同じ日
第四部隊の灯りは、その夜、一度も消えなかった。
翌朝、特務班が建物を訪ねると、ヘルガは昨日と同じ服のまま、卓の前に座っていた。
目の下に、キネシスに負けないほどの隈ができていた。
卓の上には、黒い石と、何十枚もの紙が散らばっていた。
紙の一枚一枚に、細い線が描き写されていた。
「……寝てないんですか」
フィールが訊いた。
「寝られるわけないでしょ」
ヘルガは顔も上げずに言った。
「石の中に魔法陣があるのよ。この部隊は何百年も、魔物の骨を割って、角を削って、起点を探してきたけど。……こんなもの、誰も見たことがない」
女は、描き写した紙の一枚を持ち上げた。円の中に円があり、その間を細い線が埋め尽くしていた。途中で、線が途切れていた。
「ひびのせいで、全部は見えない。見えるところだけ写したけど、半分もないわね」
「その陣は、何の魔法なんですか」
蓮が訊いた。
ヘルガは、紙を卓に戻した。
「分からない。私たちの知ってる陣と、書き方が違いすぎる」
それから、蓮を見た。
「でも、あなたは見たことがある。……昨日、そういう顔をしてた」
蓮は少しだけ迷って、それから頷いた。
「砂漠で。アスモデウスが最後に撃った光の、足元の紋様に、似ています」
「爆裂ね」
ヘルガの目が細められた。
「どれくらい見てたの、その紋様」
「数秒です」
ヘルガは、ふうと息を吐いた。
「数秒じゃ、形までは――」
「五重でした」
蓮は言った。
ヘルガの言葉が止まった。
「北門で見た時は、三重でした。砂漠の時は、一重、二重、三重、四重、五重と広がって……五重目から先は、数えきれなくなりました。円の内側を、線が埋めていく方が速かったので」
部屋の中が静まり返った。研究者たちが、手を止めてこちらを見ていた。
「……数えてたの? あの光の前で?」
「数えるのは、得意なので」
蓮は少しだけ肩をすくめた。
「数えてないと、怖くて動けなくなるんです」
ヘルガは、しばらく蓮の顔を見ていた。それから、新しい紙を一枚と羽根ペンを、蓮の前に滑らせた。
「描いて。覚えてる分だけでいい」
蓮はペンを取って、目を閉じた。砂漠の窪地を思い出す。
悪魔の足元の砂。生まれていく円。
一重。二重。三重。四重。五重。その内側を走る線。
描いた。円を五つ。内側の線は、覚えている分だけ。三本。四本。途中で途切れる線。
ペンを置いた。
ヘルガがその紙を取り上げて、昨夜描き写した石の中の陣と並べた。
研究者たちが、卓の周りに集まってきた。
「……円の数が、同じだ」
若い男が呟いた。
「石の中も、見えてる範囲で五重。いや、六重目の端が少し見える」
「線の向きも」
別の女が、指で紙の上をなぞった。
「この三本目。外から二つ目の円で折れ曲がってる。石の方も、同じところで折れてる」
ヘルガは、長い間、二枚の紙を見比べていた。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
「……悪魔は、陣を体の中に持ってるんだわ」
部屋の空気が、ぴんと張り詰めた。
「私たち人間が魔法を撃つ時は、毎回、頭の中で陣を組んで、手で一から編み直す。だから三秒かかる」
ヘルガは、黒い石を手に取った。
「でも悪魔は、編み直さない。陣が、最初からここに刻んである。……あとは、手のひらを通して、それを外に写すだけ」
「でも」
ベルが口を挟んだ。
「砂漠の爆裂だって、すぐには撃てなかったわよ。足元に紋様が広がるのに、何秒もかかってた」
「大きいからよ」
ヘルガはあっさりと言った。
「窪地いっぱいに広がる陣。写すだけでも時間がかかる。……でも、小さな陣なら」
女は黒い石を卓に置いて、壁一面の魔法陣を見渡した。
「もし、人間も陣を、どこかに刻んでおけたら」
誰も、何も言わなかった。だが、部屋の中の誰もが、同じことを考えているのが分かった。
三秒。
窓が開いてから閉じるまで、悪魔は三秒も待ってくれない。
フィールが、ベルの手のひらを見ていた。それから、自分の手のひらを見下ろした。
「……ヘルガさん」
「なに」
「盾の魔法は」
フィールの声は、少しだけ硬かった。
「私にも、覚えられますか」
ベルが、ぱっとフィールを振り返った。
ヘルガは、フィールの手のひらをちらりと見た。
「試すだけなら、手のひらがあれば誰でも」
短く答えた。
「ただ、使えるかどうかは別。半分の人は、どれだけやっても火一つ出ない。生まれつきよ」
それから、少しだけ首を傾げた。
「……でも、従士で魔法を使う人なんて、ほとんどいないでしょう。なんでか、知ってる?」
フィールは答えなかった。
ヘルガは指を折って数えた。
「使えたとしても、三秒も棒立ちになるくらいなら、剣を振った方が早い。撃てても、人の体じゃ一発か二発で息が切れる。悪魔にも貴族様にも弾かれる。おまけに、魔物の真似だって嫌がられる」
四本目の指を折った。
「それに、陣を一本も欠かさずに覚えて、その通りに編めるようになるまで、何か月もかかる。訓練所じゃ教えてもくれない。……覚えるだけ損だって、皆思ってるのよ」
ヘルガは、折った指を開いた。
「それでも、覚える?」
「覚えます」
フィールは即答した。
「砂漠で、ベルが編んでたみたいに。……窓の中に、盾を張りたいんです」
ベルが、何か言いかけて口を閉じた。それから、少しだけ得意げに胸を張った。
「教えてあげてもいいわよ」
「お願いするわ」
フィールがあっさり言った。
ベルは、拍子抜けしたように瞬きをして、それから慌てて顔を背けた。
「……ちゃ、ちゃんと毎朝の稽古の後でね!!」
ロイが、リアムの脇腹を肘で突いた。リアムが、口を押さえて肩を震わせていた。
昼過ぎ、館から従士が一人駆けてきた。キネシスからの使いだった。
「特務班の皆様、すぐに館へお戻りください。……サナトス様から、伝書鳥が」
執務室で、キネシスが一枚の紙を手にしていた。サナトスの字だった。細く、丁寧で、少しだけ震えた字。
キネシスは、それを皆に読み上げた。
――北門の戦いの後、氷の上に残された悪魔の右の手と、斬り落とされた左の翼を、館の地下の冷室に納めておりました。
――メンタル殿のお目に触れぬよう、誰にも告げずに。
――お知らせが遅れたことを、お詫びいたします。この老いぼれは、それを証として残しておくつもりでおりました。
蓮は、息を呑んだ。
北門で、蓮が斬り落とした手首。ヴァイスが根元から斬り落とした翼。氷の上に落ちたまま、その後どうなったのか、誰も気にしていなかった。気にしていられるような夜ではなかった。
サナトスだけが、拾っていたのだ。
キネシスは、続きを読んだ。その声が、少しだけ低くなった。
――最後に冷室を確かめましたのは、皆様が北の砂漠へ発たれる前の晩でございました。手も翼も、斬り落とされた夜のまま、腐りもせずにそこにございました。
――先日、皆様に証としてお見せしようと、久方ぶりに冷室を開けましたところ。
――手も、翼も、黒い砂に変わっておりました。
――砂は、そのまま壺に納めてございます。
執務室が、静まり返った。
「……北門から、ずっと腐らずに残っていたものが」
キネシスが、手紙から顔を上げた。
「我々が砂漠へ発った夜から、今までの間に、砂になった」
青年は、懐から帳面を取り出して頁をめくった。指が、一つの頁の上で止まった。
北の外周の砂漠。悪魔アスモデウス、討伐。
「その間に起きたことで、手と翼に関わりがあるとすれば」
キネシスは、それ以上言わなかった。言わなくても、皆に分かった。
蓮は、自分の手を見下ろしていた。
あの日、剣先の向こうで、黒い石が割れた。
悪魔の体が、指先から崩れていった。
おそらく、その同じ時に。遠いサナトリアの、地下の冷室で。
とうに体から斬り離されていたはずの手と翼が。
同じように、崩れていたのだ。
「斬り離されても」
フィールが、小さく呟いた。
「まだ、繋がっていた……?」
キネシスは、帳面を閉じた。
「サナトリアへ跳ぶ」
青年は言った。
「その砂を、第四部隊へ持ってくる。……ヘルガにも、見せなければならない」
蓮は頷いた。頭の中で、一つの考えが形を結びかけていた。
手も、翼も、斬り落とされたまま、北門の氷の上で何日も腐りもせずに残っていた。
それが、あの石が割れた日に、一緒に崩れた。
あの黒い石は、悪魔の体のどこかにあるものではない。
悪魔の体の全部が、あの石に繋がっていたのだ。手も。翼も。そして、あの見えない殻も。
――魔殻も、あの石から来ていたのだとしたら。
蓮はそこで、考えるのをやめた。それ以上は、まだ分からなかった。
ただ、背中のどこかが冷たかった。
自分の胸の奥にも、何かがある気がした。砂漠の窪地で、ほどけた何かが。




