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刻み手

 夜中に中庭の隅で、小さな風が鳴っていた。


 ベルは客間の窓からそれに気づいた。眠れずに、窓辺に座っていた時だった。


 月明かりの下、土の壁の前に細い影が一つ立っていた。ミラだった。

 左手を突き出して、指先が宙で小さく動いていた。速かった。ベルの目でも追うのがやっとだった。

 光の線が、指の後を追って、陣を描いていく。


 一。二。三。


 編み上がった。


 ふわり、と。ミラの前髪が揺れた。


 それだけだった。


 ミラは手を下ろして、しばらく自分の指先を見ていた。それから、また左手を突き出した。

 編んだ。前髪が揺れた。また、編んだ。前髪が揺れた。


 四度目で、ミラの膝がかくりと折れた。砂の上に座り込んでしばらく動かなかった。


 ベルは窓辺から立ち上がった。


 中庭に降りていくと、ミラはまだ砂の上に座っていた。ベルの足音に気づいて顔を上げた。

 表情はいつもと同じだった。何も変わらない、静かな顔。ただ、目の縁が少しだけ赤かった。


「……毎晩、やってるの?」


 ベルが訊いた。


 ミラは小さく頷いた。


「……あたしが言ったから? 撃てなくなるまで毎日撃ってたら、撃てる数が増えたって」


 ミラはまた頷いた。


 ベルはミラの隣に腰を下ろした。しばらく、二人とも黙っていた。


「……あたしね」


 ベルが言った。


「最初は、二発で目が回ってた。それが、二年で二十発。……ひと月に一発くらいずつ」


 ミラは黙って聞いていた。


「だから、増えるのは増えるの。でも」


 ベルは言葉を探した。うまく見つからなかった。

 ミラの方が先に口を開いた。


「……二年で、そよ風が、そよ風」


 小さな声だった。


 ベルは何も言えなかった。


 器が小さい。ヘルガはそう言った。

 ひと月に一発増えても、出てくる風は前髪を揺らす程度のまま。二年後も、たぶん、同じ。


 ミラは自分の指先を見下ろしていた。


「……悪魔の手のひら、射抜いた」


 ぽつりと言った。


「砂漠で。二度」


「うん。見てた」


「でも、ヨルの村では、弾かれた」


 ミラの指がぎゅっと握られた。


「窓がないと、矢は、届かない。……魔法も、届かない。私のは、届く前に、消える」


 ミラはそれきり黙った。


 ベルはミラの横顔を見ていた。それから、ミラの握りしめた指を見た。

 さっき、宙で陣を編んでいた指。自分よりも、速かった指。


「……ねえ」


 ベルが言った。


「さっきの陣。線、一本も揺れてなかった」


 ミラが顔を上げた。


「あたし、自分でも陣を編むから分かるの。速く編もうとすると、線がぶれるのよ。少しだけ。……でも、ミラのは、一本もぶれてなかった」


 ミラは瞬きをした。


「速くて、正確。……そんな指、あたし、他に知らない」






 翌日の午後、第四部隊の卓の前で、ヘルガが鑿を握っていた。手が細かく震えていた。

 卓の上には刻みかけの下級の石が三つ。どれも、途中で止まっていた。


「……昨日から、ずっとこれよ」


 ヘルガは震える手を見下ろして、苦笑いした。


「魔物の核の粉は、調査網がどんどん集めてくれる。でも、刻むのは私一人。一つ刻むのに、丸一日。手が震え出したら、もう線が狂う」


 ベルがヘルガの前に立っていた。その後ろに、ミラがいた。

 ベルに腕を引っぱられて、無理やり連れてこられた顔をしていた。


「ヘルガさん。ミラに、刻ませてみて」


 ヘルガは眉を上げた。


「刻むのは、編むのとは違うわよ。石は硬い。鑿は重い。手が慣れてないと――」


「いいから」


 ベルはミラの背中を押した。


 ミラは卓の前に立たされた。しばらく刻みかけの石を見下ろして、それから、ヘルガを見た。


 ヘルガは少しだけ迷って、新しい下級の石を一つと、鑿と、小さな槌を、ミラの前に置いた。設計図も。

 ファイアボールの陣。円が二つ。線が六本。交わる点が一つ。そこから伸びる線が三本。


「縮めて刻むの。この石の大きさに。一本でも長さが狂ったら」


「……別の陣になる」


 ミラが言った。


 ヘルガはミラの顔を見た。


「知ってるのね」


「……編む時も、同じだから」


 ミラは鑿を手に取って石に刃を当てた。槌を、軽く振った。


 こつ。


 刃が石に沈んだ。ほんのわずかに。割れなかった。


 ミラは設計図を見なかった。一度だけ見て、それからはずっと石だけを見ていた。


 こつ。こつ。こつ。


 一定の速さで。まるで弓を引くように。外の円が刻まれていった。


 ヘルガは黙ってそれを見ていた。途中から、腕を組むのをやめて身を乗り出していた。


 内側の円。二つの円を結ぶ、六本の線。

 ミラの手は、一度も止まらなかった。一度も、震えなかった。


 日が少し傾いた頃、ミラが鑿を置いた。


 ヘルガが拡大鏡を取った。研究者たちが集まってきた。線を一本ずつ数えた。長さを。角度を。交わる場所を。

 誰も、何も言わなかった。


 やがて、ヘルガが拡大鏡を下ろした。


「……合ってる」


 かすれた声だった。


「全部、合ってる。私が丸一日かかるのを、半日で」


 部屋の中がざわめいた。

 ミラは卓の前に立ったまま、刻み終えた石を見下ろしていた。表情は、変わらなかった。


「あなたの手は」


 ヘルガが言った。


「陣を知ってるのね。頭じゃなくて、指が」


 ミラは何も言わなかった。ただ、自分の指先をじっと見ていた。

 矢を番える指。陣を編む指。そして今、石に陣を刻んだ指。


「……役に、立つ?」


 小さな声だった。ほとんど、聞き取れないくらいの。


 ヘルガはミラの両肩に手を置いた。


「立つどころじゃないわ」


 女は真っ直ぐにミラの目を見た。


「石を作れる手が、二本になった。……これから先、特務班が握る石は、全部、あなたと私で作るのよ」


 ミラの目が、少しだけ見開かれた。

 ベルが後ろで小さく拳を握っていた。






 その夜、第四部隊の卓の上に灰色の粉を詰め終えた石が一つ置かれていた。ミラが刻み、ミラが詰めた石。


 中庭でリアムがそれを握った。


 ぼっ。


 小さな火が土の壁に向かって飛んで、届く前に消えた。悪魔の砂の石の、半分の火。

 それでも、出た。


「……おお」


 リアムが石とミラを交互に見た。


「お前が作ったのか、これ」


 ミラは小さく頷いた。


「すげえな」


 リアムはにっと笑った。


「ユーリが見たら、黙って頷くぞ。刃物の手入れには、うるさい奴だったからな」


 ミラは何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ、口元が緩んでいた。


 蓮はそれを回廊から見ていた。

 ミラの唇が、小さく動いていた。声には出ていなかった。だが、蓮には分かった。


 ――一つ。


 北の丘の夜から、ずっと、死んだ者の数を数えてきた少女が。

 今夜初めて、自分の手で作ったものの数を、数えていた。


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