私の、全てで
手首から先が、地面を向いていた。穴の開いた、両の手のひらが。
蓮の喉が凍りついた。
知っている。この仕草を。北門で、タイタンに抱きすくめられたまま、悪魔が手首から先だけを地面に向けた、あの仕草を。
あの後に来た、白い光を。オルトを跡形もなく消した、あの光を。
「――光が来るッ!!」
蓮は叫んでいた。
悪魔の足元の砂の上に、円が生まれていた。
一重。
二重。
三重。
四重。
五重――
北門の時とは違った。あの時は三重だった。今は、止まらない。
円の内側を、複雑な線が恐ろしい速さで埋め尽くしていく。円が円を呼び、線が線を呼び、青白い光の紋様がどこまでも広がっていく。
窪地の端から端まで。特務班が立っている、足元まで。
「――窓は、閉じております」
悪魔の声が光の中から静かに響いた。
「貴族の方々は、守りに包まれておいでです。この光は届きません」
赤い瞳が特務班を見た。
「届くのは、守りを持たぬ皆様にだけ」
段取りは決めてあった。悪魔が手首を地面に向けたら、跳んで離れる。
砂丘の陰で、キネシスの目が動いた。窪地の真ん中の、特務班の方へ。
跳べ。跳んで、皆を寄せて、もう一度跳べ。
キネシスの体は。
動かなかった。
砂丘の陰に膝をついたまま、目だけが窪地を見ていた。
「……跳べ、ない」
青年の唇から、かすれた声が漏れた。
あと数度。そう言った数度は、窓を開けるために、もう使い果たしていた。
「散れえええええええッ!!」
フィールが叫んだ。
だが、どこへ。
窪地の端から端まで、光の紋様が広がっている。逃げ場がない。
砂丘の陰から、小さな影が飛び出していた。
ベル。へたり込んでいたはずの少女が、斜面を窪地へ駆け下りていた。光の方へ。特務班の方へ。
「ベル、戻れ!!」
キネシスが叫んだ。
「もう陣を描く力が――」
「うるさいっ!!」
少女が叫び返した。
走りながら、両手を突き出していた。震える左手を、右手で支えるように。
陣が生まれる。
これまでのどの陣よりも、大きく。
その鼻から、血がつうっと流れ落ちていた。
「守るって言ったの!! 全部、守るって!!」
その後ろを、もう一つの影が追っていた。槍を握ったまま。
ユーリだった。一言も発さずに。少女の背中だけを見て。
一秒。
二秒。
三秒。
悪魔の足元の紋様が、完成に近づいていく。
四秒。
ベルの陣が満ちた。
「シールドおおおおおおおッ!!」
光の膜が生まれた。窪地の真ん中に。特務班と悪魔の間に。
大きく。広く。これまでのどの盾よりも大きく。
そして、薄かった。今にも割れそうな、硝子よりも薄い光の膜だった。
その瞬間。
悪魔の紋様が、完成した。
白。
世界が白に塗り潰された。
音が消えた。色が消えた。砂漠が消えた。
遅れて、音が来た。
ドオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンッ!!
北門の時とは比べものにならなかった。大地そのものが裂けたかと思った。
そして、風が来た。
熱い。
熱い熱い熱い熱い熱い――!!
ベルの盾が。
パリイイイイイイイイイイイインッ!!
一瞬で砕けた。
砕けた。それでも、瞬き一つ分だけ、光の奔流を受け止めていた。その一瞬の分だけ、光は弱まっていた。
蓮の体が宙を舞った。
剣が手から離れる。天と地が入れ替わる。背中から何かに叩きつけられる。砂ではない。岩だ。窪地の縁の岩だ。
肋が鳴った。半分だけ繋がった肋が、また折れた。息が止まる。視界が白く、白く弾ける。
遠くで悲鳴が聞こえた。ロイの声。ヴァイスの声。リアムの声。フィールの声。
そして、誰かが叫んでいた。
「――ベル様ッ!!」
聞いたことのない叫びだった。低くて、短くて、少しかすれた声。ユーリの声だと、蓮にはすぐには分からなかった。あの斥候が声を張り上げるのを、誰も聞いたことがなかったから。
その声が。
白い光の中で。
ふっつりと。
途切れた。
光が引いていった。
夜が来たのかと思った。違った。光が強すぎて、目が何も見えなくなっていただけだった。少しずつ、少しずつ、視界が戻ってきた。
窪地が変わっていた。すり鉢の形をしていた窪地が、さらに深く抉れていた。砂が溶けていた。溶けて固まって、黒い硝子のようになった砂が、窪地の底一面に広がっていた。ところどころで、まだじゅうと音を立てて燻っていた。
その黒い硝子の上に、人が倒れていた。
ロイがうつ伏せに倒れていた。背中の服が焼け落ちて、その下の肌が赤黒く爛れていた。指がわずかに動いている。生きている。
ヴァイスが仰向けに倒れていた。額から血を流していた。呻いている。生きている。
リアムが窪地の縁の岩の下で、身を起こそうとしていた。腿の古傷を押さえていた。生きている。
ミラが窪地の縁の上で、弓を抱えたままうずくまっていた。光の外側にいたのだ。肩が震えていた。生きている。
フィールが岩の陰で、剣を杖にして膝をついていた。額から血を流していた。生きている。
そして。
窪地の斜面の途中に、小さな影が倒れていた。ベル。両手を前に突き出したまま。
その上に、もう一つの影が覆い被さっていた。大きな影だった。背中が黒く焼け焦げていた。槍を握ったまま。
ユーリだった。
ベルの小さな体を、自分の体で包み込むように。覆い被さったまま。
動かなかった。
胸も。指も。何一つ動いていなかった。
ユーリの体の下から、小さな手が這い出してきた。少女が、ゆっくりと這い出してくる。顔が煤で真っ黒だった。鼻から、口から、血が流れていた。それでも、生きていた。
少女は自分の上に覆い被さっていた男を見上げた。
「……え」
かすれた声だった。
「なんで……なんで、あんたが……」
答えはなかった。ユーリは、もう答えなかった。
最初から、ほとんど何も答えない男だった。昨夜、黙ってベルの剣を研いだ時も。さっき、黙って頷いた時も。
「あたし……守るって……全部、守るって、言ったのに……」
ベルの目から涙が溢れ出した。
「あたしが、守らなきゃいけなかったのに……っ」
少女はユーリの焼けた背中に両手を当て、陣を描こうとした。何の陣を描こうとしたのか、自分でも分からないまま。指先に光が生まれかけて、消えた。もう何も描けなかった。
「ああ……ああああああああああ……ッ!!」
少女の泣き声が、黒い硝子の窪地に響き渡った。
「……おい」
リアムが這っていた。腿を引きずりながら、ユーリの方へ。
「おい、ユーリ。……おい」
いつもよくしゃべる男が、それ以外の言葉を何も見つけられずにいた。
「おい……」
アスモデウスは窪地の底に立っていた。ふらついていた。あれほど大きな陣を、深手の体で編み上げたのだ。胸の穴から黒い血が止めどなく流れ落ちていた。両の手のひらの穴からも。脇腹からも。太腿からも。
それでも立っていた。悪魔は、泣き叫ぶ少女と動かない男を見上げていた。
「……盾がなければ」
悪魔は呟いた。
「皆様、残らず消えておられたでしょう」
その声は静かだった。
「小さな方の盾が光を弱め。槍の方が、その小さな方を身を以て守られた」
悪魔はユーリの背中に向かって、穴の開いた右の拳を、穴の開いた左の掌に。
パン。
両手を体の前で合わせ、深く頭を下げた。
「……見事な最期でした」
蓮の中で、何かが軋んだ。
礼をしている。殺した相手に。心の底から。それがこの悪魔の武なのだ。分かっていた。
分かっていたのに。
許せなかった。
砂丘の陰で、キネシスが立ち上がっていた。光は貴族には届かなかった。窓が閉じていたから。青年の体には傷一つなかった。
だが、その顔は紙のように白かった。膝が笑っていた。
跳べない。もう一度も。
「……まだだ」
キネシスが呟いた。
「まだ、窓は開ける……!!」
跳べないのなら。
青年は歩いた。斜面を、一歩ずつ。足がもつれる。砂に膝をつく。立ち上がる。また歩く。
まるで、ただの人間のように。
悪魔はそれを見ていた。振り返りもせずに、待っていた。
キネシスが窪地の底に降り立った。
悪魔の背中まで、あと三歩。
二歩。
一歩。
青年の右手が、悪魔の背中の白い布を掴んだ。
窓が開いていく。掴んだところから、ゆっくりと。
だが、その時にはもう、悪魔の左手が青年の右の手首を捉えていた。
「……申し訳ありません」
悪魔の指先が、キネシスの手首の内側を、とん、と叩いた。
青年の腕が強張った。肩が。背中が。脚が。固まったまま、膝から砂の上に崩れ落ちた。
固まった右手が、悪魔の足元の黒い硝子の上に落ちた。
その指先が。
白い布を巻いた悪魔の踵に、かすかに触れていた。
誰も、それを見ていなかった。
「――キネシスッ!!」
テルモが叫んだ。窪地の縁から右手を突き出し、燃やそうとした。
何も起きなかった。テルモの右手の先で、火花が一つ、ぱちりと散っただけだった。
テルモの目が見開かれた。
「……なぜ、だ」
力を使い果たしていたのだ。足を縫い、翼を凍らせ、割れるより速く凍らせ続けた、あの三呼吸で。
大きく使える力は、とうに尽きていた。
テルモの額から、つうっと血が流れ落ちた。膝ががくりと折れ、砂の上に両手をついた。
「……窓が」
蓮の口から声が漏れた。
「閉じた」
キネシスは倒れた。
テルモは力を失った。
タイタンは眠っている。
ベルは泣いている。
ロイも、ヴァイスも、リアムも、倒れている。
ユーリは、もう動かない。
窓を開けられる者は。
もう、どこにもいなかった。
立っているのは。
悪魔と。
そして。
フィールだった。
岩の陰で、少女が立ち上がっていた。肩の高さまでしか上がらない左腕で、剣を握っていた。額から血を流していた。
それでも、立っていた。
ベルの前に。泣き崩れる少女と、動かない男の前に。悪魔と二人の間に。
「……隊長だから」
フィールが呟いた。誰に言うでもなく。
アスモデウスがフィールを見た。剣を持つ者を。武を持つ者を。客を。
悪魔はふらつく体で、穴の開いた拳を穴の開いた掌に。
パン。
両手を体の前で合わせ、頭を下げた。
「……最後の、お相手を」
フィールも剣を握ったまま、拳を掌に打ちつけた。
パン。
頭を下げる。
蓮は岩の下に倒れたまま、それを見ていた。
立て。
立て。
肋が折れている。息ができない。剣はどこかへ飛んでいった。
それでも。立て。
立て立て立て立て立て――!!
フィールが顔を上げた。
悪魔が顔を上げた。
二人の間を、砂漠の風が吹き抜けていった。
フィールが剣を構えた。
窓はない。届かない。分かっていた。
それでも少女は、剣を構えていた。
悪魔の右の掌が、ゆっくりと持ち上がった。




