連れて帰る
風が止んでいた。黒い硝子になった窪地の底で、誰もすぐには動けなかった。
最初に動いたのはキネシスだった。固まっていた指が、ぴくりと跳ねた。それから手首が。肘が。肩が。ほどけるように、少しずつ。
青年は黒い硝子に手をついて、上体を起こした。自分の右手を見て、すぐそばの硝子の上に落ちている白い布を見た。悪魔の踵があった場所を。
「……私の手が」
かすれた声だった。
「触れていたのか」
誰も答えなかった。答えられる者がいなかった。
テルモが膝をついたまま、こちらを見ていた。額の血はもう乾き始めていた。
「倒れた手が、踵にか」
テルモはゆっくりと言った。
「……偶然の窓だな」
蓮は黙っていた。フィールの肩を抱いたまま。
鍵が、開きましたね。
あの声が、まだ耳の奥に残っていた。だが、それが何なのか、蓮にも分からなかった。
斜面の上で、巨体が身じろぎした。
「……ん、あ……?」
タイタンが目を開けていた。空を見上げて何度か瞬きをし、それから跳ね起きた。
「野郎は!? あの野郎はどこだ!!」
「終わった」
テルモが言った。
「お前が寝ている間にな」
タイタンは窪地を見下ろした。黒い硝子を。白い布を。倒れている従士たちを。そして、斜面の途中に覆い被さるように倒れている、焼けた背中を。
巨漢の顔から、表情が消えた。
「……誰だ」
「ユーリ」
答えたのはリアムだった。ユーリの傍らに座り込んだまま、顔を上げなかった。
「斥候の、ユーリです。……ちびっこを、庇って」
タイタンは何も言わずに斜面をゆっくりと降りてきて、ユーリの前で足を止めた。
それから、右の拳を左の胸に当てて、深く頭を下げた。
従士が貴族に捧げる礼を。貴族が、従士に。
ロイが息を呑んだ。ヴァイスが目を見開いた。
タイタンは頭を下げたまま、しばらく動かなかった。
「……寝てて、すまねえ」
小さな声だった。巨漢の口から出たとは思えないほど。
陽が傾き始めていた。キネシスはもう跳べなかった。テルモの力も尽きていた。今日はここで夜を越すしかなかった。
窪地の縁の、硝子になっていない砂の上に、皆で移った。歩ける者は歩き、歩けない者は肩を借りた。
ロイは背中の火傷で、うつ伏せのまま運ばれた。ヴァイスは額に布を巻かれて、それでも自分の足で歩いた。蓮は肋を押さえ、フィールに肩を貸してもらった。フィールの左腕は、まだ肩の高さまでしか上がらなかった。
ユーリは、リアムが背負った。腿の古傷を引きずりながら。誰かが代わろうとすると、首を振った。
「俺が運ぶ」
それだけ言って、また歩いた。
キネシスは窪地の底に残っていた。黒い硝子の上の白い布を拾い上げ、その傍らの、ひび割れた黒い石も拾った。
拳ほどの大きさだった。手に取ると、ずしりと重かった。魔石とは違う。どの色の光も宿していない。ただ黒く、鈍く、冷たかった。
キネシスはその石を、白い布で丁寧に包んだ。悪魔が、自分の手にそうしていたように。
「持って帰るのか」
テルモが訊いた。
「持って帰る」
キネシスは答えた。
「これが何なのか、まだ誰も知らない。……知らないものを、砂に置いていくわけにはいかない」
夜になった。テルモの力では、もう石も温められなかった。砂丘の陰で、皆で身を寄せ合った。毛布を全部出しても、足りなかった。
ユーリの体には、リアムが自分の外套をかけていた。
その傍らに、ベルが膝を抱えて座っていた。昼から、一言もしゃべっていなかった。
フィールが毛布を一枚持ってベルの隣に座り、黙って、その肩にかけた。ベルは毛布を握りしめた。しばらくして、小さな声がした。
「……なんで」
「ん」
「なんで、あんたも、あの人も。……あたしなんか、庇うのよ」
フィールは少しだけ考えた。
「あなたが、私たちを庇ったからよ」
「庇えてない」
「庇えてたわ」
フィールは窪地の方を見た。
「あの盾がなかったら、皆、消えてた」
ベルは答えず、膝に顔を埋めた。肩が震えていた。
フィールはそれ以上何も言わず、ただ隣に座っていた。焚き火のない夜の中で。
「……あいつさ」
リアムが言った。誰に言うでもなく。ユーリの外套の端を、指でいじりながら。
「開拓村の生まれなんだよ。この砂漠のもうちょっと東の。親父さんが鍛冶屋でさ。だから刃物の手入れだけは、誰にも負けなかった」
皆が黙って聞いていた。
「無口だろ。俺が十しゃべって、あいつが一つ頷く。それで、ちょうどよかったんだ」
リアムは笑った。うまく笑えていなかった。
「俺、あいつがあんな大声出したの、今日初めて聞いたよ。……『ベル様』だってさ。最初で最後の声が、それだぞ。ずるいだろ」
ベルの肩が、大きく跳ねた。毛布の中から、嗚咽が漏れた。
リアムは、しまったという顔をして、それから首を振った。
「……いや。違うな」
リアムはベルの方を見た。
「ちびっこ。お前の剣、研いだろ、あいつ。……あいつが誰かの剣を研いだのも、俺は見たことなかった」
ベルが顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの顔で。
「あいつ、決めてたんだよ。たぶん、あの時から」
リアムは空を見上げた。砂漠の星が、うるさいほど光っていた。
「だから、泣いていいけどさ。……自分のせいだって、思うなよ。あいつが怒る。……いや、怒んねえか。黙って頷くだけだな」
誰かが、小さく笑った。ロイだった。うつ伏せのまま、肩を揺らしていた。それにつられて、ヴァイスも。ミラが、膝を抱えたまま、ほんの少しだけ口元を緩めた。
ベルは泣きながら、それでも、少しだけ笑った。
「……連れて帰るからな」
リアムがユーリの外套に手を置いた。
「トーレも、ネロも、オルトも。連れて帰れなかった。……お前は、連れて帰る」
蓮はその言葉を聞いていた。
「……キネシス様」
蓮は言った。
「明日、跳べますか」
キネシスは砂丘の陰に背を預け、目を閉じたまま答えた。
「一晩眠れば、少しは戻る」
それから、目を開けた。
「十人と、一人だ。……何度に分けてでも、全員、連れて帰る」
リアムが頭を下げた。右の拳を、左の胸に当てて。長い間、上げなかった。
夜半を過ぎた頃、蓮は目を覚ました。肋が痛んで、眠りが浅かった。
砂丘の陰の端で、小さな明かりが灯っていた。キネシスだった。懐の小さな魔道具の灯りで帳面を照らし、羽根ペンを手にしていた。
蓮が身を起こすと、キネシスはこちらを見て、それから帳面に目を戻した。
「……書いておく」
青年は言った。
「今日のことを。今のうちに」
ペン先が紙の上を走った。蓮は、横から覗き込んだ。
悪魔に触れている間、悪魔の守りも消える。
これまで、キネシスが事実としては一度も書かなかった一行だった。確かめていないことは書かない。それが「移動」の家の決まりだった。
書いた。
ペンは止まらなかった。
倒れた者の手が踵に触れていただけで、窓は開き、従士の剣が届いた。
キネシスはその一行を書き終えて、ペンを置いた。
蓮は、その一行を見つめていた。何も言わなかった。言えることが、なかった。
鍵が、開きましたね。
帳面のどこにも、その言葉は書かれなかった。




