一番近く
第一部隊が、サナトリアから戻ってきた。
北門の戦いの後から、ずっと向こうの守りについていた部隊だった。
サナトリアの外壁の修繕が終わり、魔物の群れも落ち着いたのを見届けて、ようやく交代の兵と入れ替わったのだという。
館の門の前に、隊列が並んだ。
先頭に一人の男が立っていた。厳つい顔。日に焼けた首。腰に、使い込まれた長剣。
ギードだった。
キネシスが館の階段を降りてくると、ギードは右の拳を左の胸に当てて、深く頭を下げた。
「第一部隊、戻りました」
「ご苦労だった。……サナトスは」
「お元気です。当主様によろしく、と」
ギードは顔を上げた。
その目が、キネシスを見た。頭から足の先まで。ほんの一瞬。確かめるように。
「当主様も、ご無事で何よりです。砂漠で悪魔を討たれたと聞いて、サナトリアの兵は皆、喜んでおりました」
「皆のおかげだ」
キネシスは少しだけ笑った。
「お前が持たせてくれた回復の魔石にも、助けられた」
「……それは、何よりです」
ギードはもう一度頭を下げた。その顔は、蓮の位置からは見えなかった。
翌朝、中庭で特務班が剣の稽古をしていた。
フィールとベルが打ち合っていた。ロイとヴァイスが打ち合っていた。
リアムとミラが、互いの足運びを見ながら、木の短剣で打ち合っていた。
蓮は一人で型をなぞっていた。
回廊の柱の陰にギードが立っていた。腕を組んで、稽古を眺めていた。
フィールがそれに気づいて木剣を下ろした。
「ギード隊長」
「続けろ」
ギードは言った。
それから、蓮の方へ顎をしゃくった。
「その従士。エスクーダで、先代のお側にいた男だな」
「……はい」
フィールが答えた。
「蓮です」
「先代の一番近くにいて、生き残った」
ギードは、蓮を見ていた。
「先代のお側で生き残ったのは、お前と、今の当主様だけだ」
ギードは柱の脇に立てかけてあった木剣を一本取った。
「借りるぞ」
中庭の真ん中へ歩いてきて、蓮の前で止まった。
「構えろ」
中庭の稽古が全部止まった。皆が、二人を見ていた。
蓮は木剣を構えた。ギードは木剣を片手で下げたまま、構えもしなかった。
「来い」
蓮は踏み込んだ。ギードの右肩へ。
カン。
受けられた。
ギードは一歩も動いていなかった。木剣の先だけが、蓮の一撃の軌道に、置かれていた。
蓮は剣を引いて、左の脇腹へ。
カン。
受けられた。
胴へ。
カン。
脚へ。
カン。
四度打って、四度とも、ギードの足は動かなかった。
蓮は間合いを取り直して、息を整えた。
ギードの木剣は、まだ下げたままだった。構えていない。構えていないのに、どこへ打ち込んでも、そこに剣がある。
――読まれている。
北の丘のアスモデウスと同じだった。蓮が剣を振る前に、もう、どこへ来るかが分かっている。
「目だ」
ギードが言った。
「お前は、打つ前に、打つ場所を見る。……当主様が跳ぶ前に、跳ぶ先を見るのと、同じ癖だ」
蓮の背中が、ひやりとした。
「見ずに打て」
蓮はもう一度踏み込んだ。
ギードの右肩を見ないようにした。胸のあたりを、ぼんやりと見たまま、右肩へ。
カン。
受けられた。
だが、今度はギードの足が半歩だけ動いていた。
ギードの眉が、わずかに上がった。
「……ほう」
蓮はもう一度打った。脇腹へ。胸を見たまま。
カン。
ギードの足がまた半歩動いた。
三度目。
カン。
ギードが初めて木剣を両手で握った。
四度目。
ギードの木剣が蓮の一撃を受けて、そのまま流れるように返ってきた。
蓮の木剣が、弾き飛ばされた。くるくると宙を回って、砂の上に落ちた。
ギードの木剣の先が、蓮の喉元にぴたりと止まっていた。
中庭が、静まり返った。
ギードはしばらく蓮の顔を見ていたが、やがて木剣を下ろした。
「……一度言っただけで、直したな」
低い声だった。
「エスクーダで生き残ったのは、結界の魔石のおかげだと聞いていた。……運が良かったのだと思っていた」
ギードは蓮が落とした木剣を拾い上げて、蓮に差し出した。
「運ではないな」
蓮は木剣を受け取った。手のひらがじんじんと痺れていた。
「明日から、朝の稽古の後、一刻。俺が見る」
ギードは言って、フィールの方を見た。
「隊長。構わんな」
フィールは少しだけ迷って、頷いた。
「……お願いします」
それから、十日。
蓮は毎朝、特務班の稽古の後にギードと打ち合った。
ギードはほとんど口をきかなかった。ただ打ち込ませて、受けて、返して、弾き飛ばして。時々、一言だけ言った。
足が遅い。肩が開く。剣先が下がる。見ている。
蓮は言われたことを一つずつ数えて、一つずつ直した。
三日目には、ギードが最初から両手で木剣を握るようになった。五日目には、ギードの足が、一歩、二歩と下がるようになった。
八日目に、初めてギードの木剣が蓮の一撃で弾かれた。
ほんのわずかに、軌道がずれただけだった。それでも、中庭で見ていたロイが、思わず声を上げた。
ギードは長い間、ずれた自分の木剣を見下ろしていた。
「……覚えが良すぎる」
小さく、呟いた。
「何度も打ち合って、体が覚えていく。それは分かる。……だが、お前は、一度言われたことを、次の一振りでもう直している。体が、言われる前から、そうなりたがっているみたいだ」
蓮は答えられなかった。自分でも分かっていた。
この世界に来た時、剣など握ったこともなかった。なのに、養成所の一月半で登用試験に受かった。
エスクーダで、北の丘で、北門で、砂漠で、剣を振るたびに、体が勝手に次の動きを知っていた。なぜなのかは、分からなかった。
ギードはそれ以上何も訊かなかった。ただ、木剣を構え直した。
「もう一本」
その日の稽古の終わり、ギードは木剣を柱に立てかけながら、ふと館の二階の窓を見上げた。
キネシスの執務室の窓だった。窓の向こうに、青年の影が見えた。机に向かって、何かを書いていた。
「当主様は」
ギードが言った。蓮の方を見ずに。
「次の任務にも、自ら出られるのか」
「……はい。悪魔が出るなら、窓を開けられるのは、キネシス様だけなので」
「そうか」
ギードは窓を見上げたままだった。
「ヨルの村にも、出られたそうだな。夜中に、四度跳んで」
「はい」
「悪魔の足首を掴んだ、と」
「はい」
ギードはしばらく黙っていた。
「……先代も、そういう方だった」
低い声だった。
「エスクーダで、先代はご自分から悪魔の間合いへ跳ばれた。剣を抜いて、悪魔の胸を貫かれた。……そして、亡くなられた」
蓮は何も言えなかった。あの時、自分も、そのすぐ傍らにいた。
「当主様は、先代によく似ておられる」
ギードは窓を見上げたまま言った。
「だからこそ、だ」
男は、ようやく蓮の方を向いた。厳つい顔に、表情はなかった。
「お前たち特務班は、いつも当主様のお側にいる。……悪魔の一番近くで、当主様の一番近くで、剣を振るう」
ギードは蓮の胸に、右の拳を軽く当てた。
「盾となれ」
エスクーダの前に、この男が叫んだ言葉だった。
「最後の最後まで、当主様の、一番近くに」
蓮は頷いた。
「はい」
ギードは拳を下ろして、背を向け、回廊を歩いていった。
その背中を蓮は見送った。頼もしい背中だった。
ギードの言葉は従士の心得そのものだった。何一つ、おかしなところはなかった。
それなのに。
なぜか、胸の奥に、小さな棘が一本、残っていた。
当主様の、一番近くに。
その言葉を口にした時、ギードの目は、蓮ではなく、もう一度、二階の窓を見上げていた。




