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四つ目の墓標

 サナトリアの北門が見えたのは、翌日の夕暮れだった。


 夜明けにキネシスが跳べたのは、二度だけだった。一晩眠っても、力は半分も戻っていなかった。十人と一人を運べば、二度で尽きる。


 二度目に降りた砂丘の頂から、北の監視塔が見えた。


 塔に詰めていた「移動」の兵たちは、砂丘の頂に突然現れた一団を見て、槍を構えかけた。それから先頭に立つ青年の顔を見て、慌てて槍を下ろした。


 一行は塔で昼過ぎまで休んだ。キネシスは壁にもたれて目を閉じ、誰とも口をきかなかった。


 日が傾き始めてから、青年は立ち上がった。自分の力で三度跳び、四度目で膝をついた。


 塔から持ち出した、伝令のための上級の「移動」の魔石が一つあった。伝令の最後の区間にだけ使うと決められた、極めて貴重な石だった。十一人を一度運べば、それで空になる。


「後で叱られるのは、私だ」


 青年はそう言って、魔石を握った。


 石の光が尽きた時、目の前に、夕日に染まったサナトリアの城壁があった。


 北門の前に、人が集まっていた。監視塔から放たれた伝書鳥が、一足先に知らせを運んでいたのだ。


 門の前に、白い髭の老人が立っていた。サナトス。その隣にレミエル。後ろにギードと、その部下たち。


 老人は、近づいてくる一団を一人ずつ見ていった。キネシス。タイタン。テルモ。フィール。蓮。ロイ。ヴァイス。ミラ。リアム。見知らぬ小さな少女。


 そして、リアムの背に負われた、外套にくるまれた体を。


 サナトスは何も訊かなかった。ただ、外套の前で足を止め、両手を胸の前で重ねて、深く頭を下げた。


 レミエルが口を押さえた。ギードが拳を握りしめた。


「……討った」


 キネシスが言った。短く。


「アスモデウスを、討った」


 門の前の兵たちが、ざわめいた。ざわめきは、すぐに歓声になりかけた。


 だが、リアムの背の外套を見て。包帯だらけの従士たちを見て。


 誰も、声を上げなかった。






 その夜、サナトスは三度の癒やしを使った。


 一度目はロイの背中に。焼け爛れた肌が、見る間に塞がっていった。ロイはうつ伏せのまま、声を殺して泣いていた。痛みが消えたからではない、と蓮には分かった。


 二度目はフィールの肩に。フィールは最初、首を振った。


「蓮の肋を、先に」


「隊長の肩が先です」


 蓮が言った。


 フィールが睨んだ。蓮も引かなかった。サナトスが小さく笑った。


「お二人とも、砂漠で同じやり取りをなさったのでしょう」


 老人は、黙ってフィールの肩に手を置いた。


 三度目が、蓮だった。


 老人の手が蓮の胸に置かれた。温かかった。折れた骨が、ゆっくりと繋がっていくのが分かった。


 ゆっくりと。


 老人の手は、ロイの時よりも、フィールの時よりも、長く蓮の胸に置かれていた。


 やがて、その手が離れた。サナトスは、自分の手のひらを少しの間見下ろしていた。それから、何も言わずに微笑んだ。


「……ゆっくり、お休みなさい」


 ベルは、蓮の寝台の脇に陣取っていた。椅子を引き寄せて、腕を組んで。蓮が身を起こそうとすると、肩を押して寝かせた。


「寝てなさいって言われたでしょ」


「もう治った」


「治ったかどうかは、あたしが決めるの」


「なんで」


「見張ってるって言ったでしょ」


 部屋の入り口に、フィールが立っていた。包帯を外したばかりの左肩を回しながら、ベルを見た。ベルも、フィールを見た。


 ほんの一瞬だけ、二人の間の空気が張り詰めた。


「……ベル。あなたの部屋も用意してもらったから」


「ここでいい」


「ここは蓮の部屋よ」


「だから、ここでいいの」


 フィールは何か言いかけて、口を閉じた。ふいと顔を背けて、廊下へ戻っていく。足音が、いつもより少しだけ強かった。


 ベルは鼻を鳴らし、それから蓮を見下ろして、少しだけ声を落とした。


「……あの人、あたしを庇ってくれたのよね。肩、折ってまで」


「うん」


「……お礼、まだ言ってない」


 ベルはそれきり、唇を尖らせて黙り込んだ。






 翌朝、街外れの小さな丘の上の墓標に、四つ目が加わった。


 トーレ。


 ネロ。


 オルト。


 そして、ユーリ。


 三つの墓標の下には、何もなかった。焦げた槍の穂先が一つ、埋められているだけだった。四つ目の墓標の下には、ユーリがいた。


 特務班が並んでいた。キネシスとサナトスが、その後ろに立っていた。タイタンとテルモも。


 フィールが一歩前に出た。


 オルトの墓標の前で、今度は誰も死なせない号令をかけてみせると誓った場所だった。フィールはそのことを覚えていない。蓮だけが覚えている。


 フィールは口を開いた。しばらく、何も出てこなかった。


 それから。


「……連れて帰ってきたわ」


 それだけ言った。


 隊長の言葉としては、短すぎた。だが、誰もそれ以上を求めなかった。


 リアムが墓標の前にしゃがみ込み、懐から小さな砥石を取り出した。焚き火の夜、ユーリがベルの剣に当てていた、あの砥石。


 リアムはそれを墓標の前に置きかけて、手を止めた。振り返った。


「……ちびっこ」


 ベルが顔を上げた。


「やるよ」


 リアムは砥石をベルに差し出した。


「あいつが研いだ剣だ。あいつの石で手入れしてやれ。……墓に埋めるより、そっちの方があいつ、喜ぶ」


 ベルはしばらく、その砥石を見つめていた。それから両手で受け取って、胸に押し当てた。


「……ちびっこって、言うな」


 かすれた声だった。


 リアムが笑った。今度は、うまく笑えていた。


 ミラが、四つの墓標の前に立っていた。唇が動いた。声は出さなかった。だが、何を数えているのか、蓮には分かった。






 その夜、治療記録の保管室に、五人が集まった。キネシス。サナトス。タイタン。テルモ。そして、蓮。


 卓の真ん中に、白い布の包みが置かれていた。ひび割れた黒い石。


「さて」


 タイタンが腕を組んだ。


「どうやって知らせる。悪魔を一匹、ぶっ倒したってのをよ」


「報告の形を、決めなければならない」


 キネシスが言った。


「エスクーダの時は、『貴族三名による討伐』と各国に伝えた。今度も同じ形にするのが、筋ではある」


「同じ形?」


 タイタンが眉を寄せた。


「何言ってんだ坊主。今度はやり方が分かったんだぞ」


 巨漢は卓を叩いた。


「窓だよ、窓。触れてる間は守りが消える。その間なら従士の剣も通る。……こいつを全部の国に教えてやりゃいい。そうすりゃ次の悪魔が出た時、どこの国でも戦える。ユーリみてえな奴を、もう出さずに済むかもしれねえだろうが」


 まっすぐな言葉だった。何一つ間違っていなかった。だからこそ、蓮は何も言えなかった。


 知らせれば、どうなるか。報告は「移動」の伝令から各国へ届く。各国の貴族は、世界会議でそれを口にする。世界会議へは、ゲートの門でしか行けない。


 そして、メンタルが巡回に来る。握手をする。両手で包み込むように、長く。そうして、窓はまた消える。エスクーダの後のように。サナトリアの集会の後のように。


 今度は、世界中から。


 タイタンはそれを知らない。テルモも知らない。二人とも、自分たちが一度、窓を消されたことを知らないのだ。


「……お前もそう思うだろう、テルモ」


 テルモは腕を組んだまま、すぐには答えなかった。その目は、タイタンではなくキネシスを見ていた。


「キネシス」


 低い声だった。


「お前は今、『筋ではある』と言ったな。……筋ではあるが、本当は別のことを考えている顔だ」


 キネシスの肩が、わずかに動いた。


「砂漠でも、そうだった」


 テルモは続けた。


「窓の話を、ベルという娘にした時。お前は『誰にも話すな、アクアリス殿にも』と言った。理由は今は言えない、とな」


 保管室が静まり返った。


「悪魔を倒せる方法を、なぜ隠す。……私も、ずっとそれが引っかかっていた」


 テルモの目が、キネシスから、サナトスへ。それから、蓮へ移った。


「この三人は、何かを知っている」


 タイタンが、ぽかんと口を開けた。


「……は?」


 キネシスはサナトスを見た。老人は静かに頷いた。キネシスは蓮を見た。蓮も頷いた。


 テルモなら、タイタンなら。砂漠で、背中を預け合った二人なら。


 キネシスが懐に手を入れ、一冊の帳面を取り出した。擦り切れた表紙。何度も読み返されて、角が丸くなった頁。


 青年はそれを、黒い石の包みの隣に置いた。


「お二人に、見ていただきたいものがある」


 キネシスの声は、静かだった。


「……そして、お二人が忘れさせられたことを、話さなければならない」


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