三歩
夜が明けた。ヨルの村の広場に村人たちが集まっていた。
四十一人の村だった。今、広場に立っているのは、三十九人。
ロイが受け止めた男は、広場の真ん中に座り込んでいた。名前を、ヒンセムといった。
連れていかれた女と子どもは、ヒンセムの妻と娘だった。
ヒンセムは誰とも口をきかなかった。ただ、東の空を見ていた。
夜が明けて、空が白んで、星が一つずつ消えていっても。
キネシスが、ヒンセムの前に膝をついた。「移動」の当主が、開拓村の男の前に。
村人たちが、息を呑んだ。
「……すまない」
キネシスは言った。
「間に合わなかった」
ヒンセムはキネシスを見なかった。東の空を見たまま、かすれた声で言った。
「……ありがとうございます。貴族様……」
その言葉とは逆の顔をしていた。
「……でも……なぜ、私だったのですか」
ヒンセムの声が震えた。
「なんで、俺なんだ」
キネシスは答えられなかった。
「なんで、あいつらじゃなくて、俺なんだよ……」
男は両手で顔を覆った。肩が大きく揺れていた。声は出ていなかった。
キネシスは膝をついたまま、長い間動かなかった。
フィールが少し離れた場所からそれを見ていた。唇を、強く噛んでいた。
ベルは広場の隅で、泣いている子どもたちの輪の中にしゃがんでいた。ニナと同じくらいの子どもたちだった。
何も言わずに、一人ずつ、頭を撫でていた。
蓮は広場の端に立って、自分の左手を見下ろしていた。
三秒。
あの時、三秒ではなく、一瞬で撃てていたら。
窓の外だった。当たっても、弾かれた。分かっている。
それでも。
悪魔の目をこちらに向けさせることはできた。屋根の上でほんの一呼吸でも、足を止めさせることができた。
その一呼吸の間に、キネシスが東の屋根へ跳べたかもしれない。
かもしれない。
かもしれない。
かもしれない。
何度数えても、答えは変わらなかった。
三秒あれば、悪魔は三歩動ける。
その三歩が、ヒンセムの妻と娘を、東の空へ連れていった。
昼過ぎ、キネシスは村の篝火の台を一つ増やさせ、見張りを夜通し二人に増やさせた。
それから、特務班を連れて館へ跳んだ。四度跳んで着いた時には青年の顔は紙のように白かった。
それでも、執務室には戻らなかった。そのまま、第四部隊へ向かった。
ヘルガは卓の前に座っていた。昨夜、見張り塔の鐘を聞いていたのだ。眠っていない顔だった。
キネシスが短く話した。悪魔は三体。窓は一つ。捕まっていたのは三人。取り返したのは一人。連れていかれたのは二人。
ヘルガは黙って聞いていた。話が終わると、蓮を見た。
「あなたも、撃ったのね」
「二発です」
蓮は答えた。
「一発目は、屋根の上の悪魔が横へ動いて、外れました。二発目は、もう明かりの外へ出ていて、届きませんでした」
「何秒かかった」
「三秒です。どっちも」
ヘルガは目を閉じた。
「……三秒あれば、悪魔は三歩動ける」
蓮は自分が昨夜から何度も頭の中で繰り返していた言葉を、ヘルガの口から聞いた。
「魔法使いなら、誰でも知ってることよ。だから皆、魔法は戦いの役に立たないって言う。止まってる的にしか当たらない、って」
女は目を開けて、壁一面の設計図を見上げた。
何百枚もの陣。何百年分の、止まっている的のための陣。
「……悪魔は、三歩も待ってくれない」
ヘルガはゆっくりと立ち上がって、卓の端の箱を開けた。
中に、魔石がいくつも並んでいた。下級の石。水を込めた青い石。癒やしを込めた淡い緑の石。力を使い切って、色を失った石。
ヘルガは色を失った石を一つ取り出して、卓の上に置いた。その隣に、核から削いだ薄い欠片を描き写した紙を並べた。
「悪魔は陣を体の中に持ってる。だから、三歩も待たせない」
女は、色を失った魔石を指で叩いた。
「力は石に込められる。三頁目にも、そう書いてあった」
「魔法陣を、刻む」
キネシスが言った。あの日、ヘルガが口にした言葉だった。
「そうです」
ヘルガは頷いた。
「頭で組んで、手で編む。それに三秒かかる。……だったら、組むのも編むのも、先に済ませておけばいい。石の中に」
女は、細い鑿を手に取った。
「編み上がった陣を、石に刻んでおく。撃つ時は、その石に触れるだけ。魔素が、陣に引き寄せられて、勝手に出てくる」
「……そんなことが、できるのか」
「分かりません」
ヘルガは、首を振った。
「誰もやったことがないから。……でも」
女の目が、キネシスを見た。それから、蓮を。フィールを。ベルを。特務班の一人ずつを。
「誰も、撃てなくなるまで毎日撃とうとしなかった。誰も、悪魔の核を削ったことがなかった。……誰もやったことがないことを、この十日で、もう二つ、やったんです」
ヘルガは、色を失った魔石を手に取った。
「三つ目を、やります」
部屋の中がしんとした。研究者たちが、一人ずつ、手元の仕事を置いて、卓の周りに集まってきた。
キネシスが長く息を吐いた。
「……必要なものは」
「魔石を。下級でいいので、たくさん。それから、時間を」
「石は用意する」
キネシスは言った。
「時間は」
青年はそこで言葉を切った。
東の空を思った。また夜が来る。次の篝火が、いつ燃えるのか。誰にも分からなかった。
「……できるだけ、早く」
「はい」
ヘルガは鑿の刃を色を失った魔石の表面に当てた。
その夜、蓮は宿舎の裏の井戸のそばで帳面を開いていた。
昨夜の数を書いた。二発。
その下に、もう一行書いた。
ヨルの村。四十一人。捕まったのは、三人。取り返したのは、一人。連れていかれたのは、二人。
書き終えて、ペンを止めた。
「……何、書いてるの」
フィールだった。灯りを持って、隣に立っていた。
蓮が帳面を見せると、フィールはその一行を黙って読んで、蓮の隣に腰を下ろした。
「……私も、数えてた」
「うん」
「三体いて、窓が一つ。だから北を選んだ。両手が空いてる奴が、一番危ないと思ったから」
フィールは膝を抱えた。
「間違ってなかったと思う。……でも、東を選んでたら、あの二人は」
「選べなかったよ」
蓮は言った。
「北を放っておいたら、扉の中の人が連れていかれてた。何人いたか、分からない」
「……そうね」
フィールは、井戸の水面を見ていた。
「どっちを選んでも、誰かが連れていかれた」
しばらく、二人とも黙っていた。
やがて、フィールが言った。
「窓が、二つあれば」
小さな声だった。
「貴族様が、二人いれば。……ううん、違う」
フィールは自分の左手を見下ろした。
「盾が、もっと早く張れれば。一瞬で、次々に。そうしたら、窓が一つでも、残りの二体の前に盾を張って、足止めできた」
「ヘルガさんが、石に魔法陣を刻むって」
「聞いた」
フィールは頷いた。
「できるようになったら、私は盾を刻んだ石を持つ。握るだけで、一瞬で張れる盾を」
その声は、静かだった。静かで、固かった。
「次は、誰も連れていかせない」
蓮はフィールの横顔を見た。灯りの中で、その目がまっすぐに東の空を見ていた。
蓮も東の空を見た。星が出ていた。
どこかの外れの村の篝火が今夜は燃えていないことを、祈った。
帳面を閉じる前にもう一行だけ書き足した。
三秒。
その数字を、丸で囲んだ。




