祝いの手紙
井戸から助け出した女の子は、館の侍女たちに預けられた。名前を訊くと、少しだけ迷ってから「ニナ」と答えた。
ベルは毎晩、客間を抜け出してニナの寝床を見に行った。フィールはそれを知っていて、何も言わなかった。
三日後の朝、キネシスの執務室に、一通の手紙が届いた。白い封筒だった。封蝋に押された紋を見て、キネシスの手が止まった。「洗脳」の家の紋だった。
キネシスは封を切らずに、しばらくそれを見つめていた。それから、蓮とフィールを呼んだ。
手紙は短く、美しい字で書かれていた。
――北の砂漠にて、悪魔アスモデウスを討たれたとのこと。心よりお祝い申し上げます。
――ちょうど東の国々を回る用がございますので、その折に「移動」の館へ立ち寄り、直接お祝いを申し上げたく存じます。
――七日後の昼に、ゲート殿の門にて伺います。
――メンタル
「……七日後」
フィールが呟いた。声が硬かった。
「断れないのですか」
「断れば、断ったこと自体が知らせになる」
キネシスは手紙を机に置いた。
「悪魔を討った貴族に、他の貴族が祝いに来る。当たり前のことだ。……それを断る理由が、私にはない」
「病気、とか」
「七日前から病だと言えば、七日後にもう一度、見舞いの手紙が来る」
キネシスは疲れたように笑った。
「サナトス殿が、この数年それで逃げてこられた。だが、あの方は四百五十年生きた年寄りだ。私は継いで一月あまりの若造だ。……同じ手は使えない」
蓮は手紙を見下ろしていた。
七日後の昼。ゲートの門。門をくぐって、メンタルが来る。この館に。
「来るのは、試すためです」
蓮は言った。キネシスが顔を上げた。
「お祝いは本当かもしれません。でも、それだけじゃない。……手を取るかどうかを、見に来るんだと思います」
「だろうな」
キネシスは頷いた。
「ならば、決まり通りにやるしかない。触れられたら数える。二呼吸で離れる。一人では会わない」
「それだけじゃ、足りません」
蓮が言った。二人が、蓮を見た。
「あの方の力は、人間には、触れなくても効きます」
フィールの肩が、ぴくりと動いた。
「貴族の方には、触れないと届かない。でも、人間は違う。目に入れば、それで届きます。……エスクーダでも、サナトリアの集会でも、あの方は皆を見渡して、語りかけていました。言葉にしたのは、きっと、深く刻むためです。黙って見るだけでも、消すことはできるはずです」
蓮はフィールを見た。
「特務班の皆は、窓を知っています。……あの方の目に入っただけで、何も言われないまま、消されるかもしれない」
執務室が静まり返った。フィールの顔から、血の気が引いていた。
「……じゃあ」
「七日後、特務班はこの館にいてはいけない」
キネシスが言った。青年の声は静かだった。
「館だけではない。この街にいるべきではない。……あの方が通りを歩くだけで、目に入った者は皆」
「どこへ行けばいいんです」
フィールが訊いた。
キネシスは少し考えた。
「ニナの母方の親類が、南の町にいると分かった。……特務班に送り届けてもらう。行って帰るのに、ちょうど十日ほどかかる」
フィールは頷きかけて、止まった。
「キネシス様は」
「私は残る。招いた側が館にいなくてどうする」
「一人では会わない、と決めたはずです」
「分かっている」
キネシスが蓮を見た。フィールも、蓮を見た。
「……俺が残ります」
蓮は言った。
フィールが、蓮の腕を掴んだ。
「何言ってるの。あなたも人間でしょう。あの方の目に入ったら――」
「消されなかった」
蓮は静かに言った。
「エスクーダの後も。サナトリアの集会の時も。……俺だけ、何も消されなかった」
フィールの手が、止まった。
知っていたはずだった。消された窓を、もう一度教えてくれたのは蓮だった。北門で何があったのかを話してくれたのも。
覚えていたから、話せたのだ。
「なぜなのかは、分からない」
蓮は続けた。
「でも、もう二度、消されなかった。三度目も、たぶん大丈夫だ」
「たぶん、って」
「たぶん、だ」
フィールは蓮の腕を掴んだまま、しばらく動かなかった。それから、ゆっくりと手を離した。
「……キネシス様の隣で、数える役ね」
「うん」
「呼吸を、ちゃんと数えて。……一つでも多く数えたら、許さないから」
「数えるのは、得意だから」
フィールは、少しだけ笑った。笑おうとして、うまく笑えていなかった。
「あたしも残る!!」
その日の夕方、執務室の扉が勢いよく開いた。ベルだった。どこで聞きつけたのか、頬を真っ赤にしていた。
「レンが残るなら、あたしも残る!!」
「駄目だ」
キネシスと蓮が、同時に言った。
ベルは二人を交互に睨んだ。
「なんでよ!!」
「君は窓を知っている」
キネシスが言った。
「あの方の目に入れば、消される。……それだけではない。アクアリス殿の娘が、ここで何をしていたのかを、あの方は知りたがるだろう」
「消されないかもしれないじゃない!! レンだって消されなかったんでしょ!?」
「蓮は、なぜか消されなかった。君が消されないとは限らない」
「でも!!」
「ベル」
蓮が言った。
ベルが口をつぐんだ。
「ニナを送ってやってくれ。……あの子、ベルに一番懐いてる」
ベルは唇を噛んで、長い間、蓮を睨んでいた。それから、ふいと顔を背けた。
「……ずるい。そういう言い方」
「ごめん」
「謝んないでよ」
ベルは扉の方へ歩いていった。出ていく前に、振り返らずに言った。
「帰ってきた時、レンが一つでも何か忘れてたら、許さないんだから」
扉が閉まった。
蓮は、少しだけ目を伏せた。フィールと、同じことを言っていた。
五日後の朝、特務班はニナを馬車に乗せて南へ発った。
フィールが最後に振り返り、館の門の前に立つ蓮を、まっすぐに見た。何も言わなかった。ただ、右の拳を左の胸に当てて、小さく頭を下げた。
蓮も、同じ礼を返した。馬車が角を曲がって、見えなくなった。
その夜、キネシスは館の者たちを集めた。侍女。料理番。門番。従士。窓のことを何も知らない者たちだった。
「二日後、洗脳のメンタル殿がお見えになる」
キネシスは言った。
「丁重にお迎えしろ。何も隠すことはない。……お前たちは、ただいつも通りにしていればいい」
何も知らない者は、何も消されない。それが、この館で一番安全なことだった。
二日後の昼。館の中庭で、蓮はキネシスの斜め後ろに立っていた。貴族付き従士の制服を借りて、腰に剣を下げて。
キネシスの右の手首には、白い布が巻かれていた。砂漠で、アスモデウスに叩かれて固められた手首だった。もう痛みはない。だが、誰もそれを知らない。
昨夜、二人で決めたことだった。
――手首を痛めておりまして。
悪魔に打たれた傷なら、誰も疑わない。
中庭の真ん中の空間が、揺らいだ。
見えない何かが、そこに縦の線を引いたように。線が、扉のように左右に開いていく。向こう側に、別の場所の景色が見えた。白い石の回廊。そこに立つ、細身の男の姿。飄々とした笑み。
ゲートだった。
ゲートは門のこちら側には来なかった。向こう側から、軽く手を上げただけだった。
その脇を抜けて、白い衣装の女が門をくぐってきた。長い髪。穏やかな笑み。ゆっくりとした足取りで、中庭の砂を踏んだ。
メンタル。
蓮の心臓が、一度だけ大きく跳ねた。
サナトリアの集会の日と同じ顔だった。同じ笑みだった。あの日、この笑みのまま、何百人もの記憶を書き換えた。
メンタルは中庭を見渡した。侍女たちを。門番を。従士たちを。そして、キネシスの斜め後ろに立つ蓮を。
ほんの一拍だけ。
その目が、止まったような気がした。
蓮は、目を逸らさなかった。ただの従士の、何も知らない顔をして。
メンタルの目は、何事もなかったように蓮の上を通り過ぎ、キネシスの前で止まった。
「キネシス殿」
柔らかな声だった。
「この度は、本当に、おめでとうございます」
メンタルが、一歩近づいた。
そして。
両の手を。
ゆっくりと。
キネシスへ、差し出した。




