写し
「全部、紙に書いてくれ」
キネシスが言った。第四部隊の卓の前だった。
ヘルガが手元の設計図から顔を上げた。
「書いてますよ。いつも」
「いつも以上に、だ」
キネシスは卓の上に積まれた紙の束を見下ろした。
ファイアボールの陣を下級の石に縮めた図。シールドの陣を上級の石に縮めた図。悪魔の砂と、サンドワームの核の粉の違い。何粒を、どう詰めたか。どこで割れたか。誰が握って、何が出たか。
「頭の中にしかないことを、一つも残さないでほしい。試してうまくいかなかったことも。思いついただけで、まだ試していないことも」
ヘルガは少しだけ眉を寄せた。
「……何かあったんですか」
「何もない」
キネシスは言った。
「私の家の決まりだ。確かめた事実は、必ず書き残す。人は忘れる。……紙は、忘れない」
ヘルガはしばらくキネシスの顔を見ていた。何かを言いかけて、やめた。それから、小さく頷いた。
「分かりました。……写しも、要りますか」
「要る」
キネシスは言った。
「一つは、ここに。もう一つは、私が預かる」
その夜、キネシスは先代の執務室の壁の前に膝をついていた。腕にヘルガの研究の写しの束を抱えていた。
壁の隅の小さな穴に、片目を寄せた。
跳んだ。
扉のない部屋。革の表紙の機密書が置かれた机の隣に、キネシスは紙の束を置いた。
ここには誰も入れない。扉がない。窓もない。「移動」の当主が、壁の穴から覗いて跳ぶほかに、入る方法がない。
「門」の力は、知っている場所にしか門を開けられない。この部屋のことは、「移動」の家の外の誰にも、知られていない。
キネシスの帳面の原本が消えたのはサナトリアの集会の日だった。その夕刻に、ゲートの門が開いていた。
確かな証拠はない。だが、ここなら。
キネシスは紙の束の一番上に、自分の字で一行書き添えた。
――第四部隊ヘルガの研究。魔法陣を魔石に刻む。悪魔の砂を詰めれば、握った瞬間に撃てる。
それから、機密書の三頁目を開いて、その最後の余白に、もう一行。
一 魔法陣を刻み、悪魔の砂を詰めた魔石は、握る者の魔素で、一瞬で魔法を放つ。
移動のキネシス、第四部隊ヘルガの手にて、自ら確かむ。
確かめた事実だけを書く。この一行も、自分の目で見た。
中庭の夜明けにフィールが握った石から、一瞬で盾が生まれるのを。
翌朝、キネシスが執務室にいると扉を叩く音がした。
「入れ」
ギードだった。右の拳を左の胸に当てて頭を下げた。
「お時間を、少しよろしいでしょうか」
「構わない」
ギードは顔を上げた。
「特務班の連中が、中庭で妙な石を握っているのを見ました」
キネシスの手がペンの上で止まった。
「握った瞬間に、火が出る。盾が出る。……第四部隊の新しい研究だと、隊長から聞きました」
「……ああ」
キネシスはペンを置いた。
隠すことでもなかった。ギードは先代の頃から館を守ってきた男だ。中庭の稽古を見ていれば、いずれ知れる。
「ヘルガが魔法陣を魔石に刻む方法を見つけた。まだ、作り始めたばかりだ」
「あれを、第一部隊にも回していただけませんか」
ギードは言った。
「当主様の護衛です。悪魔が当主様に手を伸ばした時、盾の石があれば、一瞬で間に割って入れる」
キネシスは、少しだけ黙った。
「数がない」
「数が」
「盾の石は、一つしかない」
キネシスは言った。
「悪魔の砂が足りない。北門で斬り落とした手と翼。それが、全部だ。……魔物の核の粉でも作れるが、火の玉は半分の強さになる。盾は、半分では役に立たない」
ギードは何も言わなかった。
「それに、石は使える者が限られる。魔法の才のない者が握っても、何も出ない。……特務班でも、使えるのは半分だ」
「第一部隊にも魔法の心得のある者はおります」
「分かっている」
キネシスは、ギードの目を見た。
「だが今は、特務班に持たせる。悪魔の一番近くで剣を振るうのは、あいつらだ」
ギードはしばらくキネシスの目を見返していたが、やがて、もう一度頭を下げた。
「……承知しました」
ギードは扉の方へ向かった。取っ手に手をかけたところで、足を止めた。振り返らずに、言った。
「盾の石は、隊長がお持ちで」
「そうだ」
「……当主様のお側には、いつも隊長が」
「いる」
キネシスは言った。
「フィールは、いつも私の近くにいる」
ギードは何も言わずに扉を開けて出ていった。足音が、廊下を遠ざかっていった。
キネシスはしばらく扉を見ていた。
何も、引っかかるものはなかった。ギードは、先代の頃から館を守ってきた男だ。当主の護衛を厚くしたいと思うのは、第一部隊長として当たり前のことだった。
キネシスはペンを取り直した。
その日の午後、宿舎の一室で、蓮はベルと向かい合って座っていた。
卓の上に、紙と羽根ペン。それから、従士の登用試験の古い問題の束。
「……なんで、あたしがこんなことしなきゃいけないのよ」
ベルが頬杖をついて紙を睨んでいた。
「学科は蓮に教わって、って隊長に言われただろ」
「言われたけど」
「算術、地理、法規。この三つ」
「知ってるわよ」
ベルは紙を一枚めくった。算術の問題だった。
移動の第二部隊の物流隊が穀物を運ぶ。荷馬車一台に麦袋が十二。荷馬車が十七台。途中の村で、三台分を下ろす。残りは何袋か。
ベルは紙を睨んだまま、しばらく動かなかった。
「……数えたら分かるわよ、こんなの」
「数えてみて」
「えっと。十二が十七で……」
ベルの指が卓の上で一本ずつ折られていく。蓮は、黙ってそれを見ていた。
魔法陣なら何日かかっても、線を一本残らず覚えきるのに。
ベルは指を折って、また折って、途中で分からなくなって、最初から折り直していた。
「……百、八十?」
「違う。それに、まだ三台分を引いてない」
「わかんない!!」
ベルが紙を放り出した。
「なんで陣は覚えられるのに、こっちは頭に入らないのよ!!」
「陣は形だからじゃないか」
蓮は言った。
「線の数と、交わる場所。形で覚えてる。……算術も、形にすればいい」
蓮は紙の端に小さな四角を十二個並べて描いた。
その横に、同じ列を、十七本。
「麦袋が十二個並んだ荷馬車が、十七台並んでる。……全部で、何個の四角がある?」
ベルは紙を覗き込んで、しばらく四角の並びを見ていた。それから、ぽつりと言った。
「……十二が、十。百二十。十二が、七。八十四。……二百四」
「そう」
「三台分は、十二が三つ。三十六。二百四から引いて……百六十八」
「正解」
ベルは顔を上げた。目を丸くしていた。
「……解けた」
「解けたな」
「レン、教えるの、上手」
ベルは紙を両手で持って、もう一度眺めた。それから、急に顔を赤くして、紙で顔を半分隠した。
「……毎日、これやるのよね」
「隊長がそう言ったから」
「毎日、二人で」
「……まあ」
ベルは紙の陰で、にんまりと笑った。
「じゃあ、許す」
蓮はため息をついた。
窓の外で伝書鳥の羽ばたく音がした。館の鳥舎へ、一羽、舞い降りていった。
その日の夕方、キネシスの執務室に蓮とフィールが呼ばれた。キネシスの手に一枚の紙があった。
「テルモから」
青年は言った。
「炎氷の国の東の外れで、村が二つ、沈黙した。……家畜は残され、人だけがいない」
フィールが息を呑んだ。
「同じ夜に、二つ。東の砂漠に近い村から」
キネシスは紙を卓に置いた。
「『移動』の国だけではない。……東の砂漠に面した国は、どこも同じだ」
蓮は卓の上の紙を見ていた。テルモの、几帳面な字。その最後の一行。
――例の話を、こちらの従士にも伝えるべきか。考えている。
窓、とは書いていなかった。
伝書鳥の紙は、どこで誰の目に触れるか分からない。テルモはそれを知っていて、言葉を選んでいた。
キネシスはその一行をしばらく黙って見下ろしていた。それから、自分の帳面を開いて、今日の一行を書き始めた。




