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三頁目

「力を込めた記録は、ないんですか」


 ヘルガが訊いた。


 第四部隊の卓の上には、黒い砂の壺と、ひび割れた核と、描き写した陣の紙が、昨日のまま広がっていた。


「魔物の核に。魔石に。どの力が入って、どの力が入らないのか。……貴族様の家なら、どこかに残ってるんじゃないかと思って」


 キネシスはすぐには答えなかった。二頁目の最後の一行を思い出していた。


 ――力を魔石と核に込める細目は、三頁に記す。


「……ある、かもしれない」


 青年は言った。


「確かめてくる」






 その夜、キネシスはまた先代の執務室の壁の前に膝をついた。小さな穴に片目を寄せて、跳んだ。


 扉のない部屋。革の表紙を開いて、二頁目をめくった。


 三頁目。


 二頁目と同じ、古く整った字だった。

 だが、二頁目のように一人の手で一度に書かれたものではなかった。

 行ごとに、少しずつ筆跡が違っていた。何人もの手で、何年もかけて書き足されたように見えた。


 ――石と核に宿る力。

 ――初代の頃、十四の家がそれぞれの力を魔物の核と石に込め、確かめたるもの。


 一 下級の石に宿るは、水と癒やしのみ。

 一 上級の石には、跳ぶ力と結界もまた宿る。ただし結界は数呼吸しか保たぬ。

 一 それ以外の力は、大物の魔物の核でなければ宿らず。宿っても、本人の力には遠く及ばぬ。

 一 門と心の力は、いかなる石にも、いかなる核にも宿らなかった。

 一 石に込めた分だけ、その日に振るえる力は減る。

 一 力を使い切った石は壊れず、同じ家の者に預ければ、再び込められる。


 キネシスは一行ずつ指でなぞっていった。


 下級の石に、水と癒やし。特務班が腰に下げている石だ。

 上級の石に、跳ぶ力。北の監視塔に預けてあった石だ。叱られるのは私だ、と言って使った石。


 知っていることばかりだった。子どもの頃から、館の誰もが当たり前のように知っていたこと。

 その当たり前が、遠い昔に、こうして一つずつ確かめられていたのだ。


 門と心の力は、いかなる石にも、いかなる核にも宿らなかった。


 指が、その一行で止まった。


 門。心の力。ゲートと、メンタル。


 あの二人の力だけは、石に込めて誰かに持たせることができない。あの二人がそこにいなければ働かない。


 キネシスは、その一行を長い間見つめていた。

 それが何を意味するのかは、まだ分からなかった。ただ、覚えておくべきことだと思った。


 頁の残りを、最後まで読んだ。大物の魔物の核の大きさと、宿る力の量。石を砕いた時のこと。核を焼いた時のこと。


 どの行にも、悪魔の核のことは書かれていなかった。一行も。


 キネシスは見落としているのではないかと、頁を何度も見返した。


 なかった。


 初代の頃の十四の家は、あらゆる核と石に力を込めて確かめた。

 だが、悪魔の核には、一度も触れていない。


 なぜだ。


 初代の頃には、悪魔がいなかったのか。


 いや。一頁目に、先代たちの字で書いてあった。

 悪魔に触れられている間、貴族の加護は消える。悪魔に、貴族以外の攻撃は通じぬ。


 悪魔は、いたのだ。初代の頃から。


 それなら、なぜ。


 キネシスの頭に、幼い頃に聞いた寝物語が浮かんだ。

 白い翼の天使が、ただ一柱で、悪魔を三体討ち果たした話。

 乳母が、何度も聞かせてくれた。神話だと思っていた。子どもを寝かしつけるための、ただの昔話だと。


 ――ん。


 キネシスの指が、頁の上で止まった。


 昔話ではなかったのだ。


 初代の頃、悪魔を討っていたのは、貴族ではなかった。天使だった。

 天使が討ち、天使が後を片づけた。貴族は、悪魔の核を手にすることすらなかった。


 だから、どこにも書かれていない。千年を超える記録の中に、一行も。


 では、なぜ今は。


 キネシスは、その問いを胸の奥に押しやった。今夜は、確かめた事実だけを書きに来たのだ。


 そして今、その核が、第四部隊の焦げた卓の上にある。天使ではなく、人間の剣で討った悪魔の核が。


 キネシスは筆を取った。


 三頁目の最後の余白に、自分の字で書いた。


 一 悪魔の核には、いかなる力も宿らぬ。跳ぶ力を込めようとしても、器がなく、入り口がない。

   移動のキネシス、北の外周の砂漠にて討ちたる悪魔アスモデウスの核にて、自ら確かむ。


 書き終えて、少しだけ迷った。それから、もう一行。


 一 悪魔の核の中には、陣が刻まれている。


 確かめた事実だけを書く。その決まりに、この一行は反していない。

 ヘルガが燭台の火にかざして、皆が見た。蓮が描いた紋様と、円の数まで一致した。自分の目で、見た。


 キネシスは筆を置いた。頁を閉じかけて、もう一度開いた。


 門と心の力は、いかなる石にも、いかなる核にも宿らなかった。


 その一行を、自分の帳面に書き写した。






 翌朝、キネシスは、自分の言葉で書き写した三頁目の中身をヘルガに渡した。

 ヘルガは卓に紙を広げて、食い入るように読んだ。

 読み終えて、顔を上げた。


「悪魔の核のことは」


「どこにもなかった」


 キネシスは言った。


「初代の頃、悪魔を討っていたのは、貴族ではなかったからだ」


「じゃあ、誰が」


 キネシスは、すぐには答えなかった。ヘルガの顔を見て、それから、隣に立つ蓮を見た。口を開きかけて、閉じた。


 ヘルガが眉を寄せた。


「キネシス様?」


 青年は、卓の上の紙に目を落として、長い間黙っていた。


 これは、貴族の間でしか語られないことだった。先代から、そう教わった。民に話す必要はない、と。


 だが。


 誰も触れたことのない悪魔の核を前にして、焦げた指で一つずつ確かめている女に。

 何も知らせずに、確かめろと言うのか。


 キネシスは顔を上げた。


「……天使だ」


 ヘルガが瞬きをした。


「天使?」


 女は、少し笑いかけた。


「神話の? 白い翼の天使が、一柱で悪魔を三体討った、っていう」


「神話ではない」


 キネシスは言った。


 ヘルガの笑みが、止まった。


「天使は、いる。王城に」


 部屋の中の音が、消えた。研究者たちが、手を止めてこちらを見ていた。蓮も、息を止めていた。


「王に仕える兵だ。王の命で動き、王の命で悪魔を討つ。……民は神話でしか知らない。だが貴族は、世界会議で王城へ上がる。そこで見る。玉座の間に並ぶ、白い翼の兵を」


 キネシスは、自分の手を見下ろした。


「私はまだ、この目で見たことはない。だが先代は、何度も見たと言っていた。……天使は、王の兵器だ。貴族が知っているのは、それだけだ。どこから来たのか。何でできているのか。誰も知らない」


 ヘルガは、しばらく口を開けたまま動かなかった。それから、ゆっくりと、卓の上の黒い核を見下ろした。


「……初代の頃、悪魔は天使が討ってた」


「そうだ」


「だから、貴族の誰も、悪魔の核を手にしたことがなかった」


「そうだ」


「じゃあ」


 女の声が、かすれた。


「今、悪魔を討ってるのは、なぜ天使じゃないの」


 キネシスは、答えなかった。答えを持っていなかった。


 エスクーダの前に、先代が王に天使の派遣を願い出て、退けられたこと。

 サナトリアへ向かう前に、自分も同じことを願い出て、同じように退けられたこと。


 三名で対処せよ。それが、王の答えだった。


「……ここで聞いたことは、ここだけにしてくれ」


 キネシスはそれだけ言った。


 ヘルガはしばらくキネシスの顔を見ていたが、やがて小さく頷いた。研究者たちも、一人ずつ、黙って頷いた。


 ヘルガは、卓の上の黒い核に目を戻した。


「……じゃあ、これが最初なのね」


「おそらく」


「何百年も、誰も触ったことのないものを、私が今、触ってる」


 ヘルガの声は、少しだけ震えていた。

 怖がっているのではなかった。蓮には、それが分かった。

 女の目が、子どものように光っていたから。


 ヘルガは紙に目を戻した。上級の石には、跳ぶ力と結界もまた宿る。その一行を、指でなぞっていた。


「……力は、石に込められる」


 独り言のように呟いた。


「核の中には、陣が刻まれてる」


 女の指が、止まった。


「だったら」


 ヘルガは、ゆっくりと顔を上げた。


「石に、陣を刻めないかしら」


 部屋の中の研究者たちが、手を止めた。


「力を込めるみたいに、陣を込める。いえ、刻む。……そうしたら、頭の中で組まなくても。手で編まなくても」


 キネシスが、眉を寄せた。


「三秒が、要らなくなる?」


「分からない」


 ヘルガは首を振った。


「分からないけど、悪魔はそうしてるのよ。核の中に陣を持ってる。だから速い」


 女は、壁一面に貼られた何百枚もの設計図を見渡した。


「これを全部、石に刻めたら」


 誰も、何も言わなかった。


 窓が開いてから閉じるまでの、ほんの数呼吸。その間に、三秒かかる魔法は、一度しか撃てない。

 もし、それが一瞬になったら。


「……ヘルガさん」


 蓮が、口を開いた。


 皆が、蓮を見た。


「俺にも、魔法を教えてもらえませんか」


 ヘルガは瞬きをした。


「あなたが?」


「はい」


「使えるかどうかは、やってみないと分からないわよ。半分の人は、一生かかっても火一つ出ないんだから。……でも、なんで急に」


 蓮は、少しだけ言葉を探した。本当の理由は、言えなかった。


 悪魔の体が魔素でできているのなら。あの殻を、窓もなしに貫いた自分の中の何かも、もしかしたら。

 魔法を知れば、その手がかりが掴めるかもしれない。そう思った。だが、それを口にすることはできなかった。


「……陣を、自分の手で編んでみたいんです」


 蓮は言った。


「核の中の陣と、悪魔の爆裂の紋様。描き写すだけじゃなくて、編むとどうなるのか、知りたい」


 嘘ではなかった。全部でもなかった。


 ヘルガはしばらく蓮の顔を見ていた。何かを探るような目だった。それから、ふっと笑った。


「いいわよ。……数えるのが得意な人は、陣を覚えるのも早いから」


 女は、壁から一枚の紙を剥がして、蓮に渡した。円が一つ。その内側に、もう一つ。昨日、ベルが紙の下で編みかけた陣と同じ形だった。


「ファイアボール。一番やさしい陣よ。……ここ、燃えやすいから、編むのは中庭でね」


 蓮は、その紙を受け取った。円の数。線の数。交わる場所。頭の中で、一つずつ数えていった。


 隣で、ベルが目を輝かせていた。


「レンも魔法やるの!? あたしが教えてあげる!!」


「……ヘルガさんに教わるって今」


「あたしの方が上手に教えられるもん!!」


 回廊の向こうで、フィールが立ち止まってこちらを見ていた。

 何も言わなかった。ただ、自分の左手を、一度だけ握りしめた。


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