足す、一
翌朝、キネシスの部屋の卓に、二通の手紙が並んでいた。
一通目は、各国の貴族に宛てた報告だった。蓮は横から、その文面を読んだ。
北の外周の砂漠にて、悪魔アスモデウスを討伐す。
討伐に当たりしは、移動のキネシス、力のタイタン、炎氷のテルモの三名。
それだけだった。窓のことはどこにもない。従士の剣のことも。光の衣のことも。
ただ、その下に、もう一行だけ書き足されていた。
特務班、斥候ユーリ、戦死。
「……書くんですね」
蓮が言った。
「書く」
キネシスはペンを置いた。
「エスクーダの報告には、死んだ従士の名が一つもなかった。貴族三名による討伐。それだけだった。……イライザもクレベスも、紙の上ではいなかったことになっている」
青年は、その一行を指でなぞった。
「窓は書けない。だが、誰が死んだかまで消す理由はない」
扉が開いた。
「キネシス様、呼んだ?」
ベルだった。その後ろに、フィールが立っていた。二人とも、呼ばれた理由を知らない顔だった。
キネシスは二通目の手紙を手に取った。
「アクアリス殿に、もう一度手紙を書いた」
ベルの肩がぴくりと動いた。
「砂漠でいただいた返事は、『好きにさせてやってくれ』だった。あれは、あの討伐に同行することへの許しだ。……これから先も特務班と動くのなら、改めてお許しをいただかねばならない。君は『水』の家の者だからな」
ベルは手紙を覗き込み、しばらく黙って読んでいた。それから、ぱっと顔を上げた。目が輝いていた。
「それって、あたしも特務班に入れるってこと!?」
「それは、まだ決めていない」
キネシスは手紙を畳んだ。
「特務班に誰を置くかは、本来は私が決める。この部隊を作ったのは私だ」
青年は、ベルの後ろに立つフィールを見た。
「だが、砂漠で号令をかけ続けたのは隊長だった。窓に合わせて突けと言ったのも、退けと言ったのも。……隊員の命を預かっているのは、私ではなく隊長だ」
フィールが瞬きをした。
「キネシス様、それは」
「だから、この判断は隊長に任せる」
キネシスは言った。
「お前が要ると言えば置く。要らないと言えば、アクアリス殿の元へ送り届ける。……私は、それに従う」
フィールは何か言いかけて、口を閉じた。部屋の中が静かになった。
ベルが振り返って、フィールを見上げていた。フィールはしばらく、その目を見返していた。
「……中庭に来て」
薬草の中庭。九日間、窓の稽古を繰り返した場所。
フィールは木剣を二本持ってきて、一本をベルに放った。ベルは片手で受け止めた。
「何よ、これ」
「試験よ」
フィールは自分の木剣を構えた。
「従士になるには、試験がある。学科と実技。……特務班の隊員は、皆それに受かってここにいる」
「あたし、従士じゃないんだけど」
「特務班に入るなら、従士と同じに扱うわ」
フィールは言った。
「実技は、剣だけ。魔法はなし」
ベルの眉が跳ね上がった。
「なんでよ。魔法ありなら――」
「魔法ありなら、あなたの方が強い」
フィールはあっさりと言った。
「それは砂漠で見て分かってる。……でも、窓の内側に入る時は、剣で入るの。陣が満ちるまでの三秒を、悪魔は待ってくれない。剣で何ができるかを見たいの」
ベルは唇を尖らせ、それから、木剣を逆手に持ち替えた。
「……いいわよ。剣だけでも負けないから」
「手加減はしないで」
「するわけないでしょ」
中庭の端に、いつの間にか人が集まっていた。ロイが。ヴァイスが。リアムが。ミラが。蓮も、回廊の柱に背を預けて立っていた。
「おい、どっちに賭ける」
リアムがロイに耳打ちした。
「賭けるかよ」
「ちびっこは速えぞ。砂漠で見たろ」
「隊長は、負けねえよ」
ロイは腕を組んだまま、それだけ言った。
ベルが砂を蹴った。
速い。
一歩で三歩分の距離が消える。小さな体がばねのように弾んで、もうフィールの懐にいた。
逆手の木剣が、下から跳ね上がる。
カン。
フィールの木剣が、それを受けた。
ベルはもう次の位置にいた。右へ。左へ。背後へ。
カン。カン。カカン。
速い。目で追うのがやっとだった。
だが。
フィールは、ほとんど動いていなかった。足の位置がほとんど変わらない。木剣の先だけが、小さく、小さく動いて、ベルの一撃を一つずつ受け止めていく。
「……数えてる」
ミラがぽつりと言った。
蓮は気づいた。フィールの唇が、かすかに動いていた。
一。二。三。
ベルの踏み込みには、拍がある。跳んで、打って、着地して、また跳ぶ。その着地の一瞬だけ、小さな体が止まる。
四。
フィールの木剣が、初めて前に出た。
ベルが着地した、その一瞬に。
コツン。
木剣の先が、ベルの額に軽く当たっていた。
中庭が静まり返った。
ベルは固まっていた。額に木剣の先を当てられたまま、目をぱちぱちさせていた。
「……今の、なし」
「なしじゃないわ」
「なしよ!! 今のは、ちょっと砂に足取られただけで!!」
「四回目の着地。毎回、同じ拍で止まってる」
フィールは木剣を下ろした。
「速いのは分かった。でも、悪魔は拍を読むわ。アスモデウスは、キネシス様の目を一度で読んだ」
ベルの顔が赤くなった。悔しそうに唇を噛んだ。
「……もう一回」
「明日ね」
「今!!」
「明日」
フィールは木剣を肩に担いだ。
「特務班の稽古は、毎朝、日の出から。ここで」
ベルの動きが止まった。
「……え」
「遅れたら置いていくわ」
フィールは背を向けかけて、思い出したように振り返った。
「それと、学科。算術と地理と法規。……蓮に教わって。従士試験の学科で、満点を取った人だから」
回廊の柱の陰で、蓮がむせた。
ベルはフィールを見上げていた。口が半分開いたままだった。それから、ようやく意味が飲み込めたように、目を見開いた。
「それって……」
フィールはもう答えなかった。ただ、ほんの少しだけ目を伏せて言った。
「……肩、もう平気だから。気にしないで」
ベルの顔が、みるみる赤くなった。言いそびれていたことを、先に言われてしまった顔だった。
「……あ、ありがと。庇ってくれて。砂漠で」
「隊長だもの」
フィールはそれだけ言って、中庭を出ていった。
足音は、いつもと同じだった。
いつもと、同じだった。
ただ、木剣を担ぐ手が、柄を少しだけ強く握りしめているのを、蓮は見てしまった。
「レン!!」
ベルが回廊へ駆けてきて、そのまま蓮の腕に飛びついた。
「入隊よ入隊!! 明日から毎朝稽古で、学科はレンが教えてくれるんだって!! 毎日!!」
「毎日とは言ってなかった」
「言ってた!!」
「……ベル、離れて」
蓮は腕を引こうとしたが、ベルはしがみついたまま離れなかった。中庭の皆が見ていた。リアムがにやにやしていた。ヴァイスが目を逸らしていた。
「皆、見てるだろ」
「見せてるの」
「あのな。入隊したなら、隊長の前でこういうのは」
「だって」
ベルは蓮の腕に頬を押しつけたまま、上目遣いに蓮を見た。頬が赤かった。
「だって、好きなんだもん」
蓮は何も言い返せなかった。
背後で、リアムがとうとう吹き出していた。
ミラが、中庭の真ん中に立っていた。ベルの背中を見て、それから、中庭の出口を見た。フィールが出ていった方を。
唇が動いた。
「……六」
小さな声だった。
特務班。フィール。蓮。ロイ。ヴァイス。ミラ。リアム。
「六、足す、一」
ミラは少しだけ間を置いた。
ずっと、引くことしかしてこなかった指を、一本、立てた。
「……七」
その日の午後、サナトリアの館の鳥舎から、伝書鳥が二羽、飛び立った。
一羽は、南の『水』の国へ。
もう一羽は、最寄りの監視塔へ。そこから報告は、伝令の手で、各国の貴族の館へと運ばれていく。
悪魔アスモデウスは、貴族三名により討たれた。
その紙はいずれ、洗脳の国にも届く。白い衣装の女は、それを読むだろう。そして、いつか数えることになる。
差し出した手を、取らなかった貴族の数を。




