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二頁目

 「移動」の国の館に戻ったのは、サナトリアを発って三日後だった。


 タイタンとテルモは、それぞれの国へ帰っていった。


 別れ際、タイタンは自分の左の手のひらを見せた。真っ黒に墨が塗られていた。


「爺さんの言う通りにしてみた。……汚れてっから、握手はできねえ。どうだ」


「毎日塗るのか」


 テルモが呆れたように言った。


「毎日塗る」


 巨漢は胸を張った。


「一行書くよりは楽だ」


 特務班は、館の従士宿舎に戻った。ベルも、そこへついてこようとした。


「あたしもこっちでいい。レンと同じとこがいい」


「駄目だ」


 キネシスが即座に言った。


「君は『水』の家の者だ。アクアリス殿からお預かりしている。……従士宿舎に寝かせたと知れたら、私が叱られる」


「叱られればいいじゃない」


「館の客間を用意させた」


「客間なんてつまんない!!」


「稽古は日の出からよ」


 フィールが横から言った。


「客間からでも、遅れないでね」


 ベルは口を開きかけて、閉じた。頬を膨らませたまま、客間付きの侍女に連れていかれた。廊下の角を曲がる前に、一度だけ振り返って蓮を睨んだ。


 従士宿舎に戻ると、寝台が一つ、空いたままだった。


 ユーリの寝台だった。






 その夜、キネシスは、先代の執務室に一人で立っていた。


 整然と積み上げられた書類の山。隅々まで整えられた机。窓の外の、見張り塔の灯り。


 何もかもが、ムーヴが最後にこの部屋を出た時のままだった。片づける気になれなかったのだ。


 壁の隅に、指一本がやっと入るほどの、小さな穴が一つ開いている。キネシスは手燭を穴の口に寄せ、膝をついて、片目を近づけた。


 闇の向こうに、机が一つ。その上に、分厚い革の本が一冊。


 跳んだ。


 ひやりとした空気が頬を撫でた。扉のない部屋。四方の壁のどこにも、扉の跡すらない。


 先代の葬儀の前夜に、一度だけここへ来た。それは覚えている。だが、その夜に何を読み、何を思ったのか。ぼんやりとしか、思い出せなかった。霧の向こうの景色のように。


 キネシスは、それが何を意味するのかを、もう知っていた。


 革の表紙を開いた。最初の頁。


 ――最初の頁には、確かめた事実だけを書くこと。


 その下に、何人もの違う筆跡で連なる、短い行。一行ずつ、指でなぞっていった。


 一 貴族は加護を持ち、いかなる攻撃も効かぬ。

 一 力を授かった当主は、授かった時の姿のまま、五百年を生きる。

 一 同じ力でも、継ぐ者によって、一日に振るえる量は違う。

 一 貴族同士が触れ合えば、加護は消える。触れた所より消え、全身に至るまで数呼吸を要す。

 一 貴族同士の争いで傷を負った貴族は、死なぬ限り、時をかけて癒える。

 一 貴族を癒やしの力で治すには、常の数倍の力を要す。

 一 一定の力は、大物の魔物の核、あるいは魔石に込めることができる。

 一 悪魔に触れられている間、貴族の加護は消える。

 一 悪魔に、貴族以外の攻撃は通じぬ。


 指が、最後の一行で止まった。


 悪魔に、貴族以外の攻撃は通じぬ。


 キネシスは、その一行を長い間見つめていた。


 イライザの剣が、エスクーダで届いた。蓮の剣が、北門で届いた。砂漠の窪地で、特務班の剣が、槍が、矢が、何度も届いた。


 自分の目で見た。自分の手で、窓を開けた。


 確かめた。


 キネシスは机の上の筆を取った。


 先代たちの行の下に、自分の字で書いた。


 一 悪魔に触れている間、悪魔の守りもまた消える。消えている間は、貴族以外の攻撃も通る。

   移動のキネシス、北の外周の砂漠にて、自ら確かむ。


 筆を置きかけて、もう一度取った。一つ上の行の脇に、小さく書き添えた。


 ――この一行は、誤りなり。


 消しはしなかった。


 何百年、先代たちが事実として受け継いできた一行だった。それが誤りだったことも、事実として残すべきだと思った。


 頁の最後の余白に、目が行った。何も書かれていない。キネシスはしばらく迷ってから、もう一行だけ書いた。


 一 記録も、間違うことがある。


 書き終えて、ふと、手が止まった。


 この言葉を、どこかで口にしたことがある気がした。この部屋で。この灯りの下で。


 思い出せなかった。


 頁の一番下に、古い字で、小さな一行があった。


 ――力と守りの細目は、二頁に記す。


 前に来た時も、この一行を見たはずだった。めくらなかった。なぜめくらなかったのかも、もう覚えていない。


 キネシスは頁をめくった。


 二頁目。最初の頁よりも、字が古かった。そして、整っていた。一人の手で、一度に書かれたように見えた。


 ――力と守りの細目。


 ――十四の力は、加護に対して三通りに働く。


 一 身の内に染みて働く力。

  癒やし、炎と氷、雷、浄め、止め、重さ、剛力、心を書き換える力。

  これらは相手の身の内へ届いて働く。ゆえに加護に阻まれる。加護ある者に用いるには、触れて加護を解き、解けた所から染み込ませるほかなし。


 一 場ごと運ぶ力。

  移動、これのみ。

  使い手の周りの場ごと運ぶ。加護なき者は、傍らにあれば共に運べる。加護ある者は場から弾かれるゆえ、触れねば運べぬ。


 一 場に立つ力。

  水、門、結界、明暗、幻。

  これらは相手の身ではなく、場そのものに立つ。ゆえに加護に関わらず、誰の目にも見え、誰の身をも等しく阻み、等しく濡らす。


 キネシスは、息をするのを忘れていた。一行ずつ、読み返した。


 身の内に染みて働く力。


 癒やし。サナトスが貴族を癒やす時、必ず触れている。北門でも。この館でも。


 炎と氷。テルモの炎は、窓が開くまで悪魔に届かなかった。開いた所にしか届かなかった。


 そして。


 心を書き換える力。


 キネシスの指が、その文字の上で止まった。


 心を書き換える力は、身の内に染みて働く。ゆえに、加護に阻まれる。加護ある者に用いるには、触れて加護を解き、解けた所から染み込ませるほかない。


 ――だから、両手で包むのだ。


 あの長い握手は、挨拶ではない。


 解けた所から、頭まで染み込ませるための時間だ。


 保管室で、蓮が言った推測が。四人で決めた、二呼吸の決まりが。何百年も前に書かれたこの頁の上で、そのまま事実として確かめられていた。


 場ごと運ぶ力。自分の力だ。人間は傍らにいれば運べる。貴族は触れなければ運べない。子どもの頃から当たり前のようにやってきたことの、理由が書いてあった。


 場に立つ力。水。門。結界。


 キネシスは、そこで眉を寄せた。


 結界。誰の身をも等しく阻む。加護があっても、阻まれる。王城の結界が、貴族を阻むことができたのは。


 ――王城の結界、か。


 青年は、そこで考えるのをやめた。今、考えるべきことではない。


 二頁目の最後の行は、こうだった。


 ――力を魔石と核に込める細目は、三頁に記す。


 キネシスは、そこで本を閉じた。三頁目をめくる力は、今夜はもう残っていなかった。


 懐から自分の帳面を取り出した。機密書は、この部屋から持ち出せない。この家の決まりだった。だが、自分の言葉で書き写すことはできる。


 身の内に染みる力。場ごと運ぶ力。場に立つ力。


 そして、その下に一行。


 心を書き換える力も、触れねば貴族には届かぬ。機密書に、そうある。


 これで、あの三人にも伝えられる。四人の決まりは、推測ではなく、何百年も前から確かめられていた事実の上に立つ。


 キネシスは帳面を閉じ、部屋の隅の穴に目を寄せた。穴の向こうに、先代の執務室の灯りが見えた。


 跳んだ。






 翌朝、蓮とフィールが執務室に呼ばれた。


 キネシスは机の前に座っていた。目の下の隈が、昨夜より濃くなっていた。だがその顔は、何かを読み終えた者の顔だった。


「話が二つある」


 青年は言った。


「一つは、後で四人に伝える。お前たちにも、帳面を見せる」


「もう一つは」


 フィールが訊いた。


 キネシスの手元に、今朝届いたばかりの紙が一枚あった。


「調査網からの知らせだ」


 キネシスはそれを二人の前に滑らせた。


「東の外周、開拓村が一つ、沈黙した」


 蓮は紙を見下ろした。短い報告だった。村の名前。日付。調べに入った斥候の名前。


 そして、最後の一行。


 ――家畜の死骸は残れども、村人の死体、一つもなし。


「……人だけが、いない」


 フィールが呟いた。


「アスモデウスは、狩った者を並べて残した」


 キネシスが言った。


「北の集落でも、開拓地でも。……だが、この村は違う。家畜は殺されたまま転がっている。人だけが、一人も残っていない」


 蓮の背中を、冷たいものが這い上がった。


 知っている。この報告を、知っている。


 この世界に来て間もない頃、第二部隊と向かった国境の集落。家畜は殺されて、死骸はそのまま。なのに、人だけが消えていた。道中で、フィールがそう言って眉を寄せていた、あの村。


 あの夜、ダインたちを殺した悪魔は。


 アスモデウスとは、違う姿をしていた。


「キネシス様」


 蓮の声が、わずかに掠れていた。


「この村に……悪魔は、一体だけですか」


 キネシスは答えなかった。答えを持っていなかった。


 窓の外で、見張り塔の灯りが、朝の光の中に白く溶けていった。


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