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触れさせない

 悪魔が翔んだ。


 二枚の翼が砂を巻き上げる。


 立ち塞がったロイたち四人の頭上を、ひと跳びで越えて。


 窪地の底から、砂丘の中腹のテルモへ。


 一直線に。


 速い。


 蓮の目には、白い布の軌跡しか見えなかった。


「――テルモ様ッ!!」


 フィールの叫びが背中から追いかけてくる。


 蓮は走っていた。斜面を駆け上がる。砂が崩れる。足が滑る。


 遅い。遅い。遅い。


 斜面の上で、テルモは動かなかった。その背後には、仰向けのまま血を吐くタイタンと、膝をついたまま肩で息をするキネシス。


 キネシスはもう跳べない。少なくとも、今すぐには。


 テルモしか、いなかった。


「……来い」


 テルモが呟いた。その声は静かだった。


「触れれば、お前も窓の内側だ」


 窓は両側から開く。悪魔の掌がテルモに触れれば、悪魔の魔殻もそこから消えていく。テルモはそれを待っていた。悪魔の掌が触れる、その瞬間を。窓が開いた瞬間に焼く。自分の胸が砕かれるより先に。


 正気の沙汰ではなかった。だが、それしかなかった。


 悪魔の掌が伸びた。


 テルモの胸へ。


 テルモの右手が持ち上がった。


 触れる。


 その瞬間に――


 キィン。


 甲高い音がした。


 悪魔の掌が。


 テルモの胸の手前で。


 止まっていた。


 見えない壁ではなかった。青白い光の膜だった。テルモの胸の前に、薄い、硝子のような光の盾が浮かんでいた。


「――シールドッ!!」


 甲高い声が斜面の下から響いた。ベルだった。少女は斜面を駆け上がりながら、左手をテルモへ向けていた。走りながら、陣を描いていたのだ。悪魔がテルモへ向かって翔んだ、その瞬間から。


「触らせなきゃいいんでしょ!!」


 ベルが叫んだ。


「触らなきゃ窓も開かない!! 触らなきゃ、あんたの変な技も、掌も、届かない!!」


 アスモデウスの目が、わずかに見開かれた。


「……触れさせない、ですか」


 悪魔の声に、初めて感嘆とは違うものが混じった。意外だった、という響き。


 この悪魔の武は、全て触れることから始まる。触れて崩す。触れて固める。触れて打つ。


 ならば。


 触れさせなければ。


 悪魔の指先が、光の盾を叩いた。


 コン。


 ピシッ。


 盾に亀裂が走った。


「くっ……!!」


 ベルの顔が歪んだ。斜面の途中で足を踏ん張っている。左手を突き出したまま、その腕がぶるぶると震えている。


 コン。


 ピシピシッ。


 長くはもたない。ひと呼吸。それが限界だった。


 だが。


 そのひと呼吸で、十分だった。


「――よくやった、小娘」


 テルモの右手が動いた。


 光の盾の脇から。


 悪魔の手首を。


 掴んだ。


 テルモの方から。待つのではなかった。悪魔に触れさせるのではなく、自分から触れて。


 掴んだ掌の下で、見えない壁が軋んだ。まだ阻む。だが、離さない。握り込む。


 窓が、ゆっくりと開いていく。掴んだところから。


 その時。


 テルモの右の手首が。


 熱く。


 疼いた。


 何かに縛られていたような。冷たいものに。自分で自分を、どこかに縛りつけたような。


 同時に、腹の奥が冷えた。一度、砕かれたことがあるような。


 テルモには、どちらも覚えのない痛みだった。


「――ッ」


 テルモの唇が、勝手に動いていた。意味も分からないまま。体が知っていることを。


「凍れ」


 ビキイイイイイイイッ!!


 テルモの右手と悪魔の手首が、一瞬で分厚い氷に覆われた。


 手首から肘まで。テルモの右腕の、肩口までが。悪魔の腕ごと、一本の氷の柱に閉じ込められていた。


 蓮は斜面の途中で足を止めていた。息が止まっていた。


 氷の枷。北門で、テルモが自分の腕ごと悪魔に繋ぎとめた、あの枷。


 握った手を関節の技でほどかれないように。指を開かされないように。指ごと、腕ごと凍らせる。


 テルモはそれを覚えていない。覚えていないはずだった。中庭の九日間でも、誰一人それを教えなかった。教えられなかった。窓を三つに分けて表に書いた時、蓮は枷の一行を、わざと書かなかったのだ。テルモの体を、二度と悪魔の掌の前に縛りつけないために。


 それなのに。同じ形で。同じ右腕で。


「……これは」


 アスモデウスが、氷の柱を見下ろした。その目に、はっきりとした驚きが浮かんでいた。


「北門の、あの枷……。覚えておいででしたか」


 テルモは答えなかった。答えられなかった。自分でも分からないのだ。なぜこうしたのか。ただ、右の手首が熱かった。


「――燃えろ」


 ゴオオオオオオッ!!


 氷の柱の内側で、炎が生まれた。


 悪魔の腕だけが燃え上がった。


 氷は溶けない。テルモの腕も焼けない。何を温め、何を冷やすかは、使い手が選ぶ。窓の内側の、悪魔の腕の肉だけが、芯から紅蓮に染まっていく。


 悪魔の左手が動いた。燃えていない方の手が、テルモの胸へ。


 光の盾は、もうなかった。テルモが手首を掴んだその時に、砕けて消えていた。


 左の掌がテルモの胸に迫る。テルモの右腕は、枷の中。避けられない。逃げられない。


 北門と同じだ。枷を作った者は、枷に縛られる。


「――シールドッ!!」


 またあの声がした。ベル。


 だが、間に合わない。陣はまだ半分しか描かれていない。


 一秒。


 二秒。


 悪魔の掌が、テルモの胸の指三本手前に。


 その時。


 ヒュッ。


 風切り音。


 ドスッ。


 悪魔の左の手のひらに、矢が突き刺さっていた。手のひらのど真ん中を、貫いて。


 窓は開いている。テルモの掴んだ右手首から、悪魔の全身へ。もう左の手のひらまで、殻は消えていた。


 斜面の下で、ミラが二本目の矢を番えていた。表情は何も変わらなかった。だが、その指先が、ほんのわずかに震えていた。


 悪魔の左手が止まった。手のひらに矢が刺さったまま。


 その一瞬に。


「――シールド!!」


 陣が満ちた。


 テルモの胸の前に、二枚目の光の盾が浮かんだ。


 悪魔の左手が盾に阻まれた。矢の刺さった手のひらが、テルモに届かなかった。


「今よッ!!」


 フィールが斜面を駆け上がってきていた。


 その後ろに、ロイが、ヴァイスが、ユーリとリアムが。


 蓮も走った。


 窓は開いている。テルモの氷の枷が、窓を釘づけにしている。悪魔の右腕は枷の中で燃え、左手はベルの盾に阻まれている。


 今なら。


 今ならば。


「突けえええええええええッ!!」


 六本の刃が、斜面を駆け上がる。


 ――通れ!!


 その時。


 悪魔の背中で。


 二枚の翼が。


 大きく開いた。


「――伏せろッ!!」


 テルモが叫んだ。


 遅かった。


 ブオオオオオオオオオッ!!


 翼が薙いだ。


 手ではなかった。掌でもなかった。


 翼だった。


 悪魔の背から生えた二枚の黒い翼が、刃のように左右へ振るわれていた。


 両の手を塞がれても、この悪魔には、まだ翼があった。


 駆け上がってきた特務班の全員が、翼に薙ぎ払われた。


 ロイが斜面を転がり落ちた。ヴァイスが砂に叩きつけられた。ユーリとリアムがまとめて吹き飛ばされた。フィールが剣で翼を受け止めようとして、剣ごと弾き飛ばされた。


 蓮も。


 胸に、翼の縁が叩きつけられた。


 ミシッ。


 嫌な音がした。


 息が止まる。視界が回る。砂の斜面を何度も何度も転がる。


 止まった。仰向けに倒れていた。砂漠の空が見えた。


 そして。


 斜面の上で。


 翼の一撃は、テルモにも届いていた。窓の内側の、加護の消えたテルモに。氷の枷が、翼に叩き割られた。


 パキイイイイインッ!!


 砕けた氷の破片が陽の光を浴びて、きらきらと舞った。


 テルモの体が宙を舞った。キネシスとタイタンのいる斜面を越えて、砂丘の頂の向こう側へ。


 見えなくなった。


「テルモ様ッ!!」


 フィールの声が震えていた。


 静寂。


 斜面の上に、悪魔が一人立っていた。右腕は、肘から先が黒く焼け焦げていた。左の手のひらには、ミラの矢が刺さったままだった。


 それでも立っていた。


 悪魔は矢を手のひらから引き抜いた。丁寧に。それから、その矢を斜面の下のミラへと放り返した。矢は、ミラの足元の砂にざくりと突き立った。


「良い矢でした」


 悪魔は穏やかに言った。


「手のひらの真ん中を抜かれたのは、初めてです」


 それから、斜面の途中にただ一人立っている少女を見下ろした。


 ベル。翼の一撃を、盾で受けたのだろう。少女の前には、砕けかけた三枚目の光の盾が、まだ薄く浮かんでいた。


 少女は肩で息をしていた。左手を悪魔に向けたまま、その腕がぶるぶると震えていた。


 悪魔の赤い瞳が、少女をじっと見つめた。


「触れさせない」


 アスモデウスが呟いた。


「私の武は、触れることから始まります。触れて崩し、触れて固め、触れて打つ。……その全てを、あなたの盾は、始まる前に止めてしまう」


 悪魔はゆっくりと、ベルの方へ向き直った。


「窓を開ける方々よりも。剣を突く方々よりも」


 焼けた右の拳を、穴の開いた左の掌に。


 パン。


 両手を体の前で合わせ、頭を下げた。


「陣を描く、小さな方。……あなたが一番、厄介ですね」


 ベルの顔から、血の気が引いていった。


 少女には加護がない。窓など関係ない。悪魔の掌が、ただ触れるだけで。


 蓮は砂の上で身を起こそうとした。胸が軋んだ。翼に叩かれた肋が、悲鳴を上げていた。息を吸うたびに、胸の内側で何かがずれる。


 立て。


 立て。


 立て立て立て立て――!!


 悪魔の二枚の翼が。


 音もなく。


 広がった。


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