引かれる砂
日の出の稽古が終わった後の中庭に、二つの影が残っていた。
二人の間の地面に、一枚の紙が石で押さえて置かれていた。
円が二つ。その間を細い線が何本も結び、内側の円の中に、小さな格子のような模様が描かれていた。シールドの陣だった。
ベルが、昨夜のうちに描いておいたものだった。
「どこで覚えたの、こんなの」
フィールが紙を見下ろして訊いた。
「お養父様の館の書庫」
ベルは腕を組んだ。
「陣の本が何冊もあったの。誰も読まないから、全部覚えちゃった。……暇だったし」
最後の一言だけ、少しだけ声が小さかった。
「覚えるだけじゃ駄目よ」
ベルは左手を突き出してみせた。
「まず頭の中で、この陣を組むの。円の一本、線の一本まで。それから、その通りに手で編む」
ベルの指先が、宙で小さく動き始めた。
円をなぞるように。線を結ぶように。糸を編むように。
指がなぞった跡に、淡い光の線が残っていく。
円が一つ。その内側に、もう一つ。線が二つの円を結んでいく。
一秒。二秒。
最後の一本が結ばれた。
三秒。
陣の真ん中から、光が湧き出すように溢れた。ふわりと、光の膜が広がる。
ベルが手を下ろすと、膜は消えた。
「ね。編み終われば、勝手に出てくるの。体の中の力が、陣に引っぱられて」
「勝手に、ね」
フィールは紙をもう一度見下ろして、目を閉じた。
しばらく、そのまま動かなかった。頭の中で、陣をなぞっているのだと分かった。
目を開けて、左手を突き出す。指先が、ぎこちなく動き始めた。淡い光の線。円の、端の方だけ。
指が止まった。線が、一瞬で消えた。
「待って」
ベルが、地面に落ちていた小枝を拾ってフィールに差し出した。
「紙を見ないで、ここに描いてみて」
フィールは小枝を受け取って、砂の上に円を描いた。もう一つ、内側に。二つの円を結ぶ線。内側の格子。
手が止まって、少し迷って、また動いた。
描き終えると、ベルはそれを紙の陣と見比べて、格子の一角を指差した。
「ここ。一本足りない」
フィールは自分の描いた陣を見下ろした。確かに、足りなかった。
「一本でも足りなかったら、陣は閉じないの。閉じない陣には、何も来ない」
ベルは紙を拾い上げて、フィールの胸に押しつけた。
「目をつぶっても描けるまで、覚えて。線の数も、交わる場所も、全部」
フィールは紙を受け取って、長い間、それを見つめていた。
それから目を閉じて、もう一度、砂の上に描いた。今度は、一本も欠けていなかった。
「……覚えた」
「じゃあ次。覚えた通りに、手で編むの。一本ずつ、正確に。線がずれたら、それも別の陣になっちゃうから」
フィールは頷いて、左手を突き出した。指先が動く。光の線。円が一つ。
二つ目の途中で、指が揺れた。線が、紙の陣とは違う方へ曲がった。
消えた。
回廊の柱に背を預けて、蓮はそれを見ていた。十回目だった。数えていた。
フィールの唇が、かすかに動いていた。
一。二。二つ目の途中で、いつも光が消える。
「……数えてるでしょ、さっきから」
ベルが言った。
フィールが瞬きをした。
「一、二って。……数えると、そのたびに手がぶれるの。今の、二つ目の円で線が曲がったでしょ。頭の中の陣と、手の動きがずれたら、編み上がらない」
フィールは、少しだけ黙った。
「……でも、数えないと」
「数えないと、何」
「窓に合わせられない」
ベルは口を開きかけて、閉じた。フィールは、自分の左手を見下ろしていた。
「窓が開いてる間に盾を張らなきゃいけないんでしょう。いつ張るかが分からなかったら、意味がない」
「……それは、そうだけど」
「だから、数えながら編めるようになる」
フィールは、もう一度、左手を突き出した。
「もう一回」
ベルはしばらくフィールを見ていたが、やがて小さく溜息をついた。
「……頑固」
「隊長だもの」
「それ、便利な言葉ね」
ベルは唇を尖らせた。でも、その顔は少しだけ笑っていた。
「もう一回」
昼過ぎ、キネシスが戻ってきた。
二日前に一人で跳んでいったサナトリアから、跳び継いで。目の下の隈が、さらに濃くなっていた。
その腕に、小さな壺を一つ抱えていた。蓋の上から、何重にも紐が巻かれていた。
「サナトス殿から預かった」
第四部隊の卓の上に、キネシスはそれを置いた。
「冷室の床に落ちていた砂を、一粒残さず集めてくださったそうだ」
ヘルガが紐を解いて、蓋を開けた。壺の中に、黒い砂が半分ほど入っていた。
砂漠の砂よりも、ずっと細かい。指でつまむと、さらさらと零れ落ちた。
「冷たいわね」
ヘルガが呟いた。
「この部屋、昼はけっこう暑いのに」
確かに、そうだった。蓮も一粒つまんでみた。
冷たかった。砂漠の窪地で、キネシスが拾い上げた黒い石と、同じ冷たさだった。
「北門の右手と、左の翼」
キネシスが言った。
「それが、これになった」
ヘルガは黙って、砂を一つまみ白い紙の上に落とし、薄く広げて、目を細めて覗き込んだ。
しばらく、誰も何も言わなかった。
「……ただの砂に見えるわね」
ヘルガは顔を上げた。
「魔物の骨を焼いた灰とも違う。石を砕いた粉とも違う。……でも、それだけ」
女は、卓の端に置いてあった黒い石に目をやった。核。中に魔法陣が刻まれた石。
「石の方には陣があった。この砂にも、何かあるはずなんだけど」
ヘルガは指先で砂を均した。何度も。何も起きなかった。
「ねえ」
ベルが口を挟んだ。卓の端から、紙の上の砂を覗き込んでいた。
「この砂の下で、陣を編んでみたら?」
ヘルガがベルを見た。
「最後の一本だけ結ばずに止めれば、撃たないで済むでしょ。……核の中には陣があったんでしょ。だったら、この砂も、陣に何か」
言いかけて、ベルは口ごもった。
「……なんとなく、だけど」
ヘルガはしばらくベルの顔を見ていたが、やがて紙をベルの方へ滑らせた。
「やってみて。紙の下から。……最後の一本、絶対に結ばないでよ。ここ、燃えやすいから」
「分かってるわよ」
ベルは、紙の下に左手をそっと差し入れた。
手のひらを上に向けて、目を閉じる。紙の下で、指が動き始めた。淡い光が透けて見えた。
円が一つ。その内側に、もう一つ。ファイアボールの陣だった。
一秒。
その時。
紙の上の砂が。
動いた。
さら、と。
ほんのわずかに。
ヘルガの息が止まった。
二秒。
砂が、動いていた。
紙の上を、ゆっくりと、這うように。
ばらばらに散っていた黒い粒が、一粒、また一粒と、紙の下の光の線の上へ集まっていく。
円の上に。円の内側の線の上に。まるで、見えない糸に引かれるように。
ベルの指が、最後の一本の手前で止まった。
紙の上に、黒い陣が描かれていた。砂でできた、最後の一本だけが欠けた陣だった。
紙の下の光と、寸分違わず重なっていた。
「――ベル、ほどいて」
ヘルガの声が掠れていた。
ベルが目を開けて、紙の上を見た。固まった。
紙の下で、指がほどけた。光がふっと消えた。
砂は、動かなかった。陣の形のまま、紙の上に残っていた。
部屋の中が、しんと静まり返っていた。研究者たちが、いつの間にか卓の周りを囲んでいた。
誰も、何も言わなかった。
「……引かれた」
ヘルガがようやく口を開いた。
「陣に、引かれたのよ。この砂」
女は、震える指で黒い陣の縁をなぞった。
触れても、もう砂は動かなかった。
「魔素、って分かる?」
ヘルガは顔を上げずに訊いた。
蓮は首を振った。ベルも、少し迷ってから首を振った。
「魔法の源よ。体の中にある、目に見えない力の粒。私たちはそう呼んでる。……人の体にも、魔物の体にも、少しずつ溜まってる。魔法を撃つ時は、頭の中で陣を組んで、その通りに手で編む。編み上がった陣に、体の中の魔素が勝手に引き寄せられて、陣の形の通りに溢れ出す。それが魔法」
ベルが、小さく頷いていた。今朝、フィールに教えていたことと同じだった。
「だから陣を知らなければ、魔法は使えない。……第四部隊の仕事は、魔物の魔法を何百回も見て、その陣を設計図に起こすこと。壁に貼ってあるのは、全部それ」
女は、黒い陣の縁を指でなぞった。
「陣は、魔素を引き寄せる。編みかけでも、少しは。……その陣に、砂が引き寄せられた」
ヘルガは顔を上げた。その目が、ぎらぎらと光っていた。
「この砂は、魔素に引かれる。……いいえ」
女は、自分の言葉を確かめるように、ゆっくりと言った。
「この砂そのものが、魔素なのかもしれない」
「……悪魔の体が、魔素でできてる、ってことですか」
蓮が訊いた。
「分からない」
ヘルガは首を振った。
「分からないけど。……そう考えると、いろんなことが繋がる」
女は、核と砂を並べた。
「体の中に陣を刻んだ石がある。体は、陣に引かれる砂でできてる。……石が割れたら、体はもう陣に引かれていられなくなって、ばらばらの砂に戻る」
キネシスが、黙って核を見下ろしていた。
「斬り落とされた手が、何日も腐らずに残っていたのも」
「石と繋がってたから。石がある限り、離れてても、砂は砂に戻らなかった」
ヘルガは、紙の上の黒い陣を見つめていた。
「……この部隊は何百年も、魔物の骨を割って、起点を探してきた。悪魔の体なんて、誰も触ったことがなかった。触れる前に、みんな死んだから」
女の声が、少しだけ震えていた。
「それが今、この卓の上にある」
ベルは自分の左手を見下ろしていた。
さっき、砂を引き寄せた手のひらを。
蓮はベルの横顔を見ていた。それから、自分の手のひらを見た。
何もない、ただの手のひら。
砂漠の窪地で、この手は剣を通した。窓のない悪魔に。
――あの時、自分の中で、何が起きたのか。
胸の奥で、何かがほどけた。それが何だったのか、蓮はまだ誰にも言っていなかった。
言えなかった。
キネシスの手が偶然、踵に触れていた。
それで窓が開いていた。皆がそう信じている。自分でも、そう信じようとしている。
だが。
悪魔の体が、陣に引かれる砂でできているのなら。
悪魔の殻も、あの石から来ているのなら。
あの殻を、窓もなしに貫いたものは。
蓮は、その先を考えるのをやめた。まだ、怖かった。
その夜、蓮は眠れずに宿舎を抜け出した。
月明かりの中庭に、人影が一つ。フィールだった。左手を突き出して、一人で立っていた。
蓮は回廊の柱の陰で、足を止めた。
フィールの唇が動いていた。
一。
手のひらの先に、淡い光。
二。
円が、半分。
三。
光が、揺らいだ。
消えかけた。
フィールの唇が、もう一度動いた。声には出ていなかった。だが、蓮には分かった。
――窓。
数えるのをやめたのではなかった。
数えることと、陣を編むことを、一つにしたのだ。一つ数えるごとに、一本編む。
窓が開いている間に張る盾の陣を、数と一緒に。
消えかけた光が、踏みとどまった。
円が、閉じた。
フィールの手のひらの前に。
薄い、薄い光の膜が、浮かんでいた。
ほんの一瞬。一呼吸にも満たない間だけ。それから、ふっと消えた。
フィールは、自分の手のひらを見つめたまま、長い間動かなかった。
それから、ゆっくりと手を下ろした。肩が、小さく震えていた。笑っているのか、泣いているのか。柱の陰からは、分からなかった。
蓮は声をかけずに、そっと宿舎へ戻った。
明日の朝、ベルにだけは、何も言わずにおこうと思った。フィールが自分で言うまで。




