狼煙
鐘が鳴った。夜の底を叩き割るような、見張り塔の鐘だった。
蓮は寝台から跳ね起きた。
カン。カン。カン。
三つ打って、間を置いて、また三つ。東の狼煙。
ニナの村が消えた後、キネシスは東の外れの村々に篝火の台を置かせた。悪魔を見たら、火を焚け。見張り塔がそれを見たら、鐘を三つ。
置かせてから、まだ十日も経っていなかった。
宿舎の扉を開けると、もう廊下を足音が駆けていた。ロイ。ヴァイス。リアム。ミラ。
フィールが、剣を腰に差しながら走ってきた。
「中庭!!」
中庭に、キネシスが立っていた。寝間着の上に外套を羽織っただけの姿だった。
その目が、東の空を見ていた。見張り塔の向こう。地平の際に、小さな赤い点が一つ、瞬いていた。
「篝火だ。ヨルの村」
キネシスが言った。
「ここから跳べば、四度で着く」
回廊を小さな影が駆けてきた。ベルだった。客間から寝間着のまま剣だけ掴んで飛び出してきたらしい。髪が片方だけほどけていた。
「置いてかないでよ!!」
「置いていくつもりはない」
キネシスは言った。
「……全員、寄れ」
特務班の七人が、青年の周りに寄った。
キネシスの目が見張り塔の天辺を見た。
跳んだ。
塔の上。冷たい夜風。東の地平の赤い点が、少しだけ大きくなっていた。
キネシスの目が、その先の丘の頂を見た。
跳んだ。
丘の上。赤い点が、また少し大きくなった。
その先の、もう一つの丘。
跳んだ。
赤い点は、もう点ではなかった。村の入り口の物見台の上で、篝火が燃え盛っていた。
その炎の明かりの中を。
黒い影が、横切った。
翼のある影が。
一つ。
二つ。
三つ。
「――いる」
フィールの声が、低くなった。
「まだ、いる」
キネシスの目が、村の真ん中の広場を見た。
跳んだ。
降り立った瞬間、悲鳴が耳を打った。
蓮は、広場をぐるりと見渡した。数えた。
悪魔は、三体。
一体目は、広場の北側。家の扉を、今まさに叩き割ろうとしていた。両手は空いている。中に、まだ人がいるのだ。
二体目は、西の家の屋根の上。腕に、男を一人抱えていた。男は足をばたつかせていた。生きている。
三体目は、東の家の屋根の上。肩に、二人担いでいた。女と、小さな子ども。子どもが泣き叫んでいた。
捕まっているのは、三人。西の屋根に一人。東の屋根に二人。
どの悪魔も、人の倍ほどもある体だった。黒い肌。赤い目。背中の翼。
北の一体が、扉から手を離して、こちらを振り返った。赤い目が、細められた。
キネシスを見ていた。貴族を。
蓮の頭の中で、数が並んだ。
悪魔が三体。窓を開けられる貴族は、キネシス一人。窓は、一度に一つしか開けられない。
キネシスが一体に触れている間、残りの二体の殻は、閉じたままだ。剣も、矢も、魔法も、そっちには届かない。
全部は、救えない。
フィールも、同じ数を数えていた。その号令に、迷いはなかった。
「キネシス様、北の一体!! 両手が空いてる奴が一番危ない!! ベルは盾でキネシス様を!! ロイ、ヴァイス、リアム、北に突け!! ミラは西の屋根を見張って!! 蓮、私と東!!」
特務班が散った。
キネシスの目が、北の悪魔の背中を見た。
消えた。
現れた。
悪魔の真後ろに。
その背中に、手が触れた。
窓が、開いていく。
触れた背中から、少しずつ。
悪魔が振り返った。
速い。
爪が、キネシスの顔へ。
窓は、まだ背中から肩までしか開いていない。キネシスの側も同じだ。顔には、まだ加護がある。
だが、悪魔がもう片方の手で触れてくれば、そこからも窓は開く。爪が届くより先に、顔まで開かれたら。
「――シールドッ!!」
ベルの声。
キネシスの顔の前に、光の膜が生まれていた。
爪が膜を叩いた。
ピシッ。
ひと呼吸で割れる盾。だが、そのひと呼吸で、悪魔の手はキネシスに触れられなかった。
「突けえええええッ!!」
ロイが。ヴァイスが。リアムが。
悪魔の脇腹へ。
ズブッ!!
通った。
窓が、もう脇腹まで回っていた。
悪魔が咆哮した。キネシスの手を振り払おうと、体をよじる。
キネシスは離さなかった。背中の布を、指が白くなるほど握りしめていた。
ベルの手のひらの先で、二つ目の陣が満ちていた。
「ファイアボールッ!!」
ドンッ!!
火の玉が、悪魔の胸で弾けた。
悪魔がよろめいた。
その間、蓮とフィールは東の屋根の下へ走っていた。女と子どもを担いだ三体目の真下へ。
屋根の上の悪魔は、こちらを見下ろしていた。
窓は開いていない。剣は届かない。分かっていた。
それでも、足止めになるなら。
蓮は、左手を屋根へ向けた。頭の中で陣を組む。円が二つ。線が六本。
指が動く。光の線。
一秒。
屋根の上の悪魔が、ふいと横へ動いた。
二秒。
蓮が狙っていた場所に、もう悪魔はいなかった。
三秒。
最後の一本を、結んだ。
ぼっ。
拳ほどの火の玉が、悪魔のいなくなった屋根の端をかすめて、夜空へ抜けていった。
――遅い。
蓮は、自分の手のひらを睨んだ。
当たったとしても、窓の外では弾かれる。それは分かっていた。それでも、悪魔の目をこちらへ向けさせることくらいは、できたはずだった。
三秒あれば、悪魔は三歩動ける。
「キネシス様、離れて!!」
北から、フィールの叫びが響いた。
北の悪魔の手首が、地面を向きかけていた。爆裂の兆し。
キネシスが手を離して、跳んだ。窓が閉じた。
北の悪魔は、地面に手を向けなかった。向けかけて、やめた。
そのまま翼を広げた。ばさり、と。夜空へ舞い上がった。脇腹から黒い血を滴らせながら。
逃げた。戦うのではなく。
「――逃げる!?」
リアムが叫んだ。
それが合図だったかのように、西と東の屋根の上の二体も、翼を広げていた。
西の一体が、男を抱えたまま舞い上がる。東の一体も、女と子どもを担いだまま。
ミラの矢が飛んだ。西の一体の翼に当たって。
カン。
弾かれた。
ベルの火の玉が、東の一体の手前で、霧のように散った。
窓は、どこにも開いていない。
「キネシス様!!」
フィールの声。
キネシスはもう跳んでいた。西の屋根の上へ。男を抱えて舞い上がろうとする悪魔の、真下へ。
跳び上がって、その足首を掴んだ。掴んだ足首から、窓が開き始める。
悪魔が、もう片方の足でキネシスの顔を蹴った。
窓は、まだ足首のあたりにしか開いていない。蹴りは、青年の顔の前で、見えない壁に弾かれた。
それでも、指は離れなかった。
悪魔が、抱えていた男を放した。両手を空けるために。キネシスの手首を、外しにかかるために。
男の体が、屋根の上に落ちた。転がった。軒から落ちかけたところを、下に駆け込んだロイが受け止めた。
一人、取り返した。
悪魔の両手が、キネシスの手首へ伸びた。
「キネシス様、手首!!」
蓮が叫んだ。
アスモデウスが、何度もやった手。手首の内側を押されれば、固められる。
キネシスが指を離して、屋根の上に落ちて転がった。
西の悪魔は、空っぽの両手のまま、空へ逃げた。
残るは、東の一体。女と、子ども。二人を肩に担いだまま、蓮の頭上を越えていこうとしていた。
屋根の上で起き上がろうとしていたキネシスの目が、東の悪魔を追った。影は、もう篝火の明かりの外へ抜けかけていた。
跳ぶには、行き先が見えていなければならない。闇の中では、どこへ跳べばいいのかが見えない。
「――待てッ!!」
蓮は走っていた。左手を突き出していた。
陣を組む。円が二つ。指が動く。
一秒。
悪魔の影が、篝火の明かりの外へ出た。
二秒。
もう、ただの黒い影だった。
三秒。
最後の一本を、結んだ。
ぼっ。
拳ほどの火の玉が、夜空へ昇っていった。ふらふらと。影に、届きもせずに。
途中で、ふっと消えた。
蓮の指先が、冷たくなっていた。二発目。もう、三発目は編めなかった。
膝が、砂の上についた。
東の空に、黒い影が三つ、並んでいた。
一つは、脇腹から血を流しながら。一つは、空っぽの手で。一つは、肩に二人を担いで。
だんだん小さくなっていった。やがて、星の中に紛れて、見えなくなった。
子どもの泣き声が、まだ耳の奥に残っていた。
篝火が、ぱちぱちと音を立てて燃えていた。




