隊長だから
悪魔が歩いてくる。斜面を、ゆっくりと。翼を広げたまま。翔べば一瞬の距離を、わざわざ歩いて。
ベルは動かなかった。左手を悪魔に向けたまま、斜面の途中に一人で立っていた。目の前に、砕けかけた光の盾が薄く浮かんでいる。
「……来ないでよ」
少女の声が震えていた。
「来たら、撃つわよ」
「どうぞ」
悪魔は穏やかに言った。
「窓の閉じた私に、あなたの火は届きません。……それでも、よろしければ」
ベルの唇がきゅっと結ばれた。左手の先で、陣が生まれ始めた。
一秒。
二秒。
悪魔の歩みは変わらない。
三秒。
「――シールドッ!!」
砕けかけていた盾がふっと消え、同じ場所に、新しい光の盾が張り直された。
悪魔は盾の前で足を止め、しげしげと光の膜を眺めた。それから、白い布を巻いた人差し指を一本だけ伸ばして、盾の表面にそっと触れた。
とん。
とん、とん。
とん、とん、とん。
指先が盾の同じ一点を、ごく小さく、ごく速く、叩き続けた。
ベルの顔が歪んだ。
「な、に……」
盾が震えていた。指先が叩く一点を中心に、光の膜が細かく、細かく波打っていた。
氷と同じだった。テルモの氷を、膝から下の揺さぶりだけで割った、あのやり方と。
ピシッ。
亀裂が走った。
ピシピシピシピシッ。蜘蛛の巣のように。
「盾は」
悪魔が静かに言った。
「割れます」
パリイイイインッ!!
盾が砕け散った。光の破片が砂漠の陽を浴びて、きらきらと舞った。
ベルが後ろへ跳んだ。速い。砂を蹴るたびに、小さな体がばねのように弾む。一歩で三歩分の距離を取る。着地と同時に、また陣を描き始める。
悪魔は追わなかった。ただ一歩だけ、前に出た。それだけで、少女が取った距離が消えていた。
「――っ!!」
ベルの剣が閃いた。
右手の細身の剣が、悪魔の首を狙って横薙ぎに走る。
カン。
見えない壁に弾かれる。当然だ。窓は閉じている。
それでも少女は剣を振るった。弾かれる。振るう。弾かれる。振るう。剣で時間を稼いでいた。左手の陣が満ちるまでの、三秒を。
カン。カン。カン。
「――シールド!!」
三秒目に盾が生まれた。
悪魔の指が盾に触れた。
とん、とん、とん。
パリン。
砕けた。
「――ッ、シールド!!」
また剣を振るう。
三秒。
盾。
とん、とん。
パリン。
「シールド!!」
パリン。
「シールドッ!!」
パリン。
盾を張るたびに砕かれた。砕かれるたびに張った。
少女の息が上がっていく。剣を振るう腕が下がっていく。陣を描く時間が長くなっていく。
四秒。
五秒。
それでも。
ベルは下がらなかった。
その少し上の斜面で、キネシスがタイタンの傍らに這い寄っていた。巨漢の腰に、回復の魔石が下がっている。キネシスはそれを外し、片手でタイタンの胸に触れたまま、もう片方の手で魔石をかざした。
加護のある貴族を癒やすには、貴族が触れていなければならない。そして人の五倍、石を食う。
淡い光がタイタンの胸を包んだ。石の光が、見る間に薄れていく。一つでは、到底足りない。
それでも、巨漢の喉で、ごぼりと鳴っていた音が止まった。
「……なぜ、退かれないのです」
悪魔が訊いた。心底、不思議そうに。盾を砕く指を止めて。
「あなたの盾は見事です。けれど私の前では、ひと呼吸しか保たない。……剣も、魔法も、届かない。退けば、生き延びられるかもしれない」
ベルは肩で息をしていた。額から汗が滴り落ちていた。それでも、左手を悪魔に向けたままだった。
「……決めたの」
少女が言った。
「あたし、レンの隣にいるって。……レンが死にそうになったら、今度はあたしが助けるって」
その目から涙がこぼれていた。悔しさの涙だった。それでも、目を逸らさなかった。
「あたしがここで下がったら、あんた、レンのとこに行くでしょ!! だから下がらない!! 絶対に、下がらないっ!!」
砂漠に少女の声が響いた。
アスモデウスは、しばらく黙っていた。それから、静かに微笑んだ。
「……良い、武です」
悪魔の右の掌が持ち上がった。焼け焦げた右腕の、その先の掌が。
「お若くとも。……いえ、失礼を。ベル様」
ベルの前に、盾はなかった。陣は、まだ半分しか描かれていなかった。
加護のない小さな体に。
掌が。
ゆっくりと。
伸びていく。
「――ベルッ!!」
蓮の叫びが斜面の下から響いた。
立てなかった。翼に叩かれた肋が、息をするたびに軋んでいた。這うことしかできなかった。
遠い。
あまりにも遠い。
掌が、少女の胸へ。
その時、横から影が飛び込んできた。
フィールだった。剣を持っていなかった。翼に弾き飛ばされた時に失くしていたのだ。
素手で。体ごと。
ベルの小さな体に、横からぶつかっていった。
「――ッ!?」
二人の体が斜面の上を転がった。悪魔の掌が、少女がいた空間を撫でた。空を切った。
だが、その指先だけが。
転がっていくフィールの左の肩に、引っかかった。
押したのではない。止めたのだ。指先一本で、肩の付け根の一点だけを。
フィールの体は止まらなかった。全身でぶつかっていった勢いのまま、斜面を転がっていく。
肩だけが、その場に置いていかれた。駆けている者の肩が、柱の角に引っかかったように。
体は前へ。肩は後ろへ。
ゴキッ。
「――あ、ぐ、ああああッ!!」
フィールの悲鳴が砂漠に響いた。
左の肩が、あり得ない方向に落ちていた。骨が折れていた。悪魔の力ではない。フィール自身の勢いで、折られたのだ。
二人は斜面の下まで転がり落ちて、止まった。フィールが、ベルの上に覆い被さるように倒れていた。
「……な」
ベルの声が震えていた。自分の上に倒れている少女を、見上げていた。
「なんで……なんで、あんたが……」
フィールは答えなかった。左の肩を押さえたまま、歯を食いしばっていた。額から脂汗が噴き出していた。
それでも、ゆっくりと体を起こした。ベルの前に、膝をついたまま。悪魔と少女の間に。
「……あんた、レンの何って、訊いたわよね」
フィールの声はかすれていた。痛みで震えていた。
「隊長よ……」
フィールは悪魔を見上げた。剣もない。左腕も動かない。それでも、ベルを背に庇ったまま動かなかった。
「……隊長だから。隊員を、守るの」
「あたしは、隊員じゃ……」
フィールは振り返らず、首を振った。
「私の号令で、ここまで来たんだから」
ベルの目から、また涙がこぼれた。さっきとは違う涙だった。
アスモデウスが斜面の上から、二人を見下ろしていた。その目が、わずかに細められていた。
「……庇われた方が、庇う」
悪魔は呟いた。
「北門でも、そうでした。人の武はいつもそうです。一人が倒れると、別の一人が前に出る」
悪魔が一歩、斜面を下りた。
その時。
ドゴオオオオオオンッ!!
悪魔の真横の砂が爆発した。砂煙の中から、巨体が現れていた。
タイタン。
口の端から血を流しながら。胸を押さえながら。それでも、二本の足で砂を踏みしめていた。その腰で、色を失った魔石が揺れていた。
「……待たせたなあ、この野郎……!!」
タイタンが吠えた。
巨漢の拳が悪魔の顔面へ振るわれた。
ガキィン!!
見えない壁に阻まれた。窓は閉じている。届かない。分かっていた。
それでも、タイタンは拳を振るった。
二発目。
ガキィン!!
三発目。
ガキィン!!
「届かねえのは知ってんだよ!!」
タイタンが血を吐きながら叫んだ。
「こっち向けって言ってんだ!! ちびっこと隊長から、離れろってんだよおおおッ!!」
悪魔の目がタイタンを見た。
その隙に、斜面の上で、キネシスが歯を食いしばって立ち上がっていた。膝が笑っていた。それでも、その目は斜面の下の一点を見ていた。フィールとベルが倒れている、その場所を。
消えた。
現れた。
二人の傍らに。そこへ這い寄っていた、蓮のすぐ前に。青年の顔が、紙のように白かった。
もう一度、跳んだ。
また現れた。斜面から離れた、砂丘の陰に。フィールとベルと、蓮を連れて。
「……キネシス、様」
「喋るな」
キネシスは膝から崩れるように座り込んだ。蓮の胸を見下ろし、フィールの肩を見て、ベルの涙に濡れた顔を見た。青年の唇が固く結ばれた。
フィールの腰の袋に手を入れる。ギードが持たせた回復の魔石。
最後の一つだった。
砂丘の陰から、蓮は斜面を見上げた。タイタンが悪魔の前に立ちはだかり、拳を振るい続けていた。届かない拳を。弾かれるたびに、口から血を吐きながら。
悪魔はそれを穏やかに見ていた。避けもせずに。見えない壁が、巨漢の拳を何度でも受け止めるに任せて。
「……皆様」
アスモデウスの声が砂漠に響いた。
「まだ、立たれますか」
その声は穏やかだった。だが、どこか変わっていた。楽しげだった声に、ほんの少しだけ、別のものが混じり始めていた。
「窓を繋げ、枷を作り、盾を張り、矢で手を抜き、倒れた者の前に別の者が立つ。……長い、長い時を生きてまいりましたが」
焼けた右の拳を、穴の開いた左の掌に。
パン。
両手を体の前で合わせ、頭を下げた。
「これほど手合わせが楽しいと思ったのは、初めてかもしれません」
そして、顔を上げた時。
その赤い瞳から。
穏やかさが。
すっと。
消えていた。
「ですから」
声が低くなった。
「私も、少しだけ」
悪魔の姿が揺らいだ。
タイタンの拳が空を切った。悪魔はそこにいなかった。巨漢の真後ろにいた。
蓮の目には、何も見えなかった。跳んだのでもない。翔んだのでもない。ただ、そこから、ここへ。
北門の前で三十歩を瞬きよりも速く詰めた、あの速さで。
いや。
それよりも、ずっと速く。
「本気で、参ります」




