魔法
蓮は、紙を見ていなかった。
中庭の砂の上に、小枝で円を描いていた。
一つ。その内側に、もう一つ。二つの円を結ぶ線が、六本。
内側の円の中に、三本の短い線が交わる点が一つ。
昨夜、宿舎の寝台の上で、何度も数えた。
数えられるものは、覚えられる。
描き終えて、小枝を置いた。ベルが、ヘルガから借りてきた設計図をその横に並べて、長い間、見比べていた。
「……合ってる」
ベルが、ぽかんと口を開けた。
「全部、合ってる。一本も欠けてない」
「数えたから」
「数えたって……昨日もらったばっかりでしょ!? あたし、この陣覚えるの三日かかったのよ!?」
「線が少ないから」
「そういう問題じゃない!!」
回廊の柱のそばで、フィールが黙ってそれを見ていた。ほんの少しだけ、唇を噛んでいた。
フィールが初めて盾を張れるまで、夜の中庭に一人で、どれだけ立っていたか。蓮は知っていた。
だから、フィールの方は見なかった。
「じゃあ、次は編むの」
ベルが気を取り直したように言った。
「覚えた通りに、手で。一本ずつ、正確に。……向こうの的に向けてね。燃えやすいものがない方」
中庭の隅に、ヘルガが用意させた土の壁があった。焦げ跡だらけの、古い的だった。
蓮は左手を的へ向けて、目を閉じた。頭の中で、陣を組む。円が二つ。線が六本。交わる点が一つ。
目を開けて、指を動かした。外の円を、なぞる。淡い光の線が、指の後を追ってきた。
一秒。
内側の円。
二つの円を結ぶ線。一本。二本。三本。
二秒。
四本。五本。六本。
交わる点。そこから伸びる、三本の線。
三秒。
最後の一本を、結んだ。
その瞬間。
陣の真ん中が、ふっと熱くなった。
胸の奥から、何かが引っぱられる感じがした。腕を通って、手のひらを抜けて、陣の中へ。
ぼっ。
拳ほどの火の玉が、陣から飛び出した。ふらふらと宙を泳いで、土の壁に当たって、ぱっと散った。
中庭が、静まり返った。
「……出た」
蓮は自分の手のひらを見下ろした。熱かった。
「出た……」
「出たじゃないわよ!!」
ベルが叫んだ。
「一回目で!? 普通、最初の何十回かは線が消えるのよ!? フィールなんか丸一日――」
言いかけて、ベルは慌てて口を押さえ、回廊の方を見た。
フィールは、もうそこにいなかった。
「……あ」
ベルがばつの悪そうな顔をした。
蓮は回廊の方を見ていた。何も言えなかった。
その日、蓮が撃てたのは二発だった。
二発目を撃ったところで、頭がくらりとした。指先が冷たくなって、三発目の陣は、二本目の線で消えた。
「普通よ」
夕方、第四部隊の卓の前で、ヘルガはあっさり言った。
「人の体に溜まってる魔素なんて、その程度。一番やさしい陣で、一発か二発。三発撃てたら多い方」
「増えないんですか。続けていれば」
「増えないわね」
ヘルガは首を振った。
「器は生まれつき。皆そう言ってるし、私もそう教わった。……だから魔法使いは、一発を外さないことだけ考えるの」
「え? あたしは増えたわよ?」
卓の端で砂の壺を覗き込んでいたベルが、顔を上げた。ヘルガが振り返った。
「……今、何て」
「増えたって言ったの。最初は二発撃ったら目が回ってたもん。今は、シールドなら二十枚くらい張れるし」
部屋の中がしんとなった。研究者たちが、手を止めてベルを見ていた。
「砂漠で、あんなに張ってたでしょ。最後の方は鼻血出たけど」
「……いつから、魔法を」
「お養父様の館に来てから、ずっと。書庫で陣を覚えて、裏庭で毎日撃ってたの。誰も見てないし、することもなかったし。撃てなくなるまで撃って、寝て、次の日また撃って」
ベルは、何でもないことのように言った。
「そしたら、ちょっとずつ増えたのよ。ひと月に一発とか、そのくらいだけど」
ヘルガは、しばらく口を開けたまま動かなかった。それから、ゆっくりと卓に手をついた。
「……毎日、撃てなくなるまで」
「うん」
「何年も」
「二年くらい」
ヘルガは目を閉じて、長く息を吐いた。
「そんなこと、誰もしないのよ」
女は、かすれた声で言った。
「魔法は戦いの役に立たない。皆そう思ってる。私たちだって、魔物の陣を確かめるために撃つだけ。……撃てなくなるまで毎日撃ち続ける人なんて、今まで、一人も」
研究者の一人が、手元の紙に何かを書きつけ始めた。別の一人が、自分の手のひらを見下ろしていた。
「……試したことが、なかったのね。誰も」
ヘルガは壁一面の設計図を見上げた。何百枚もの陣。何百年分の研究。その中に、一枚も、それを書いた紙はなかった。
それから、女は蓮の方を向いた。
「明日から、毎日撃って。撃てなくなるまで。そして数を書いて。……あなた、数えるのが得意なんでしょう」
蓮は頷いた。
ヘルガは、蓮の手のひらをちらりと見た。
「それより。一回目で編めて、一回目で火が出た。……そっちの方が、よっぽど珍しいわ」
それから、十日が過ぎた。
特務班の朝は稽古から始まり、稽古の後に陣の練習が加わった。
ヘルガが一人ずつ、ファイアボールの陣を試させた。
最初はロイだった。
陣は覚えた。指も、その通りに動いた。だが、光の線が出なかった。
何度やっても。指がなぞった跡に、何も残らない。
「……おい、嘘だろ」
ロイが、自分の手のひらを睨んだ。
「生まれつきよ」
ヘルガは言った。
「陣が光らない人は、どれだけやっても光らない。半分の人は、そう」
ヴァイスも、同じだった。三日やって、一本の線も光らなかった。
「……やっぱ、俺は剣でいい」
ヴァイスはそう言って、木剣を拾い上げた。その背中が、少しだけ丸まっていた。
リアムは光った。だが、遅かった。
一本、また一本。指がなぞるたびに、迷う。止まる。思い出す。また動く。
最後の一本を結んだ時には、十を数え終わっていた。
ぼっ、と小さな火が出た。
「出た!! 出たぞ!!」
「十数えたわね」
ヘルガが言った。
「戦場で十数える間、悪魔は待ってくれないわよ」
「……ですよねえ」
リアムはがっくりと肩を落とした。それでも、次の朝もまた、陣を編んでいた。
ミラは、何も言わずに、細い陣の設計図を一枚もらってきた。矢の先に、小さな風をまとわせる陣だった。
ミラの指は、速かった。三つ数える間に、陣が編み上がった。だが、出てきた風は、ミラの前髪をふわりと揺らしただけだった。
矢の先には、届かなかった。
「器が小さいのね」
ヘルガは残念そうに言った。
「編むのは上手。でも、出てくる魔素が少なすぎる」
ミラは黙って自分の手のひらを見ていた。それから、何も言わずに、また陣を編み始めた。
光らない者が半分。
光っても、遅すぎる者がその半分。
速く編めても、弱すぎる者が、またその半分。
魔法が、なぜ従士の間で使われないのか。十日で、皆、身をもって知った。
フィールのシールドは一日に二枚張れるようになっていた。編むのに、まだ四つは数える。だが、一本も欠けなかった。
蓮は、毎晩、帳面に数を書いた。その日、何発撃てたか。
二。二。三。二。二。二。三。二。二。二。
ひと月に一発。ベルはそう言っていた。十日では、まだ何も変わらない。
分かっていても、蓮は数を書き続けた。
十日目の夜。
宿舎の裏の井戸のそばに、蓮は一人で座っていた。帳面を膝の上に開いたまま。
「……ここにいたの」
声がした。振り返ると、フィールが小さな灯りを手に立っていた。
「宿舎にいないから。……ベルが、探してたわよ。明日の稽古の後、また教えるって」
「うん」
フィールは、蓮の隣に腰を下ろした。膝の上の帳面の、数字の列をちらりと見た。
「毎晩、書いてるのね」
「数えないと、落ち着かないから」
「知ってる」
フィールは小さく笑った。
しばらく、二人とも黙っていた。
「……私、最初の日、夜になるまで一枚も張れなかった」
フィールがぽつりと言った。
「知ってる」
「でしょうね」
フィールは膝を抱えた。
「あなたは一回目で撃てた。私は一日中、何も出なかった。……悔しかった。正直に言うと」
「ごめん」
「謝らないで」
フィールは井戸の水面を見ていた。
「ロイも、ヴァイスも、光らなかった。リアムは遅いし、ミラは弱い。……あなたと私とベルだけ。運が良かったのね、私たち」
「うん」
「でも」
フィールは少しだけ言葉を探した。
「あなたは、なんで魔法を始めたの」
蓮は答えなかった。
「陣を自分の手で編んでみたい、って言ってたわね。ヘルガさんに」
「……うん」
「それだけ?」
蓮は井戸の水面を見た。月が映っていた。
「……それだけじゃ、ない」
ようやく、それだけ言った。
フィールは、それ以上訊かなかった。ただ、膝を抱えたまま、蓮の隣に座っていた。
風が吹いて、水面の月が揺れた。
やがて、フィールが立ち上がった。
「明日も、稽古は日の出からよ」
「うん」
「……話せるようになったら、話して」
フィールは灯りを持って、宿舎の方へ歩いていった。途中で一度だけ振り返って、何か言いかけて、やめた。
灯りが、角を曲がって見えなくなった。
蓮は帳面に目を落として、今日の数を書き足した。
十日目。二発。
砂漠の窪地で、窓もない悪魔の殻を、この手は貫いた。なのに、この手から出るのは、拳ほどの火を二つだけ。
胸の奥の、ずっと奥で、何かがほどけたはずだった。それが何なのか。
陣を編むたびに、少しだけ近づける気がして。まだ、何も掴めていなかった。




