刻んだだけの石
最初の石は、三打ち目で割れた。
ヘルガの鑿が色を失った下級の魔石の表面に細い溝を一本刻んだ。
二本目を刻もうとした時、石の端にぴしりとひびが走った。
三打ち目で、石は二つに割れて卓の上に転がった。
「……強すぎた」
ヘルガは割れた石を脇へ寄せて、次の石を取った。
下級の魔石は、親指の先ほどの大きさしかない。その小さな面に、ファイアボールの陣を刻む。円が二つ。線が六本。交わる点が一つ。そこから伸びる線が三本。
紙の上なら、手のひらほどの大きさで描く陣だった。それを、親指の先に縮める。円の大きさも、線の長さも、交わる角度も、全部そのまま小さくして。
一本でも長さが狂えば、それは別の陣になる。
二つ目の石は、刻み終わる前に割れた。
三つ目は、刻み終わった。ヘルガはそれを燭台の灯りにかざして、目を細めて設計図と見比べた。
「……二本目の線が、髪一本分、外の円にはみ出してる」
四つ目。
五つ目。
六つ目で、ヘルガの手が止まった。石の上に、親指の先ほどの陣が刻まれていた。
研究者の一人が、拡大鏡を持ってきた。別の一人が、設計図を縮めて描き直した紙を、その横に置いた。
三人がかりで、線を一本ずつ数えた。
円が二つ。線が六本。交わる点が一つ。そこから伸びる線が三本。
長さ。角度。交わる場所。全部、合っていた。
「……できた」
ヘルガが呟いた。その声が、少しだけ震えていた。
中庭に特務班が集められた。
焦げ跡だらけの土の壁の前にヘルガが立っていた。その手のひらに親指の先ほどの石が一つ載っていた。
「誰が撃つ」
キネシスが訊いた。
「ベル」
ヘルガは言った。
「一番、器が大きいから。……もし何か起きても、慣れてる」
「何かって何よ」
ベルが顔をしかめた。
「分からないから、何かよ」
ベルは唇を尖らせながら、石を受け取った。手のひらに載せてしげしげと眺めた。
「……これ、どうすればいいの」
「土の壁に向けて、握って」
ヘルガは言った。
「陣はもう編み上がってる。石の中に。……あなたは何もしなくていい。握れば、魔素が勝手に陣に引き寄せられて、出てくるはず」
はず。
中庭にいる誰もが、その一言を聞き逃さなかった。
ベルは、土の壁に左手を向けた。石を握りしめて、目を閉じた。
一。
二。
三。
何も、起きなかった。
ベルが目を開けて、手のひらを開いた。
石はそのままだった。割れてもいない。光ってもいない。ただの溝の入った小さな石だった。
「……出ない」
ベルが言った。
「何にも、引っぱられる感じがしない。自分で陣を編んだ時は、最後の一本を結んだ瞬間に、胸の奥から何かが持っていかれるのに」
ヘルガは何も言わなかった。ベルの手のひらから石を取り上げて、灯りにかざした。
陣は刻まれたままだった。一本も狂っていなかった。
「もう一回。今度は、陣の上に指を置いて」
ベルは言われた通りにした。
何も起きなかった。
「石を額に当てて」
何も起きなかった。
「……私が撃つ」
ヘルガが石を握った。研究者たちが一人ずつ握った。フィールが握った。蓮が握った。
何も、起きなかった。
夕方まで試して、刻んだ石はただの刻んだ石のままだった。
その夜、第四部隊の卓の前でヘルガは黙って座っていた。
卓の上に六つの石が並んでいた。割れたもの。線がはみ出したもの。そして、一本も狂っていない、何も起きなかった石。
研究者たちはもう帰っていた。残っていたのは、ヘルガと蓮だけだった。
「……何が足りないのか、分からない」
ヘルガが言った。誰に言うでもなく。
「陣は合ってる。線の数も、長さも、角度も。……頭で組んだ陣を手で編むのと、何が違うの」
蓮は、卓の上の石を見ていた。それから、その隣に置かれた、黒い核を見た。
ひび割れた核。端を薄く削がれた核。その削ぎ取った欠片を描き写した紙。
「ヘルガさん」
「なに」
「核の中の陣は、どうやって見えましたか」
ヘルガが顔を上げた。
「……どうって。ひびの奥を覗いて。欠片を灯りに透かして」
「線は、何色でしたか」
「白」
ヘルガは答えてから、少しだけ黙った。
「……白い線が、石の中を走ってた」
「溝じゃ、なかった」
蓮は言って、刻んだ石を一つ手に取った。
「この石の陣は溝です。石を削って、へこませただけ。……でも、核の中の陣は、黒い石の中に、白い何かが通ってた」
ヘルガは蓮の手の中の石をじっと見ていた。
「手で陣を編む時も、指がなぞった跡に、光の線が残りますよね」
蓮は自分の指先を見下ろした。
「あれは、ただの形じゃない。何かが、そこを通ってる。……だから、魔素が引き寄せられる」
「溝は、形だけ」
ヘルガがゆっくりと言った。
「中を、何も通ってない」
「はい」
部屋の中が静かになった。燭台の火が、小さく揺れた。
ヘルガは卓の上の欠片の紙を引き寄せて、描き写した白い線を指でなぞった。
「……この白い線は、何でできてるの」
答えは、誰も持っていなかった。
ヘルガは紙から目を上げて、卓の端に置かれた小さな壺を見た。サナトスから預かった、黒い砂の壺。
蓮も、同じものを見ていた。
キネシスがこの壺を持ち帰った日。ベルが紙の下で陣を編みかけた時。この砂は、陣の線の上に引き寄せられて、黒い陣になった。
魔素に引かれる砂。あるいは、魔素そのものかもしれない砂。
「……溝に」
ヘルガの声がかすれていた。
「溝に、何かを詰めたら」
蓮は頷いた。
ヘルガは壺に手を伸ばしかけて、止めた。
壺の中の砂は、半分ほどしかない。北門で斬り落とされた悪魔の手と翼。それが、全部で、これだけ。
「……明日」
ヘルガは言った。
「明日、試す」
その声は、震えていた。
怖がっているのではなかった。蓮には、それが分かった。




