刃の通らない石
朝の剣の稽古の後に、魔法の稽古が加わった。
加わった、と言っても、すぐに終わった。
蓮が二発撃つ。それで頭がくらりとして、指先が冷たくなる。
リアムは十数えながら一発を編み、編み上がると「出た!!」と叫ぶ。毎回。そして二発目の途中で、その場に座り込む。
ミラは、前髪を揺らすだけの風を三度編んで、黙って弓を取りに行く。
フィールの盾は、二枚。
全部合わせても、日が少し動くほどの間もかからなかった。あとは、いつもの剣の稽古に戻る。
ロイとヴァイスは、最初から木剣を振っていた。
中庭の隅の土の壁に、焦げ跡を増やし続けているのは、ほとんどベル一人だった。
「まだ撃てるの……?」
息を切らして座り込んだリアムが、呆れたように見上げた。
ベルは二十発目の火の玉を土の壁に叩きつけて、振り返った。
「まだまだ」
夜になると、皆、ヘルガのところへ数を言いに行った。二。一。三。二。
ヘルガはそれを一人ずつ紙に書き留めた。何百年分の設計図が貼られた壁の、一番端に、新しい紙が一枚増えた。
数字は、まだどれも小さかった。
第四部隊の卓の上で、ヘルガが鑿を握っていた。
「薄く削りたいのよ」
女は、ひび割れた黒い核を万力に挟みながら言った。
「表から覗くだけじゃ、ひびの奥の陣は半分も見えない。端を一枚、紙みたいに薄く削いで、灯りに透かせば」
「割れないか」
キネシスが訊いた。
「割れないように削るのが、私の仕事です」
ヘルガは鑿の刃を核の端に当てて、小さな槌を振り上げた。
こつん。
鑿の刃が、滑った。核の表面を撫でるように、するりと横へ逃げた。
ヘルガの眉が寄った。もう一度、刃を当てる。今度は少し強く。
かつん。
また滑った。傷一つ、ついていなかった。
「……硬い、のとは違うわね」
ヘルガは鑿を置いて、核の表面を指でなぞった。指は、何にも阻まれなかった。冷たい石の肌に、そのまま触れた。
「触れるのに。刃だけが、入らない」
女は、別の道具を取った。細い錐。小刀。砥石。
どれも、同じだった。触れることはできる。だが、削ろうとした瞬間、刃が見えない何かに弾かれて、横へ逃げる。
ヘルガは、最後に槌を握った。鑿も使わず、核の真上から、そのまま振り下ろした。
「――ヘルガ!」
キネシスが声を上げた。
がぁん!!
甲高い音がした。槌が跳ね返って、ヘルガの手から飛び、卓の端に転がった。
女は、痺れた手首を押さえて、しばらく動かなかった。
核には、何も起きていなかった。
「……ねえ」
ヘルガがかすれた声で言った。
「これ、何かに似てない?」
誰もすぐには答えなかった。
蓮には、分かっていた。北の丘で。北門の前で。砂漠の窪地で。何度も、何度も、剣を弾かれた。
カン、と。見えない壁に。
「……悪魔の殻」
フィールが呟いた。
「死んでも、まだ残ってる……?」
「体は、砂になったのに」
ヘルガは核を見下ろしていた。
「この石にだけ、まだ殻がある」
女の目がゆっくりとキネシスに向いた。
「キネシス様」
「……何だ」
「窓は、悪魔に触れている間、開くんでしたね。貴族様が触れている間」
キネシスの眉が動いた。ヘルガが何を考えているのか、分かったのだ。
「この石に触れたら、どうなるんでしょう」
キネシスは、すぐには答えなかった。卓の上の核を見て、それから、ヘルガの手の中の鑿を見た。
「……窓が開けば、私の加護も消える」
「ええ」
「刃が滑れば、私の手に入る」
「滑らせません」
ヘルガは真っ直ぐにキネシスを見ていた。
「私の手は、数えきれないほどの魔物の骨を削ってきた手です」
キネシスは、しばらく黙っていた。それから、小さく息を吐いて、核に手を伸ばした。
指先で、核の端に触れた。何も起きなかった。キネシスは、そのまま触れ続けた。
一呼吸。
二呼吸。
「……変わった」
キネシスが呟いた。
「何かが、ほどけていく。……私の指の方からも」
窓だった。北門で、砂漠で、何度も開いてきた窓。
死んだ悪魔の、拳ほどの石と、青年の指先の間で、静かに開いていた。
ヘルガが、キネシスの指から指三本分離れた場所に、鑿の刃を当てた。
槌を、軽く振った。
こつ。
刃が、沈んだ。
ほんのわずかに。だが、確かに。核の端に、細い溝が刻まれていた。
部屋の中が、静まり返った。研究者たちが、息を止めていた。
ヘルガの手が、小刻みに震えていた。それでも、刃は真っ直ぐだった。
こつ。
こつ。
こつ。
一打ちごとに、溝が深くなっていく。
キネシスの指先は、核に触れたまま動かなかった。額に、うっすらと汗が浮いていた。
やがて、ぱきり、と。
核の端から、紙のように薄い、爪の先ほどの黒い欠片が剥がれ落ちた。
「――離していいです」
ヘルガが言った。
キネシスが指を離して、長く息を吐いた。
ヘルガは、震える指で欠片を摘まみ上げて、燭台の火にかざした。黒い欠片が、火の光を透かして、うっすらと赤く染まった。
その中に、白い線が走っていた。髪の毛より細い線が、何本も。ひびの奥から覗いていた時とは、比べものにならないほど、はっきりと。
「……見える」
ヘルガが呟いた。
「全部、見える」
研究者たちが、一斉に卓へ駆け寄った。紙が広げられ、羽根ペンが走り始めた。
蓮は、その輪の外に立って、卓の上に残された核を見ていた。削られた端の、細い溝を。それから、核を斜めに走る、大きなひびを。
砂漠の窪地で、自分の剣先が入れたひび。
ヘルガもそれを見ていた。欠片を紙の上に置いて、核のひびを指でなぞっていた。
「……蓮」
女が、顔を上げずに言った。
「このひび、あなたの剣が入れたのよね」
「……はい」
「キネシス様が触れて、窓を開けて。鑿でやっと、爪の先ほど」
ヘルガの指がひびの奥へ向かってなぞっていった。
「このひびは、核の真ん中まで届いてる」
部屋の中の音が、少しだけ遠くなった気がした。
「窓は、キネシス様の手が踵に触れて開いていた」
キネシスが言った。
穏やかな声だった。
「だから剣が届いた。……そうだったな、蓮」
「……はい」
蓮は答えた。
ヘルガはそれ以上何も言わなかった。ただ、もう一度だけひびを指でなぞって、それから、薄い欠片の方へ目を戻した。
蓮は自分の右手を見下ろした。剣を握る手。砂漠の窪地で、窓のない殻を貫いた手。
キネシスが指で触れ続けて、ヘルガの鑿が何十回も打って、ようやく爪の先ほど削れた石を。
この手は、一突きで、真ん中まで割った。
夜、研究者たちが帰った後の第四部隊にヘルガとキネシスと蓮が残っていた。
卓の上には、欠片から描き写した陣の紙が、何枚も重なっていた。
「分かったことが、一つあります」
ヘルガが言った。
「悪魔の殻は、体に被さってるものじゃない」
女は核を指差した。
「この石が、張ってるんです。内側から」
キネシスが黙って核を見下ろしていた。
「体が砂になっても、この石には殻が残った。……殻の出どころは、ここ。体じゃなく、石の方」
ヘルガは、ゆっくりと顔を上げてキネシスを見た。その目が、ほんの少しだけ、ためらっていた。
「……キネシス様」
「何だ」
「貴族様の守りは」
女は言葉を選んでいた。
「どこから、来てるんですか」
キネシスは、答えなかった。答えを持っていなかった。
青年は自分の胸に手を当てた。そこに何があるのか、確かめるように。
何も、分からなかった。
燭台の火が小さく揺れた。卓の上の黒い核がその光を吸い込むように、鈍く光っていた。




