取らない手
キネシスは、エスクーダから話し始めた。
燭台の蝋が半分ほど減った頃、タイタンが椅子を蹴って立ち上がった。卓が揺れた。白い布の包みが転がりかけて、蓮が慌てて押さえた。
「――あの女ァッ!!」
巨漢の咆哮が、保管室の壁を震わせた。
「人の頭ん中を、勝手に!! オレだけじゃねえ、坊主も、テルモも、特務班の連中も、死んだ奴らのことまで!! ふざけやがって、今から行って、あの女の顔を――」
「どこへ行かれるのです」
サナトスの声は穏やかだった。だが、タイタンの足を止めるだけの重さがあった。
「洗脳の国へ、ですか。……どうやって」
「どうやってって、坊主に跳んでもらって――」
「そして、あの方の前に立って、何をなさいます」
タイタンは拳を握りしめた。
「ぶん殴る」
「あの方は、きっと手を差し出されますよ」
老人は微笑んだ。
「お会いできて嬉しい、と。両手で」
タイタンが固まった。
「あなたの拳が届く前に、あの方の手があなたに届く。……そして明日の朝、あなたは何も覚えておられない。洗脳の国へ行ったことも。私が今夜お話ししたことも」
保管室が静まり返った。
タイタンはしばらく立ち尽くしていたが、やがて、どさりと椅子に座り込んだ。
「……くそ」
巨漢は両手で顔を覆った。
「くそ……くそったれ……」
テルモが、初めて口を開いた。
「頭に、靄がかかることがある」
静かな声だった。
「何かを考えようとすると、その先が霞む。年を取ったせいだと思っていた。……四百五十年も生きれば、そういうこともあるだろうと」
テルモは自分の右の手首を見下ろした。
「中庭で、従士の木剣がここに当たった時。熱かった。……砂漠で、氷の枷を作った時も。私は、枷など誰からも教わっていない。教わっていないものを、この手は知っていた」
その目が、キネシスの帳面に向いた。
「その帳面に、書いてあるのか。私が枷を作ったことが」
キネシスは帳面を開き、一つの頁を指で示して、テルモの前に滑らせた。
テルモ殿、自ら右腕ごと悪魔の腕を氷に閉じ込め、窓を固定す。腹を打たれ重傷。
テルモはその一行を読んだ。長い間、読んでいた。
「……四百五十年」
ぽつりと呟いた。
「何度、消された」
答えられる者はいなかった。サナトスの帳簿にも、テルモの国のことまでは書かれていない。ただ、テルモの右の手首だけが、それを知っているのかもしれなかった。
「なぜ、お前は覚えている」
テルモの目が、蓮に向いた。蓮は息を呑んだ。
「集会には、お前もいた。広場にいた者は皆、忘れた。……なぜ、お前だけが」
「……分かりません」
蓮は正直に答えた。
「本当に、分からないんです」
テルモは蓮を見つめていた。探るように。蓮は、目を逸らさなかった。
「私が帳面に書いた」
キネシスが言った。
「最後の頁に、自分の字で。『蓮を、信じよ』と。……覚えていない私が、それを読んだ。それで十分だった」
テルモはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……北門の作戦も、砂漠の段取りも、この小僧の頭から出たものだったな」
「おうよ」
タイタンが顔を覆ったまま言った。
「小僧が覚えてて良かった。それ以外に、何があるってんだ」
キネシスが卓の上で手を組んだ。
「本題に戻る」
青年の声が、少しだけ硬くなった。
「報告の形だ」
「……『貴族三名による討伐』か」
テルモが言った。
「エスクーダと同じ形で」
「そうだ」
キネシスは頷いた。
「アスモデウスは、キネシス、タイタン、テルモの三名が討った。窓のことは書かない。従士の剣のことも書かない。……窓は、この帳面の中にだけ残す」
タイタンが顔を上げた。
「それじゃ、他の国は」
「他の国の貴族が、窓を知らないまま悪魔と戦うことになるかもしれない」
キネシスは言った。
「分かっている。……分かっていて、そうするしかない」
蓮は卓の上の帳面を見ていたが、やがて口を開いた。
「一人ずつ、です」
四人の目が、蓮に向いた。
「全部の国に、一度に知らせれば、必ずメンタル様に届きます。だから知らせない。……でも、会って確かめた相手には、伝えられる」
蓮は言葉を選んだ。
「サナトス様に確かめて、伝えました。タイタン様とテルモ様にも、今、伝えました。……同じように、一人ずつ。会って、確かめて、手を取らない方だと分かったら、伝える。報告の紙ではなく、口で」
「時間がかかるぞ」
テルモが言った。
「何年も、かかるかもしれん」
「はい」
蓮は頷いた。
「でも、一度に伝えて一度に消されるよりは、早いと思います」
しばらく、誰も口を開かなかった。やがて、サナトスが小さく笑った。
「私のところへいらした夜も、そうでしたね。まず一つだけ訊いて、確かめてから話す。……同じ順番です」
キネシスが頷いた。
「では、それで行く」
青年は四人を見渡した。
「もう一つ、決めておかねばならないことがある」
キネシスは自分の右手を、手のひらを上にして卓の上に置いた。
「メンタル殿の手を、取らない」
静かな声だった。
「巡回に来られても。世界会議で顔を合わせても。どんな理由をつけてでも、触れさせない。……サナトス殿が、この数年そうしてこられたように」
サナトスが頷いた。
「痛むと言って。疲れていると言って」
「オレは嘘が下手だぞ」
タイタンが言った。
「顔に出る」
「でしたら、手に墨でもつけておかれては」
サナトスが言った。
「汚れておりますので、と」
タイタンはしばらく老人の顔を見ていたが、それから、ぶはっと吹き出した。
「爺さん、あんた、四百五十年それやってきたのか」
「この数年だけですよ」
老人は穏やかに微笑んだ。
「四百五十年のほとんどは、私も取っておりました」
タイタンの笑いが止まった。テルモが、目を伏せた。
「……一人なら、気まぐれで済む」
テルモが低く言った。
「二人でも、まだ済むかもしれん。だが、四人が揃って手を取らなければ。……あの女は気づくぞ」
「気づかれるでしょう」
サナトスは頷いた。
「そもそも」
テルモの目が老人に向いた。
「なぜ、爺さんは見逃された。北門で窓を開けたのは、爺さんも同じだろう」
「後回しにされただけですよ」
サナトスは静かに言った。
「あの日、あの方が急いで消さねばならなかったのは、帳面を書いておられたキネシス殿と、広場にいた大勢の方々でした。帳面さえ消えれば、年寄りが一人覚えていても、何もできはしない。……次の巡回で、ゆっくり消せばよい。そうお考えになったのでしょう」
老人は、卓の上の帳面に目を落とした。
「その後回しの一人から、四人に広がった。あの方がそれに気づかれた時が、始まりです」
「気づかれたら、どうなる」
タイタンが言った。
「手を出さなきゃ済むって話か? 後ろから肩でも叩かれたら、それで終わりじゃねえのか」
キネシスの顔が曇った。
「……私が、そうだった」
青年は自分の両手を見下ろした。
「集会の日。あの方が、私の前で躓いた。私は抱きとめた。倒れてくる者を、放り出せる者はいない。……抱きとめたまま、しばらく離さなかった。気づいた時には、もう遅かった」
保管室が静まり返った。
「取らないだけでは、防げないと思います」
蓮が言った。
四人の目が蓮に向いた。
「でも、防ぎ方は。……皆さんの体が、もう知っています」
「体が?」
「窓です」
蓮は、卓の上の帳面を指で叩いた。
「窓は、触れた所から広がる。一呼吸目は腕、二呼吸目で胴、三呼吸目で全身。……メンタル様の力も、同じじゃないでしょうか」
キネシスの目が見開かれた。
「だから、握手が長いんです。触れた手から、頭まで届くのに、何呼吸もかかる」
サナトスがゆっくりと頷いた。
「あの方の手は、いつも、離れるまでが長かった。……四百五十年、そうでした」
「触れられたら、数える」
蓮は言った。
「肩でも、背中でも。二呼吸目で振りほどく。頭に届く前に。……倒れ込んでこられても、抱きとめない」
「倒れた女を放っとけってのか」
タイタンが顔をしかめた。
「抱きとめるのは、他の誰かでいいんです」
蓮は答えた。
「窓のことを何も知らない兵でも、侍女でも。……あの方が欲しいのは、その人の頭じゃない」
タイタンは口を開きかけて、閉じた。テルモが、小さく鼻を鳴らした。
「窓を知っているから、逃げ方も分かる、か。……皮肉なものだ」
「それから、一人で会わないこと」
蓮は続けた。
「あの方と顔を合わせる時は、必ず誰かが隣にいる。同盟の方か、特務班の誰か。隣で呼吸を数えて、長いと思ったら割って入る。……キネシス様なら、跳んで引き離せます」
「砂漠でミラがやっていたことだな」
キネシスが言った。
「はい」
蓮は頷いた。
「それでも」
少しだけ、声が低くなった。
「消される時は、消されると思います。どれだけ気をつけても、全部は防げない」
誰も否定しなかった。
「だから、毎晩書いてください」
蓮は四人を見渡した。
「その日、何があったか。何を知っているか。一行でいいです。……あの方に会った翌朝は、必ず自分の帳面を読み返す。覚えていないことが自分の字で書いてあったら、それが消された印です」
「紙は、洗脳されない」
キネシスが呟いた。
帳面をつけ始めた夜、キネシス自身が蓮に言った言葉だった。青年はそれを覚えていない。それでも、同じ言葉に辿り着いていた。
「写しを、お二人の分も作る」
キネシスは言った。
「サナトス殿には、治療の帳簿がある。……四人とも、毎晩書く」
「書くのは苦手だぞ、オレは」
タイタンが唸った。
「一行でいいんです」
「一行もだ」
「では、私が代わりに書いて差し上げましょう」
サナトスが穏やかに言った。
「毎晩、タイタン殿の一日を伺って」
「……それはそれで恥ずかしいじゃねえか」
テルモが、ふっと息を漏らした。笑ったのだと、蓮は少し遅れて気づいた。
キネシスが、卓の上の自分の手を握りしめた。
「気づかれたら、向こうも動く。……それでも、手は取らない」
テルモが手を卓に置いた。手のひらを上に。タイタンが、その隣に大きな手を置いた。サナトスが、皺だらけの手を置いた。
四つの手のひらが、卓の上に並んだ。
誰も、互いの手を握らなかった。触れ合えば、加護が消える。だから、並べるだけ。それが、この四人の誓いの形だった。
蓮は、卓の端からそれを見ていた。自分の手は、置かなかった。
この誓いは、メンタルに触れられれば忘れてしまう者たちのものだ。蓮は、忘れなかった。なぜなのかは、分からないままだった。
夜が更けて、皆が保管室を出ていった後も、テルモだけが残っていた。キネシスの帳面を、もう少し読ませてほしいと言って。
扉を閉める前に、蓮は振り返った。燭台の灯りの下で、テルモは枷の一行が書かれた頁を開いたまま、動かずにいた。左手で、右の手首を握りしめて。
この帳面がつけられ始めたのは、つい先日のことだ。その前の四百五十年に、何を忘れさせられたのか。
それを書き留めた頁は、どこにもなかった。




