一瞬
ヘルガは針を使った。縫い物に使う、一番細い針。
その先に、黒い砂を一粒ずつ載せて、刻んだ溝の中へ落としていった。
一粒。また一粒。息を止めて。
砂は、髪の毛よりも細かかった。少しでも息がかかれば、溝の外へ散ってしまう。
研究者たちは卓から一歩下がって見ていた。誰も、口をきかなかった。
外の円。内側の円。二つの円を結ぶ、六本の線。交わる点。そこから伸びる、三本の線。
昼前に始めて、終わったのは、日が傾き始めた頃だった。
ヘルガは針を置いて、長く、長く息を吐いた。
石を灯りにかざした。親指の先ほどの下級の魔石。その表面に黒い陣が埋め込まれていた。溝の形に沿って、砂がぎっしりと詰まっている。
灯りの加減で、黒い線が、ほんのわずかに鈍く光って見えた。
ヘルガは石を灯りにかざしたまま、そばの研究者に言った。
「……ベルを、呼んできて」
その声が、かすれていた。
焦げ跡だらけの土の壁の前、昨日と同じ中庭に、特務班が集まっていた。キネシスも来ていた。
昨日と違うのは、誰も軽口を叩かないことだった。
ベルが石を受け取った。
昨日のように、しげしげと眺めはしなかった。ただ、手のひらに載せて、黒い陣を見下ろした。
それから、土の壁に左手を向けて、石を握った。
その瞬間。
ベルの肩がびくりと跳ねた。
「――っ」
胸の奥から何かが引っぱられる。陣を自分で編み上げた時の、最後の一本を結んだ瞬間の、あの感覚。
それが。
握った瞬間に、来た。
ドンッ!!
火の玉がベルの拳の先から飛び出していた。土の壁に当たって、弾けた。焦げ跡が、一つ増えた。
中庭が静まり返った。誰も何も言わなかった。
ベルは自分の拳を見下ろして、開いた。
石はそのままそこにあった。割れてもいない。黒い陣も、そのまま。
「……出た」
ベルの声が震えていた。
「今、握っただけで。……陣、編んでない。何もしてない。握ったら、もう出てた」
ヘルガがその場に膝をついた。両手で顔を覆った。肩が、震えていた。
研究者たちが駆け寄った。誰かが叫んでいた。誰かが笑っていた。誰かがヘルガの背中を何度も叩いていた。
蓮は土の壁の焦げ跡を見ていた。数えていた。
握ってから、火の玉が出るまで。一つも、数えられなかった。
一瞬だった。
「……もう一回」
ベルが言った。
握った。
ドンッ!!
もう一回。
ドンッ!!
三発、続けて撃った。三秒どころか、一呼吸の間に三発。
四発目で、ベルは手を止めた。自分の拳を、もう一度見下ろした。
「……減ってる」
「何が」
フィールが訊いた。
「あたしの中の、魔素。自分で編んだ時と、同じだけ減ってる」
ベルは石を見た。
「石の方には、何も溜まってないのよ。陣があるだけ。……出てくる火は、あたしの中から持っていかれてる」
ヘルガが顔を上げた。涙の跡のついた顔で、ベルを見た。
「……そう。陣を通るのは、使う人の魔素。石は通り道だけ」
女は、膝の砂を払いもせずに立ち上がった。
「だから器がない人には撃てない。器が小さい人の火は、小さい。……でも、器さえあれば。編むのが、どれだけ下手でも」
その目が、ある一人に向いた。リアムだった。
リアムは自分の顔を指差した。
「……俺?」
「十数えないと編めない人」
ヘルガは、石を差し出した。
「器は、ある。火は、出てた」
リアムは両手で壊れ物のように石を受け取った。土の壁に向けて、握った。
ドンッ!!
火の玉が飛んだ。ベルの火よりも少し小さかったが、真っ直ぐに飛んで土の壁に当たった。
リアムは口を開けたまま固まっていた。
「……出た」
「出たわね」
「一瞬で……出た……」
リアムの声が裏返った。
「俺、十数えなくていいのか!? 握るだけで!?」
「握るだけで」
「うおおおおおおおおおッ!!」
リアムが叫んで、石を握ったまま中庭を走り回った。ロイが、慌ててその手首を掴んだ。
「馬鹿、握ったまま走るな!! 出るだろうが!!」
「出ねえよ、壁に向けてねえ――」
ドンッ!!
火の玉が空へ飛んでいった。中庭の皆が、首をすくめた。
「……向いてなくても、出るのね」
ヘルガが冷静に言った。手元の紙に何か書きつけていた。
「握ったら出る。向きは、手の向き。……持ち方を、考えないと」
リアムが真っ青な顔で石を地面に置いた。
次に、ミラが黙って石を握り、土の壁に向けた。
ふわり、と。小さな火が、ミラの拳の先で灯って、すぐに消えた。土の壁には届かなかった。
ミラはしばらく自分の拳を見ていた。それから何も言わずに石をヘルガに返して、弓を取りに行った。
その背中を、ベルがじっと見ていた。
ロイが石を握った。何も起きなかった。ヴァイスも。何も起きなかった。
「……やっぱりな」
ロイが苦笑いして石を返した。
「俺らは、剣だ」
「剣でいい」
ヴァイスが言った。
二人とも、悔しそうな顔はしていなかった。少なくとも、そう見せていた。
フィールが石を握った。
ドンッ。
ベルより小さく、リアムより大きな火が飛んだ。
フィールは自分の拳を見ていた。それから、ヘルガを見た。
「……盾も、刻めますか」
ヘルガは、少しだけ黙った。
「刻めるかどうかは、やってみないと分からない」
女は、正直に言った。
「シールドの陣は、ファイアボールより線が多い。内側に格子がある。この小さな石に、全部収まるかどうか」
「……」
「でも、やる」
ヘルガは言った。
「あなたが一番欲しいのが、それでしょう」
フィールは頷いた。
最後に、蓮が土の壁に向けて石を握った。
ドンッ。
フィールと同じくらいの火が飛んだ。蓮は、もう一度握った。
ドンッ。
三度目。何も出なかった。指先が、冷たくなっていた。いつもの、二発。
それでも。二発とも、一瞬だった。
三秒が、消えていた。
その夜、第四部隊の卓の上に、サナトスから預かった黒い砂の壺が置かれていた。
ヘルガがその中を覗き込んでいた。キネシスと蓮が、その隣に立っていた。
「石一つに、どれだけ使った」
キネシスが訊いた。
「指で一つまみ」
ヘルガは答えた。
「刻む陣が大きくなれば、もっと要ります」
女は壺の中の砂の嵩を、目で測った。
「……下級の石に、ファイアボールなら。二十と少し」
「二十」
「それで、この壺は空になります」
キネシスは黙って壺を見下ろしていた。
北門で斬り落とされた、悪魔の手と翼。アスモデウスが遺したものの、全部。それで、二十と少し。
「……悪魔を一体倒すたびに、砂が手に入る」
キネシスがゆっくりと言った。
「ただし、悪魔の体は、核が割れると風に散る。砂漠の窪地では、何も残らなかった」
「北門の手と翼は、斬り落とされて、冷室にあったから残っただけ」
ヘルガが言った。
「二度と、手に入らないかもしれない」
部屋の中が静かになった。
蓮は、壺の中の黒い砂を見ていた。二十と少し。
ヨルの村で、窓が開けられたのは一体だけだった。残りの二体には、何も届かなかった。
この石が、二十と少しあれば。二十と少しで、何人を守れるのか。
「……代わりを、探します」
ヘルガが言って、卓の端の箱から灰色の石を一つ取り出した。サンドワームの核だった。
「魔物の核も、魔素を溜める。悪魔の砂ほどじゃないかもしれないけど。砕いて、粉にして、溝に詰めたら」
「出るのか」
「分かりません」
ヘルガは灰色の核を卓に置いた。
「でも、昨日まで、刻んだ石は何も出なかった。今日、出た。……明日は、明日の分かりませんを、一つずつ潰していきます」
キネシスは、小さく笑った。
「……頼む」
蓮は帳面を開いて、今日の数を書いた。二発。
その横に、小さく書き足した。
一瞬。
昨夜、丸で囲んだ「三秒」の文字の下に。




