窓を守る盾
タイタンの巨体が宙に浮いていた。
何が起きたのか、蓮には見えなかった。悪魔が巨漢の真後ろに現れた、次の瞬間には、もう。
タイタンの右腕が背中の方へ捻じり上げられていた。悪魔の両の手が、巨漢の手首と肘に添えられていた。
添えられていた。それだけだった。それだけで、桁外れの力を持つ巨体が、自分の振るった拳の勢いに引きずられて浮いていた。
「――がッ!?」
ドゴンッ。
タイタンが背中から砂に叩きつけられた。砂が爆ぜた。
巨漢が起き上がろうとする。その胸に、悪魔の膝がそっと乗せられていた。そっと。それだけで、巨漢は起き上がれなかった。
膝は離れなかった。触れ続けている。窓が開いていた。
「窓を開けてくださる方が、お一人減りますね」
悪魔の指先が、巨漢の額に触れた。
とん。
タイタンの目が見開かれた。
とん、と。もう一度。
巨漢の目から光が消えた。頭が砂の上に、ごとりと落ちた。
「タイタン様――!!」
砂丘の陰でロイが叫んだ。翼に薙ぎ払われたロイとヴァイス、ユーリとリアムも、砂を這って、この陰まで辿り着いていた。
悪魔は膝を下ろした。
「眠っていただいただけです。……命は取りません。この方は、良い抱擁をくださったので」
穏やかな声だった。だが、その目はもう穏やかではなかった。
悪魔の赤い瞳が、ゆっくりと砂丘の陰を見た。蓮たちがいる場所を。
「……キネシス様」
砂丘の陰で、フィールが肩を押さえたまま言った。その顔は蒼白だった。
「その魔石、蓮に」
キネシスの手には、最後の回復の魔石が握られていた。
「肋が折れてる。……蓮が立てなきゃ、次の窓は」
「フィールに使ってください」
蓮がフィールの言葉を遮った。
「肩が折れてる。隊長が剣を持てなかったら、誰が号令を――」
「号令は、腕がなくてもかけられる」
「剣は、腕がないと握れない」
「蓮」
「フィール」
二人の目がぶつかった。どちらも譲らなかった。
キネシスが黙って、魔石を二人の間に掲げた。
「……二人に使う」
青年は言った。
「一人分を、半分ずつ。どちらも治りきらない。……だが、二人とも立てる」
フィールが何か言いかけた。キネシスは、それを目で制した。
「先代なら、どちらか一人を選んだだろう」
青年の声は静かだった。
「私は、まだ選べない。……それが、私の未熟だ」
淡い光が二人を包んだ。フィールの肩が、落ちていた場所からゆっくりと元の位置に戻っていく。蓮の肋の鋭い痛みが、鈍い痛みに変わった。
変わっただけだった。
蓮の側の光は、やはり長かった。長く明滅して、それでも折れた骨の芯までは届かないまま、石の光が尽きた。石は、ただの石になっていた。
フィールは左腕をゆっくりと動かした。肩の高さまでしか上がらなかった。それでも、剣は握れた。
蓮は立ち上がった。息をするたびに、肋が軋んだ。それでも、立てた。
ベルがその二人を見ていた。涙の跡を、手の甲で乱暴に拭っていた。
「……馬鹿じゃないの、二人とも」
小さな声だった。
「なんでお互いに譲るのよ。……先に自分を治せばいいのに」
フィールは答えなかった。蓮も答えなかった。ベルも、それ以上何も言わなかった。
砂丘の頂の向こうから、影が一つ現れた。足を引きずっていた。右の袖が焼け焦げ、額から血が流れていた。
テルモだった。
「……生きていたか」
キネシスが息を吐いた。
「当たり前だ」
テルモは砂丘の陰に、崩れるように座り込んだ。
「翼で、砂丘の向こうまで飛ばされただけだ。……着地が、少々下手だった」
その目が、斜面の上で眠るタイタンを見た。それから、その傍らに立つ悪魔を見た。テルモの唇が、固く結ばれた。
「……窓を開ける者が、二人になった」
「開けてもやられる」
ベルが言った。全員が、少女を見た。
「窓は開けられないけど。……盾は張れる」
少女は自分の左手を見下ろした。陣を描き続けて、指先が震えていた。
「あいつ、窓を開けてる人に触って、固めるでしょ。掌で打つでしょ。……だったら、窓を開けてる人を、あたしの盾で覆っちゃえばいい」
蓮の頭の中で、何かが音を立てて嵌まった。
「……触れる手のひら以外を、全部、盾で覆う」
蓮は呟いていた。ベルが、蓮を見た。
「キネシス様が悪魔に触れる。窓が開く。……その瞬間、悪魔はキネシス様に触れ返してくる。固めようとする。打とうとする」
蓮は砂の上に、指で線を引いた。
「でも、キネシス様の体が盾で覆われていたら。……触れ返せない。固められない。打てない」
「窓は、両側から開くのに」
フィールが言葉を継いだ。その目が、見開かれていた。
「開いた窓から、あいつの手だけが、入ってこられない」
「うん」
蓮は頷いた。
「光の衣みたいに」
砂丘の陰が静まり返った。
キネシスがゆっくりとベルを見た。
「……盾を、私の体に沿わせて張れるのか」
「張れる」
ベルは即答した。
「近くにいれば。あたしの手が届くくらい、近くにいれば」
「だが、奴の指で叩かれれば、ひと呼吸で割れる」
「割れたら、また張る。ずっと張り続ける」
「私は跳ぶぞ」
「知ってる」
「跳ぶたびに、君も一緒に跳ぶことになる。私に掴まったまま。……悪魔の目の前に」
ベルの喉が、ごくりと鳴った。それでも、少女は顎を上げた。
「上等じゃない」
「足は私が縫う」
テルモが言った。焼け焦げた袖のまま、立ち上がる。
「ただし奴は揺すって割る。……縫っていられるのは、三呼吸だ」
「三呼吸あれば、十分です」
フィールが言った。肩の高さまでしか上がらない左腕で、剣を握り直す。
「特務班は、三呼吸の間に全員で突く。……ミラ」
ミラが顔を上げた。
「悪魔の手を狙って。手のひらを。……あいつの手が盾を叩こうとしたら、その手を射抜いて」
ミラは無言で頷いた。その指先が、矢筒の矢を一本、また一本と確かめていた。
「悪魔が手首を地面に向けたら」
蓮が言った。
「光が来る。……その時は、ベルの盾でキネシス様ごと包んで、そのまま跳んで離れる」
「分かった」
ベルが頷いた。
キネシスが全員を見渡した。フィール。蓮。ロイ。ヴァイス。ミラ。ユーリ。リアム。テルモ。そして、ベル。
青年は深く息を吐いた。
「……跳べるのは、あと数度だ」
キネシスは言った。
「九日かけた段取りは、崩された。今のは、ほんの数呼吸で組んだ段取りだ。稽古もしていない。……うまくいく保証は、どこにもない」
「いつものことです」
フィールが言った。その口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。
「特務班は、いつもそうやってきました」
キネシスはフィールを見た。それから、小さく笑った。
「……そうか」
砂丘の陰から、斜面の上を見上げた。悪魔がそこに立っていた。眠るタイタンの傍らで、翼をたたみ、両の手を体の前で合わせて。
待っていた。
「お話は、お済みですか」
アスモデウスの声が砂漠に響いた。
「皆様が何か、新しいことを考えておられるのは分かります。……どうぞ。お待ちしております」
悪魔は待っている。また。この悪魔は、いつも待っている。相手が、全力で来るのを。
キネシスが立ち上がり、その手をベルに差し出した。
ベルは一瞬だけその手を見て、それから振り返った。蓮を見た。
「……レン」
「ん」
「あたし、ちゃんと守るから」
少女は言った。
「キネシス様も。……あんたも」
蓮は何か言おうとした。その前に、ベルはぷいと顔を背けた。
「べ、別に、レンのためだけじゃないんだから……」
頬を染めながら、そう呟いて、キネシスの手をぎゅっと掴んだ。
キネシスが、少しだけ目を丸くした。
その少し後ろで、ユーリが黙ってベルに頷いた。ベルは横目でそれを見て、小さく頷き返した。
キネシスが、ベルの手をしっかりと握り返した。
「……しっかり掴まっていろ」
「言われなくても!!」
ベルの左手の先で、陣が生まれ始めた。
一秒。
二秒。
三秒。
キネシスの目が動いた。
悪魔の真後ろ。
特務班が一斉に、砂丘の陰から飛び出した。
テルモの右手が持ち上がった。
ミラが弓を引き絞った。
フィールが息を吸った。
蓮が剣を握りしめた。
そして。
キネシスとベルが。
消えた。




