フィールの顔へ。
フィールは退かなかった。石を握った拳を、突き出したまま。
握り直した。
その瞬間。
拳と顔の間に、二枚目の光の膜が生まれていた。
ガァンッ!!
悪魔の拳が膜を叩いた。割れなかった。
悪魔の赤い目が見開かれた。割ったはずの盾が、もうそこにあった。
陣を編む三秒も、なかった。握り直す、その一瞬だけで。
蓮は家の中からそれを見ていた。
ヨルの村でフィールが言っていたことを思い出した。盾が一瞬で張れれば。
今、フィールはそれをしていた。
悪魔がもう一度拳を振り上げた。
その時、裏口の方から悲鳴が上がった。
蓮は振り返った。
逃がした女と子どもたちが、丘の方へ走っていた。その一人、小さい方の子どもが転んでいた。女が、子どもを抱き起こそうと、立ち止まっていた。
悪魔の頭が、そちらを向いた。盾の向こうの人間より、無防備な獲物の方を。
悪魔の翼が広がった。フィールの横を、跳び越えようとしていた。
「――させないッ!!」
蓮は裏口から飛び出していた。走りながら、懐の石を掴んで、悪魔の顔へ拳を突き出した。
握った。
ぼっ。
小さな火の玉が、悪魔の目の前で、ぱっと弾けた。届かなかった。殻の手前で散った。
だが。
一瞬で。三秒ではなく、握ったその瞬間に。悪魔の目の前で、光が弾けていた。
悪魔の頭がのけぞった。翼の動きが、一瞬止まった。
「リアム!!」
「分かってらあッ!!」
リアムが二発目を握った。
ぼっ。
また、悪魔の目の前で、光が弾けた。悪魔が腕で顔を覆った。
その一呼吸の間に、フィールが、女と子どもたちの前へ走り込んでいた。悪魔と、母子の間に。
石を握った。
三枚目の光の膜が、生まれた。
フィールは肩で息をしていた。これで今日張れる盾は、最後だった。
悪魔が顔から腕を下ろした。赤い目が、盾の向こうのフィールを見た。その後ろで、震えている母子を見た。
拳が振り上げられた。
その時。
悪魔の背中に、手が触れていた。
キネシスだった。
蓮は息を呑んだ。井戸の方は。井戸の悪魔は。男の子は。
キネシスの背後、村の真ん中の井戸の脇で、ヴァイスが男の子を抱えて立っていた。ベルがその隣にいた。
井戸の悪魔の姿はもうなかった。
ミラの矢に肩を射抜かれ、窓の開いた胸元に、ベルの砂の火の玉をまともに浴びて、悪魔は左腕の男の子を放り出し、夜空へ逃げていた。
ヴァイスが落ちてくる男の子を受け止めた。それを見届けて、キネシスは、すぐに東の家へ跳んでいたのだ。
東の悪魔の背中で、窓が開いていく。
悪魔が振り返った。背中に触れているのが、貴族だと気づいた。赤い目に、はっきりと、怯えが浮かんだ。
ばさり、と。
悪魔は翼を広げた。拳を振り下ろしもせずに。フィールにも、母子にも、背を向けて。
キネシスの手を振り払うように、夜空へ舞い上がった。東の空へ。
何も、担がずに。
蓮はその影を見上げていた。小さくなっていく、一つの影。空っぽの両手。
井戸の悪魔の影も、もう星の中に紛れて、見えなかった。
やがて、東の空には、何もなくなった。
静寂。
篝火が、ぱちぱちと音を立てていた。
フィールの前で、三枚目の盾が、ふっと消えた。
フィールの膝が、砂の上に落ちた。石を握った拳を、地面について。肩で大きく息をしていた。
その後ろで、母親が、子どもたちを抱きしめていた。泣いていた。三人とも。
「……数えて」
フィールがかすれた声で言った。蓮に向かって。
「蓮。……数えて」
蓮は村を見渡した。
井戸の脇。ロイの腕の中に、老婆。ヴァイスの腕の中に、男の子。
東の家の前。フィールの後ろに、母親と、子ども二人。
悪魔に捕まっていたのは、二人。二人とも、ここにいる。
東の家の中にいたのは、三人。三人とも、ここにいる。
「……全員」
蓮は言った。
「全員、いる」
フィールは、何も言わなかった。ただ、地面についた拳を、もっと強く握りしめた。肩が震えていた。
ベルが駆け寄ってきて、フィールの隣にしゃがみ、背中に手を当てた。何も言わなかった。
キネシスが東の家の前に立って、悪魔の背中に触れていた手を見下ろしていた。
それから、母子の方を見た。ロイに抱えられた老婆を見た。ヴァイスに抱えられた男の子を見た。
青年は、長く、息を吐いた。
「……今度は、全員だ」
小さな声だった。誰に言うでもなく。
蓮にはその声が、ヨルの村の広場で膝をついていた朝のキネシスに、届けばいいと思えた。
夜が明けた。
カルの村の広場に村人たちが集まっていた。誰も、欠けていなかった。
男の子の母親が、キネシスの前で何度も何度も頭を下げていた。「移動」の当主は、困ったように、その肩に手を置いていた。
リアムが地面に座り込んで、自分の粉の石を眺めていた。
「……届かなかったけどな」
ぽつりと言った。
「届かなくても、光った」
蓮が言った。
リアムは顔を上げて、にっと笑った。
「おう。光った」
ミラが丘の上から降りてきた。弓を背負って、村の広場を見渡した。
唇が動いた。声には出ていなかった。だが、蓮には分かった。
――全員。
その夜、蓮は帳面を開いた。
昨夜の数を書いた。一発。
その下に、もう一行。
カルの村。捕まったのは、二人。取り返したのは、二人。連れていかれたのは。
ペンが止まった。
ヨルの村の行の下にそれを書くのが、少しだけ怖かった。書いてしまったら、何かが変わってしまう気がした。
それでも、書いた。
零。
それから、前の頁をめくった。丸で囲んだ、「三秒」の文字。その下の、「一瞬」の文字。
蓮は、しばらくその二つを見ていた。それから、帳面を閉じた。




