持ち去る者
村は、静かだった。
「移動」の国の東の外れ。外壁の向こう、外周の砂漠を少しだけ切り拓いた、小さな開拓村だった。
キネシスが跳んで降り立ったのは、村の入り口の物見台の上だった。見下ろすと、家が二十ほど。井戸が一つ。囲いの中に家畜小屋。
動くものは、何もなかった。
本来なら、調査に貴族が出向くことはない。調査網の斥候が現地を見て、報告を上げれば済む。だが今朝、報告の最後の一行を読んだキネシスは、自分も行くと言った。
悪魔がまだ近くに残っていたら、窓を開けられるのは貴族しかいない。特務班だけを送れば、見つけたところで何もできない。それに、悪魔の調査は、もともと「移動」の当主が負う務めだった。
「……降りるぞ」
キネシスの声が低かった。
特務班が物見台の梯子を降りていく。フィール。蓮。ロイ。ヴァイス。ミラ。リアム。そして、ベル。
ベルにとっては、初めての任務だった。ベルは腰の細身の剣の柄を握りしめたまま、唇を固く結んでいた。
囲いの中に、家畜が倒れていた。豚に似たトートスが十数頭。鶏に似たコースートが、数えきれないほど。どれも、死んでいた。首を折られたもの。腹を裂かれたもの。
だが、食い荒らされてはいなかった。ただ殺されて、そのまま転がされていた。
「……食ってねえ」
ロイが顔をしかめた。
「魔物なら、まず家畜を食うはずだろ」
蓮は、その言葉に聞き覚えがあった。国境の集落へ向かう道で、フィールが同じことを言っていた。
――変だと思わない? 魔物なら、まず家畜を食べるはずよ。
隣で、フィールが家畜の死骸を見下ろして、眉を寄せていた。何かを思い出しかけて、掴めない顔だった。フィールの指が、こめかみに触れかけて、止まった。
家を一軒ずつ見て回った。扉が、外から破られていた。蝶番ごと引きちぎられたもの。真ん中から叩き割られたもの。
中は荒れていた。卓が倒れ、器が割れ、寝台の毛布が床に引きずり出されていた。
だが、血がほとんどなかった。
「殺してから運んだんじゃねえな」
リアムが床に膝をついて、指で板の上をなぞっていた。
「引きずった跡がある。……寝てるところを、そのまま掴んで連れてった」
「生きたまま、ってこと?」
ベルの声が、少しだけ上ずった。
リアムは答えず、ただ立ち上がって、扉の外を見た。
屋根に、爪痕があった。藁葺きの屋根が、大きな何かに掴まれたように、深く抉れていた。一軒だけではない。村のあちこちの屋根に、同じ痕があった。
「空から来て、屋根に降りて、扉を破った」
リアムは屋根を見上げたまま言った。
「で、空から帰った。……地面に足跡がほとんどねえ」
村の東の端。家が途切れ、砂丘が始まる場所に、足跡があった。大きな足跡だった。人の倍はある。爪の痕が砂に深く刻まれていた。
リアムがしゃがみ込んで、それを一つずつ指で数えていった。しばらく黙っていたが、やがて立ち上がった。
「四つ」
短く言った。
「四匹分の足跡が、ここで揃って、ここで消えてる。……ここから飛んだんだ」
足跡は、東を向いていた。外周の砂漠の、さらに奥へ。
皆が、その方角を見た。砂丘が、陽炎の向こうにどこまでも続いていた。
「……ユーリなら、もっと早く見つけてた」
リアムがぽつりと言った。
誰も何も言わなかった。
「追いましょう!!」
ベルが叫んだ。
「まだ近くにいるかもしれないじゃない!! 連れてかれた人たち、生きてるかもしれないんでしょ!?」
「駄目」
フィールが言った。
「なんでよ!!」
「四匹よ」
フィールはベルを見なかった。東の砂漠を見ていた。
「アスモデウス一体に、貴族様が三人がかりだった。……今、ここにいる貴族様は、キネシス様お一人」
ベルの口が止まった。
「それに、この足跡はもう何日も前のもの。風で崩れかけてる」
フィールはようやくベルを見た。
「窓を開けられる方が一人で、どうやって四匹と戦うの」
ベルは唇を噛んだ。何か言い返そうとして、言葉が見つからない顔をしていた。
キネシスが、東の砂丘を見たまま口を開いた。
「アスモデウスは、昼でも構わず歩いてきた。北の集落でも、開拓地でも、隠れもしなかった」
青年の声は低かった。
「この四匹は、夜に来て、夜のうちに去った。屋根から降りて、屋根から飛んだ。……地面にほとんど足をつけていない」
「……用心してる、ってこと?」
ベルが訊いた。
「一体、討たれたからな」
キネシスはそれだけ言って、拳を握りしめた。
その時だった。
ミラが、ふいに顔を上げた。村の真ん中の方を見ていた。
「……今」
小さな声だった。
「音が、した」
皆が息を止めた。風の音。砂の擦れる音。
そして、かすかに。
こつん、と。
石を叩くような音。村の真ん中の、井戸の方から。
蓮は走って、井戸を覗き込んだ。暗かった。枯れ井戸だった。水の匂いがしない。
底の方に、小さな影が見えた。膝を抱えて、うずくまっていた。手に、小石を握っていた。
「――誰かいる!!」
蓮が叫んだ。
特務班が井戸に駆け寄ってきた。リアムが縄を下ろし、ロイとヴァイスが縄を握った。
「掴まれるか」
蓮は井戸の底に向かって声をかけた。
返事はなかった。影は、動かなかった。怯えている。
蓮は縄を握って、井戸の縁に足をかけた。
「蓮」
フィールが止めた。
「私が行く。……女の方が、怖がらないかもしれない」
蓮は少し考えて、頷いた。
フィールが縄を伝って降りていった。しばらくして、井戸の底から、フィールの声が聞こえてきた。何を言っているのかは聞き取れなかった。低く、ゆっくりと、何度も同じことを繰り返していた。
やがて。
「――引いて」
ロイとヴァイスが縄を引いた。
フィールが上がってきた。その腕に、小さな女の子を抱えていた。七つか、八つ。顔も手足も、泥と砂で真っ黒だった。唇がひび割れていた。目だけが、大きく見開かれていた。
何日、あの底にいたのか。
ベルが自分の水筒の栓を抜いて、その場に膝をつき、女の子の口元にそっと当てた。
「ゆっくりよ。ゆっくり」
女の子は、ベルの水筒から水を少しずつ飲んだ。それから、急に咳き込んだ。ベルが背中をさすった。
「大丈夫。大丈夫だから」
ベルの声が、少しだけ震えていた。
しばらくして、女の子が初めて口を開いた。
「……お母さんが」
かすれた、小さな声だった。
「お母さんが、井戸に入れてくれたの。声を出しちゃだめって。……朝になるまで、出ちゃだめって」
「朝に、なったよ」
ベルが言った。
「もう、何回も朝になったの」
女の子は言った。
「でも、お母さん、迎えに来ないの」
誰も、何も言えなかった。
ベルが、女の子をぎゅっと抱きしめた。自分の顔を見せないように。
蓮は、女の子と同じ目の高さに膝をついた。
「……何が来たのか、見た?」
女の子はベルの腕の中で、小さく頷いた。
「黒い人」
「黒い人」
「羽が生えてた。空から来たの。……四人」
リアムの数と、同じだった。
「みんなを、担いでいったの。お父さんも、隣のおばさんも。……肩に、二人ずつ」
蓮の背筋が冷えた。
「みんな、まだ動いてた。叫んでた。……それで、東の方へ、飛んでいった」
生きたまま、持ち去った。何のために。
「それとね」
女の子が言った。ベルの腕の中から、蓮を見上げていた。
「あの人たち、しゃべってたの。井戸の上で」
「……なんて」
「よく分かんなかった」
女の子は首を振った。
「でも、一つだけ、覚えてる。何回も言ってたから」
小さな唇が動いた。
「『アスモデウス様の分も』って」
風が止んだ。村の中の音が、全部消えたように思えた。
キネシスが、ゆっくりと東の砂漠を振り返った。
フィールが、剣の柄に手をかけていた。
ミラが、弓を握りしめていた。
蓮は、女の子の言葉を頭の中で繰り返していた。
アスモデウス様の分も。
あの悪魔は、一体で来た。一体で来て、一体で礼をして、一体で砂になった。
だが、悪魔は一体ではない。ダインたちを殺した、あの夜の悪魔も。この村の人々を持ち去った、四つの影も。そして、その影たちが様をつけて呼ぶ何かも。
東の砂丘が、陽炎の向こうに揺れていた。
取り立ては、これで終わりではない。
東の砂漠の奥から、また夜が来る。




