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ひと時の開門

 フィールが剣を振るった。


 カン。


 弾かれた。


 窓はない。分かっていた。それでも振るった。


 カン。


 弾かれた。


 肩の高さまでしか上がらない左腕で。額から血を流しながら。


 カン。


 カン。


 カン。


 届かない。一太刀も。


 悪魔は避けもしなかった。ただその場に立ったまま、少女の剣が見えない壁に弾かれ続けるのを、静かに見つめていた。


 北の丘で、蓮の剣をそうしたように。


「……良い剣です」


 アスモデウスが言った。その声は穏やかだった。だが、体はふらついていた。足元の黒い硝子に、黒い血がぼたぼたと落ち続けていた。


「窓がなくとも。届かぬと知っていても。……背の後ろに守る者がいる限り、剣を下ろさない」


 悪魔の右の掌が持ち上がった。穴の開いた掌が。


「あなたの武も、覚えておきます」


 フィールの剣が止まった。少女は息を切らせていた。剣を構えたまま、動かなかった。逃げなかった。


 背の後ろで、ベルが泣いていた。ユーリの動かない体に縋りついて。


 フィールは一歩も退かなかった。


 蓮は岩に背を預けていた。息ができなかった。肋が折れていた。半分だけ繋がった骨が、また何本も。


 立て。


 立て。


 体が動かない。指先で砂を掻いた。黒い硝子が爪を削った。


 立て。


 剣は、どこだ。


 視界の端に、光るものがあった。三歩先。黒い硝子の割れ目に、剣が突き立っていた。自分の剣だった。


 這った。


 一歩。


 肋が軋んだ。視界が赤く明滅した。


 二歩。


 口から血が溢れた。


 三歩。


 柄を掴んだ。引き抜いた。黒い硝子が砕けて散った。


 顔を上げた。


 悪魔の掌が。


 フィールの胸に。


 触れていた。


 そっと。


 まるで、眠る子どもの額に触れるように。


 フィールの目が見開かれていた。剣を構えたまま、動けずに。


 悪魔の肘が、わずかに引かれた。すぐには打たない。待っている。あと一呼吸。それで、打つ。


 守りのない少女の胸に。


 あの一撃が。


 トーレとネロの胸を砕き、蓮の胸を二度砕いた、あの一撃が。


 フィールの、胸に。


 ――嫌だ。


 蓮の中で、何かが叫んでいた。


 ダインが死んだ。


 イライザが死んだ。


 クレベスが死んだ。


 ムーヴが死んだ。


 トーレが死んだ。


 ネロが死んだ。


 オルトが死んだ。


 ユーリが死んだ。


 もう嫌だ。


 もう一人も。


 一人も。


 フィールだけは。


 フィールだけは――!!


 蓮は立っていた。


 どうやって立ったのか分からなかった。


 走っていた。


 どうやって走ったのか分からなかった。


 黒い硝子の上を。


 折れた肋のまま。


 血を吐きながら。


 剣を握りしめて。


 悪魔の脇腹へ。


 窓はない。


 誰も触れていない。


 届かない。


 分かっていた。


 分かっていた。


 それでも。


「――フィールに」


 喉から声が裂けて出た。


「触るなああああああああああああああああああッ!!」


 その時。


 胸の奥の、ずっとずっと奥で。


 何かが。


 ほどけた。


 錠前が外れるような音はしなかった。


 光もなかった。


 ただ。


 今までずっとそこにあったのに、閉じていた何かが。


 ほんの少しだけ。


 開いた。


 そんな気がした。


 ズブウウウウウウウウッ!!


 剣が。


 悪魔の脇腹に。


 沈んでいた。


 弾かれなかった。


 見えない壁はなかった。


 刃が肉を裂き、骨を削り、悪魔の体の奥深くまで。


 届いていた。


 アスモデウスの肘が止まった。


 フィールの胸に添えられた掌が。


 ゆっくりと。


 離れた。


 悪魔は自分の脇腹を見下ろした。そこに突き立った剣を。その剣を握る蓮の手を。それから、蓮の顔を見た。


 赤い瞳が。


 大きく。


 見開かれていた。


 悪魔の唇が、何かを言いかけた。言葉にならなかった。


 蓮にも分からなかった。なぜ、届いたのか。


 視界の端に、黒い硝子の上に倒れたキネシスの、投げ出された右手が見えた。


 その指先が、悪魔の踵に触れていた。


 いつから。分からない。倒れた時からか。悪魔がフィールへ歩み寄る間に、その手のそばを踏んだのか。


 窓が開いていたのか。キネシスの手が、偶然、触れていたから。


 そうだ。そうに違いない。それしかない。


 蓮は剣を引き抜いた。黒い血が噴き上がった。悪魔の体が、ぐらりと揺れた。


 蓮はもう一度突いた。


 ズブッ。


 届いた。


 また突いた。


 ズブッ。


 届いた。


 突いた。突いた。突いた。


 ズブッ。ズブッ。ズブウッ。


 届く。届く。届く。


 何度でも。


 閉じない。


 考えなかった。考えられなかった。ただ突いた。フィールから、この掌を遠ざけるために。


 ダインのために。イライザのために。ムーヴのために。トーレのために。ネロのために。オルトのために。ユーリのために。


 突いて、突いて、突いて。


「――おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」


 そして。


 最後の一突きが。


 悪魔の胸の真ん中の。


 北門で一度届いた場所の。


 さっき三呼吸の間に、鍔まで沈めた場所の。


 その奥の奥に。


 硬いものがあった。


 剣先がそれに当たった。


 石のような。


 拳ほどの。


 これを割れば終わる。


 なぜか、そう分かった。


 剣を押し込んだ。


 ピシリ、と。


 剣先の向こうで、何かが割れる音がした。


 アスモデウスの体から、力が抜けていった。膝が折れ、黒い硝子の上に両膝をついた。胸に蓮の剣を刺したまま。


 蓮は柄を握ったまま、悪魔の前に膝をついていた。肩で息をしていた。視界が揺れていた。


 悪魔の顔が、すぐ目の前にあった。焼け焦げた頬。赤い瞳。その瞳から、少しずつ光が失われていくのが分かった。


 それでも。


 悪魔は笑っていた。


「……ああ」


 かすれた声だった。それでも穏やかだった。


「開きましたね」


 悪魔の手が、ゆっくりと持ち上がった。穴の開いた、両の手が。


 右の拳を、左の掌に。震えながら。


 パン。


 小さな、小さな音だった。


 両手を体の前で合わせた。


 悪魔は頭を下げた。


 深く。


 深く。


 これまでのどの礼よりも。


「……通さない方。……ありがとう、ございました」


 その言葉を最後に。


 悪魔の体が。


 崩れ始めた。


 指先から。


 翼の先から。


 黒い砂になって。


 さらさらと。


 砂漠の風に溶けていった。


 光はなかった。爆ぜる音もなかった。ただ静かに、礼をしたまま、消えていった。


 後に残ったのは、黒い硝子の上に落ちた白い布と、ひび割れた、拳ほどの大きさの黒い石だけだった。


 静寂。


 蓮の手から剣が落ちた。からん、と。黒い硝子の上で、乾いた音を立てた。


 蓮は自分の両手を見下ろしていた。震えていた。血まみれだった。


 なぜ、届いたのか。


 キネシスの手が触れていたから。窓が開いていたから。それしかない。


「……蓮」


 声がした。すぐ近くから。


 振り返ると、フィールがそこにいた。黒い硝子の上に座り込んで、胸を押さえていた。掌が触れた場所を。打たれる前に、掌が離れた場所を。


「……生きてる?」


 蓮の口から、その言葉が漏れていた。


 フィールは答えなかった。ただ、蓮を見ていた。


 その目から、涙が一筋、こぼれた。


 それから、少女は蓮の胸に額を押しつけてきた。黙って。何も言わずに。ただ、肩を震わせていた。


 蓮は折れた肋の痛みも忘れて。


 その肩を。


 そっと。


 抱きしめた。


 窪地の縁に、ミラが立っていた。弓を抱えたまま、窪地を見下ろしていた。


 倒れている仲間たちを。泣いているベルを。動かないユーリと、その傍らにうずくまるリアムを。起き上がろうとするキネシスを。膝をついたテルモを。斜面で眠るタイタンを。


 抱き合う蓮とフィールを。


 黒い砂になって消えた、悪魔の跡を。


 ミラの唇が動いた。


「……十一」


 かすれた声だった。


「十一、引く、一」


 少女はそこで息を吸った。それから、はっきりと言った。


「……十」


 そして、弓を置いて、膝を抱えて。


 声を上げて、泣いた。


 北の丘の夜から、ずっと。一度も声を上げて泣かなかった少女が。


 砂漠の風が、窪地を吹き抜けていった。


 黒い硝子の上の白い布が、ふわりと揺れた。


 その傍らで、ひび割れた黒い石が陽の光を受けて、鈍く光っていた。

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