↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
60/168

三呼吸

 現れた。


 悪魔の真後ろに。キネシスとベルが、手を繋いだまま。


 ベルの左手の先で、陣が満ちていた。


「――シールドッ!!」


 光が生まれた。だがそれは、これまでの平たい膜ではなかった。キネシスの体に沿っていた。


 肩を。背中を。胸を。腰を。脚を。青年の全身を、薄い光の衣が、ぴたりと覆っていた。


 ただ一か所。右の手のひらだけを残して。


 キネシスの右手が伸びた。悪魔の右の肩へ。


 見えない壁が阻む。阻む。だが、離さない。手のひらを肩に押しつけたまま、触れ続ける。


 窓が。


 開いた。


「――ほう」


 アスモデウスが振り返った。その目が、光の衣に覆われた青年の体を見た。


 悪魔の左手が動いた。速い。キネシスの胸へ。触れ返すために。固めるために。


 キィン。


 甲高い音がした。


 悪魔の指先が、光の衣に阻まれていた。


 届かない。キネシスの胸に。


 悪魔の目が見開かれた。


「……なるほど」


 その声に、はっきりとした驚きが混じっていた。


「触れる手のひらの他は、全て覆われましたか」


 悪魔の指先が、光の衣を叩いた。


 とん。


 ピシッ。


 ひと呼吸で割れる。分かっている。


 だから。


「――一呼吸ッ!!」


 テルモの声が砂漠に轟いた。


 パキイイイイイイイインッ!!


 悪魔の足元の砂が凍りついた。足首ごと。膝ごと。


 それだけでは終わらなかった。窓は開いている。キネシスが触れた右の肩から、悪魔の全身へ、殻が消えていく。だから氷は、砂だけでは止まらなかった。


 這い上がっていく。腰へ。背中へ。


 背中の、二枚の翼へ。


 二枚の黒い翼が、根元から白い氷に閉じ込められた。


「翼を――!!」


 蓮は息を呑んだ。


 北門で翼を一枚失った悪魔は、空から落ちた。窪地で翼を二枚取り戻した悪魔は、どこへ跳ばされても帰ってきた。


 その翼が、今、凍っている。


 もう翔べない。もう薙げない。


 悪魔の指先が、もう一度、光の衣を叩こうとした。


 ヒュッ。


 ドスッ。


 その左の手のひらを、ミラの矢が貫いていた。手のひらの真ん中を。さっきと、全く同じ場所を。


 悪魔の左手が止まった。


「突けえええええええええええッ!!」


 フィールの号令が窪地を裂いた。


 走った。全員が。


 窓を待たない。窓に合わせる。九日間の稽古が、体に刻み込んでいた。


 ロイが。ヴァイスが。ユーリとリアムが。


 肩の高さまでしか上がらない左腕で、剣を握ったフィールが。


 そして、蓮が。


 ――通れ!!


 ズブウッ!!


 ロイの剣が脇腹に沈んだ。


 ザシュウッ!!


 ヴァイスの剣が太腿を裂いた。


 ユーリの槍が背中に。リアムの短剣が腰に。


 フィールの剣が、肩口を斜めに斬り下ろした。


 悪魔の右手が動いた。キネシスに肩を掴まれている、その右腕の先が。光の衣でも、突いてくる剣でもなく。一番近くにいたフィールの、剣を握る手首へ。触れて、固めるために。


 ヒュッ。


 ドスッ。


 二本目の矢が、悪魔の右の手のひらを貫いた。フィールの手首の、指一本手前で。


 両の手のひらを、矢が縫い止めていた。


「――二呼吸ッ!!」


 テルモの声。


 悪魔の脚が動いた。膝から下を、小さく、速く、回そうとする。揺すって、割る。氷の内側で、ぎしり、と音がした。


 だが、テルモの右手が握りしめられた。氷が厚くなった。揺すられて生まれた亀裂を、上から、上から、新しい氷が塗り固めていく。


「揺すって割るなら」


 テルモが歯を食いしばりながら言った。


「割れるより速く、凍らせるまでだ……!!」


 テルモの鼻から、つうっと血が垂れた。力を使いすぎている。それでも、右手を下ろさなかった。


 蓮は走っていた。悪魔の真正面へ。胸の真ん中へ。北門で一度、届いた場所へ。


 肋が軋む。息が詰まる。


 構わない。


 構わない。


 構わない――!!


「おおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」


 ズブリ。


 手応えがあった。


 刃が。


 悪魔の胸に。


 沈んでいく。


 深く。


 深く。


 北門の時よりも、ずっと深く。


 鍔が胸に当たるまで。


 通った。


 通った。


 通ったんだ。


 蓮の顔のすぐ目の前に、悪魔の顔があった。焼け焦げた頬。赤い瞳。その瞳が、蓮をまっすぐに見ていた。


「……また」


 悪魔の唇が動いた。


「また、あなたですか」


 その声は、笑っていた。


「――三呼吸ッ!!」


 テルモの叫び。


 氷が軋んだ。悪魔の脚が回る。揺する。テルモの氷が、追いつかなくなっていた。


 パキッ。


 亀裂が走った。


「離れろ!! 全員、離れろッ!!」


 フィールの号令。


 特務班が一斉に剣を引き抜き、後ろへ跳んだ。蓮も、剣を抜いた。悪魔の胸から、黒い血が噴き上がった。


 キネシスの目が、砂丘の陰を見た。


 消えた。ベルと手を繋いだまま。


 悪魔の右肩から、青年の手が離れた。窓が閉じた。


 パキイイイイインッ!!


 氷が砕けた。悪魔の脚が自由になり、翼を覆っていた氷も、音を立てて剥がれ落ちた。


 だが、悪魔は動かなかった。窪地の真ん中に、立ったまま。


 静寂。


 蓮は砂の上に膝をついたまま、悪魔を見上げていた。悪魔の体中に傷があった。


 胸の真ん中に、蓮の剣が開けた深い穴。脇腹に、ロイの剣の傷。太腿に、ヴァイスの剣の傷。肩口から斜めに、フィールの剣が斬り下ろした傷。背中と腰に、ユーリの槍とリアムの短剣が開けた穴。両の手のひらに、ミラの矢が突き刺さったまま。


 焼け焦げた右肘。焼け焦げた頬。


 砕けた氷の破片がまだ貼りついている、二枚の翼。


 黒い血が、足元の砂を黒く染めていた。広がっていく。どこまでも。


 悪魔の膝が。


 がくりと折れた。


 砂の上に、片膝をついた。


「……ついた」


 ロイが呟いた。


「膝を……ついたぞ……!!」


 ヴァイスが震える声で言った。


 特務班の誰もが息を止めていた。


 北門でも、一度も膝をつかなかった悪魔が。今、膝をついている。


 砂丘の陰から、キネシスとベルが現れた。ベルはキネシスの手を握ったまま、へたり込んだ。息が荒かった。陣を描き続けた左手の指先が、痙攣していた。


「……やった」


 少女が呟いた。


「やった……やったよね……?」


 キネシスは答えなかった。青年は悪魔を見つめていた。その目は、まだ緩んでいなかった。


 テルモが鼻の下の血を手の甲で拭いながら、ゆっくりと窪地へ降りてきた。その足取りは、ふらついていた。


 アスモデウスは片膝をついたまま、自分の手を見下ろしていた。両の手のひらに、矢が刺さっている。悪魔は口で、その矢を一本ずつ咥えて引き抜いた。丁寧に。一本目を砂の上に置き、二本目をその隣に置いた。


 それから、ゆっくりと顔を上げた。特務班を。キネシスを。テルモを。ベルを。そして、蓮を。一人ずつ見つめていった。


「……窓を守る盾」


 悪魔が呟いた。


「触れさせずに、触れる」


 穴の開いた右の拳を、穴の開いた左の掌に。震えながら、合わせた。


 パン。


 弱々しい音だった。


 両手を体の前で合わせ、頭を下げた。


「長い、長い時を生きてまいりました。数えきれぬほどの相手と、手合わせをしてまいりました」


 悪魔は頭を下げたまま言った。


「これほど見事に窓を開けられたのは、初めてです」


 蓮の背筋に、冷たいものが走った。


 褒められている。また。膝をつき、胸に穴を開けられ、全身から血を流しながら、この悪魔は心の底から感嘆している。


 それが、なぜか恐ろしかった。


「ですから」


 悪魔がゆっくりと顔を上げた。赤い瞳が、光っていた。


 穏やかさではなかった。楽しさでもなかった。もっと深い。もっと静かな、何かが。


「最後の手合わせは」


 悪魔は立ち上がった。膝の砂を払いもせずに。黒い血を、砂の上に滴らせながら。


「私の、全てで」


 その時。


 蓮は見た。


 悪魔の両の手が。


 穴の開いた両の手のひらが。


 ゆっくりと。


 下を向いていくのを。


 地面へ。


 砂の上へ。


 手首から先だけが。


 窪地の砂を。


 指していた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。