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一呼吸半

 白い両手が、目の前にあった。指の細い、柔らかそうな手だった。


 キネシスは、その手を見下ろした。それから、深く頭を下げた。自分の両手は、体の脇に下ろしたまま。


「お祝いのお言葉、痛み入ります、メンタル殿」


 顔を上げて、白い布を巻いた右の手首を、少しだけ持ち上げて見せた。


「申し訳ない。砂漠で、悪魔にこの手首を打たれまして。……まだ、思うように動かないのです」


 メンタルの両手が、宙で止まった。ほんの一瞬。サナトリアの広場で、サナトスの前で止まった時と同じように。


「まあ」


 女は眉を寄せた。心から気の毒そうな顔だった。


「悪魔に。……それは、お辛かったでしょう」


「お気遣いなく」


「では」


 メンタルは、差し出した手の片方を引き、もう片方を少しだけ横へずらした。


「左のお手は、いかが」


 蓮の喉が、ひくりと鳴った。キネシスの左手には、何も巻かれていなかった。


 キネシスは、自分の左手を見下ろした。それから、困ったように笑った。


「左も、倒れた時に砂の上で擦りむきまして。……悪魔と戦うと、どこもかしこも傷だらけになるものですね」


 嘘だった。左手には、傷一つない。


 メンタルは、しばらくキネシスの左手を見つめていた。それから手を引いて、柔らかく微笑んだ。


「本当に。ご無理をなさらないでね」


 そして、ふわりと一歩近づいた。白い衣の袖が揺れた。


 女の右手が、キネシスの肩に。


 そっと。


 添えられた。


「せめて、労わせてくださいな」


 蓮は数えた。


 一。


 メンタルの唇が、かすかに動いていた。キネシスの耳元に、何かを囁いている。蓮の位置からは、半分しか聞き取れなかった。


「……悪魔に触れても……何も、変わりませんでしたわね……」


 肩から。あの手が触れた所から。何かが、染み込んでいく。


 一呼吸目は、肩。二呼吸目で、胴。その先に、頭。


 一。


 半。


「――どうぞ、中へ」


 キネシスが、身を翻した。


 肩の手を払うのではなかった。客を館の中へ招く主人の、ごく自然な所作で、くるりと半身を返して、館の入り口へ手を差し向けた。


 白い手が、キネシスの肩から外れた。宙に、残った。


「お茶の用意をさせております。遠いところをお越しいただいたのですから」


 キネシスは、穏やかに言った。顔は笑っていた。


 蓮には見えていた。青年の背中の服が、汗で張りついているのが。


 メンタルは、宙に残った自分の手をしばらく見つめていたが、やがて、ゆっくりと下ろした。


「……ありがとう、キネシス殿」


 微笑みは、少しも崩れていなかった。






 館の応接間で、茶が出された。メンタルは、出された茶を美味しそうに飲んだ。窓の外の見張り塔を褒め、庭の手入れを褒め、侍女の淹れた茶の香りを褒めた。


 キネシスは、それに一つずつ礼を返した。蓮は、キネシスの椅子の斜め後ろに立っていた。従士の顔をして。何も知らない顔をして。


「アスモデウスは、どのように?」


 茶器を置いて、メンタルが訊いた。何気ない口調だった。


「報告にあった通りです」


 キネシスは答えた。


「タイタン殿が組みつき、テルモ殿が焼き、私が跳んで翻弄した。……三人がかりで、ようやく」


「三人で」


「三人で」


 メンタルは、小さく頷いた。


「素晴らしいわ。……それに、斥候の方が一人、亡くなられたのね。報告に、お名前がありました」


 キネシスの指が、わずかに動いた。


「ユーリ、と」


「……ええ」


「貴族の報告に、従士の名前。珍しいことをなさるのね」


 メンタルは、首を傾げた。責める口調ではなかった。ただ、珍しいものを見つけた子どものような声だった。


「先代様は、なさらなかったわ」


「私は、まだ先代のようにはできませんので」


 キネシスは言った。


「せめて、名前くらいは」


 メンタルはしばらくキネシスを見つめていたが、やがて、また微笑んだ。


「お優しいのね」


 茶が冷めかけた頃、メンタルが思い出したように言った。


「そういえば。先日、タイタン様の館にも伺いましたの」


 キネシスの手が、茶器の上で止まった。蓮も、息を止めた。


「タイタン様、手のひらが真っ黒でしたわ。墨で」


 女は、くすくすと笑った。


「書き物にお目覚めになったのですって。毎晩、日記をおつけになっているとか。……あの方が、日記」


 笑い声は、楽しげだった。


「握手をしようとしたら、汚れておりますので、と。おかしいでしょう?」


「……タイタン殿らしい」


 キネシスは、かろうじてそれだけ言った。


「ええ。本当に」


 メンタルは、窓の外に目をやった。


「サナトス様も、近頃はずっと手がお痛みだそうですし。テルモ様にはまだお会いできていないけれど」


 女の目が、ゆっくりとキネシスに戻った。


「……皆様、手を、とても大事になさるのね」


 応接間が、静まり返った。侍女が茶を注ぎ足しに来て、空気の重さに気づいたように、そそくさと下がっていった。


 キネシスは、メンタルの目を見返した。逸らさなかった。


「悪魔と戦うと、手を傷めますので」


「ええ。そうね」


 メンタルは頷いた。


「悪魔は、怖いもの」


 白い指が、茶器の縁をなぞった。


「次の巡回の頃には、皆様のお手も、きっと治っていますわね」


 キネシスは答えなかった。メンタルも、答えを待たなかった。






 帰り際、中庭にまた縦の線が引かれた。門が開いた。向こう側に、白い石の回廊と、飄々とした男の笑みが見えた。


 メンタルは、門の前で振り返った。キネシスを見て、それから、キネシスの斜め後ろに立つ蓮を見た。


「あなた」


 蓮の心臓が、跳ねた。


「サナトリアの集会にも、いらしたわね」


「……はい」


「お名前は?」


 蓮は、少しだけ迷った。迷ったと気づかれないように、すぐに答えた。


「蓮です」


「レン」


 メンタルは、その名を口の中で転がすように繰り返した。その目が、蓮の顔をじっと見つめていた。何かを確かめるように。何かを、書き込もうとするように。


 蓮は、目を逸らさなかった。何も知らない従士の、ぼんやりとした目をして。


 何も起きなかった。頭の中は、静かなままだった。砂漠の窪地も。ユーリの背中も。フィールの涙も。


 何一つ、消えていなかった。


「……そう」


 メンタルは小さく首を傾げ、それから微笑んだ。


「覚えておきますわ」


 白い衣が翻った。女は、門の向こうへ消えていった。門が閉じ、中庭には、ただの空気だけが残った。


 キネシスが、その場に膝をついた。


「キネシス様!」


「……平気だ」


 青年は、砂の上に両手をついていた。肩が、大きく上下していた。


「蓮。……何呼吸だった」


「一呼吸半です」


 蓮は答えた。


「二呼吸目に入る前に、離れました」


 キネシスは目を閉じて、長く息を吐いた。


「……肩から、何かが入ってくるのが分かった。冷たい水が、染みてくるような」


 青年は、自分の左の肩を押さえた。


「あと半呼吸、遅れていたら」


 それ以上は、言わなかった。






 その夜、キネシスは帳面に書いた。蓮も、横で見ていた。


 ――メンタル殿、来訪。右の手首、左の手を断る。肩に触れられる。一呼吸半。

 ――囁かれた言葉。「悪魔に触れても、何も変わりませんでしたわね」。

 ――タイタン殿の墨の手、サナトス殿の痛む手、ともにご存じ。

 ――あの方は、数えている。


 キネシスは、そこでペンを止めた。それから、もう一行書き足した。


 ――蓮の名を、訊かれた。


 蓮は、その一行を見ていた。


「明日の朝、読み返す」


 キネシスが言った。


「何か一つでも、覚えていないことがあれば」


「その時は、俺が話します」


 蓮は言った。


「全部」


 キネシスは蓮を見て、小さく頷いた。






 翌朝、キネシスは帳面を開いた。昨夜の頁を、一行ずつ指でなぞった。長い時間がかかった。最後の行まで来て、顔を上げた。


「……全部、覚えている」


 蓮は、息を吐いた。知らないうちに、ずっと止めていたらしかった。


「一呼吸半なら、届かない」


 キネシスは帳面を閉じた。


「決まりは、使える」


 それから、机の引き出しを開けて、白い布の包みを取り出した。砂漠の窪地で拾い上げた、ひび割れた黒い石。キネシスは、それを机の上に置いた。


「特務班が戻ったら、これを第四部隊へ持っていく」


 青年は言った。


「悪魔が何でできているのか。……あの方に消されないうちに、確かめておきたい」


 白い布の隙間から、黒い石が鈍く光っていた。アスモデウスが最後に残した、拳ほどの大きさの何か。


 蓮は、その石を見つめていた。あの悪魔の胸の奥で、剣先が触れた時の、硬い手応えを思い出していた。


 鍵が、開きましたね。


 あの言葉の意味も、もしかしたら、この石の中に。


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