二枚の翼
掌がタイタンの胸に添えられていた。
窓は開いている。
巨漢の加護は消えている。
そして、巨漢は動けない。
蓮は走っていた。
届かない。
三歩。
たった三歩が、果てしなく遠い。
悪魔の肘が、わずかに引かれた。
打つ。
打たれる。
北門で蓮の胸を砕いたあの一撃が。
窓の内側で、守りのない、動けない巨漢の胸に。
「――燃えろッ!!」
砂丘の中腹から、声が落ちてきた。テルモだった。右手が、まっすぐに悪魔の右肘へ向けられていた。
窓は開いている。窓の内側なら、炎も届く。だが、窓が開いているのは悪魔だけではなかった。悪魔を抱きすくめたタイタンの加護も消えている。悪魔の全身を焼けば、その体にぴたりと貼りついた巨漢も炎に呑まれる。掌を焼けば、掌の下のタイタンの胸が焼ける。
だから。
肘。タイタンの体から離れていて、それでいて一撃を打ち出す要の場所。
ゴオオオオオッ!!
悪魔の右肘が、拳ほどの紅蓮の炎に包まれた。
タイタンの胸に添えられた掌には、火の粉一つ落ちなかった。
悪魔の肘が止まった。ほんの一瞬。炎の熱に、筋が縮んだのだ。
その一瞬に。
「おおおおおおおおおおおッ!!」
蓮の剣が、悪魔の前腕を下から突き上げていた。
ズブッ。
刃が腕の肉を貫いて、反対側へ抜けた。
掌がタイタンの胸から、指一本分浮いた。
浮いた。
だが。
「……惜しい」
アスモデウスが呟いた。肘を焼かれ、腕を蓮の剣に貫かれたまま。
指一本分浮いた掌を。
そのまま。
押し込んだ。
ドン。
音は小さかった。だが、タイタンの巨体が内側から震えた。
ごぼり、と。巨漢の口から、赤いものが溢れ出た。
「タイタン様ッ!!」
「が、は……ッ」
タイタンの目が見開かれていた。それでも倒れなかった。悪魔を抱きすくめた腕が、ほどけなかった。固まったまま、動かないまま。だからこそ、倒れることすらできなかった。
「浅い」
アスモデウスが静かに言った。
「炎と剣で、少しだけずれました。……北門の時よりも、浅い」
悪魔の目が、腕を貫く蓮の剣を見た。それから、蓮を見た。
「また、あなたですか。通さない方」
その声はどこか嬉しそうだった。
「――フィール!!」
蓮は剣の柄を握ったまま叫んだ。
「タイタン様が外れない!! 腕が固まってる!!」
「分かってる!!」
フィールの声が返ってきた。
「ロイ、ヴァイス!! タイタン様の指を!! 一本ずつ剥がして!!」
「おう!!」
ロイとヴァイスがタイタンの背に取りつき、固まった巨漢の指を力ずくでこじ開けにかかる。
重い。桁外れの力で握り込んだまま、固まった指だった。人の力では、びくともしない。
「くそ、動かねえ……!!」
その時、悪魔の足首に、白いものがこびりついているのが見えた。さっき砕けた、テルモの氷のかけらだった。
悪魔が膝から下を、ほんのわずかに回した。
内へ。
外へ。
また内へ。
ごく小さく。ごく速く。
ぎしり。ぎしり。ぎしり。
かけらが砂ごと崩れ落ちた。
蓮は息を呑んだ。さっきも、これだったのだ。
テルモの氷が割れたのは三呼吸目。稽古でタイタンが力ずくで割った時と同じだった。だから誰も気に留めなかった。
だがこの悪魔は、力など込めていなかった。凍らされたその瞬間から、膝から下をこうして揺すり続けていたのだ。慌てもせず。顔色一つ変えずに。
「――嘘」
ベルが呟いた。
「氷を……揺すって割ったの……?」
蓮には分かった。地面に深く打ち込んだ杭は、まっすぐ引っ張っても抜けない。だが前後に揺すれば、杭と土の間に隙間ができて、やがて緩む。
氷も同じだった。力任せに引けば、氷は脚の周り全体で踏ん張る。だが細かく、速く、何度もねじれば、脚と氷の境目にわずかな隙間が生まれる。隙間ができれば、硬い氷ほどそこからひびが走る。
タイタンは三呼吸かけて、力で割った。この悪魔は同じ三呼吸を、ただ揺すって過ごした。次に凍らされても、同じように割るだろう。
いや。割り方を一度覚えたのなら、次はもっと早く。
蓮の背中に、冷たい汗が噴き出した。
「……少々、冷えましたね」
アスモデウスは足首を回しながら言った。燃える肘のまま、右腕に蓮の剣を刺したまま、タイタンの固まった腕に抱かれたまま。
「さて」
悪魔の左手が動いた。燃えていない方の手が、タイタンの腕の内側に。その指先が、巨漢の腕の筋を、とん、と押した。
固まっていた腕が。
ふっと。
緩んだ。
ロイとヴァイスが、勢い余って後ろへひっくり返った。抱きすくめていた腕がほどけ、窓が閉じた。タイタンの巨体が、砂の上に崩れ落ちた。
悪魔は、その巨体を軽く跨いだ。燃える肘を一振りすると、炎が消えた。腕を貫いていた蓮の剣が抜けて、砂の上に落ちた。
「お返しします」
悪魔は、蓮の足元に落ちた剣を、爪先で軽く蹴って寄越した。
倒れたタイタンのすぐ前で、悪魔は足を止めていた。巨漢は砂に頬を押しつけ、血を吐いていた。起き上がれない。腕がまだ思うように動かないのだ。
この悪魔が、あと一度。あと一度、タイタンの背に触れて掌を添えれば。
「――キネシス様ッ!!」
蓮は叫んでいた。段取りの最後の一手。悪魔を、ここから引き離す。
キネシスは、もう跳んでいた。
悪魔の真後ろ。
その肩に。
手が触れた。
窓が開いた。
キネシスの目が、窪地の向こうを見た。地平の際。陽炎に揺れる、遠い砂丘の頂を。見える限り、一番遠い場所を。
消えた。
悪魔とキネシスが、窪地から。
蓮は振り返った。
遠い。あまりに遠い砂丘の頂に、豆粒のような影が二つ並んでいた。
一瞬。
片方の影が消えた。キネシスが、窪地の縁に戻っていた。窪地の底は、遠い砂丘からは見えない。縁までしか跳べなかったのだ。
遠い頂には、悪魔の影だけが残った。
届いた。段取りの通りだ。
キネシスは、息をつく間もなかった。その目が、もう窪地の底を見ていた。砂の上に倒れた巨漢を。
消えた。
現れた。
タイタンのすぐ隣に。
青年の手が、巨漢の肩を掴んだ。
その目が、砂丘の中腹を見た。テルモの背後。悪魔から一番遠い、斜面の上を。
消えた。タイタンの巨体ごと。
次の瞬間、二人はテルモの背後の斜面に転がっていた。
キネシスが膝をついた。肩で息をしていた。額から汗が滴り、砂に黒い染みを作っていた。
夜明けから、これで何度目だ。蓮は、数えるのをやめた。数えたところで、キネシスが跳ぶのをやめるはずがなかった。
「……ざまあ、ねえ」
斜面に仰向けになったタイタンが、血の混じった咳をしながら笑った。
「坊主に、担がれちまった……」
「喋るな」
テルモが振り返らずに言った。その目は、遠い砂丘の頂から離れていなかった。
蓮も、遠い砂丘を見ていた。目を離せなかった。
あの距離なら、歩いて戻るには一刻はかかる。走っても、半刻は。その間に体勢を立て直せる。タイタンの傷を確かめられる。テルモの氷の位置を――
バサッ。
風に乗って、音が届いた。遠い。だが、確かに。
蓮の喉が凍りついた。
遠い砂丘の頂で。
悪魔の背中から。
二枚の翼が。
大きく。
広がっていた。
バサッ。
影が、頂から浮いた。
バサッ。
影が、大きくなった。
近づいてくる。
まっすぐに。
速い。
馬など比べものにならない。
風の音が、見る間に近づいてくる。
バサッ。
バサッ。
バサッバサッバサッ――!!
窪地の上空で、影が大きく旋回した。それから、ゆっくりと舞い降りてきた。まるで階段を一段ずつ降りるように。穏やかに。優雅に。
さっきと同じ場所に。タイタンが倒れていた、その砂の上に。音もなく、降り立った。
数えるほどの呼吸しか、経っていなかった。
悪魔は足元を見下ろした。巨漢の形にへこんだ砂と、点々と落ちた血の跡を。
それから斜面の上の、タイタンとキネシスを見上げて、小さく頷いた。
「お見事です。……今のは、とっさの一手ですね」
キネシスの肩が、ぴくりと動いた。
「翼は、二枚に戻りましたので」
アスモデウスは翼をたたみながら言った。
「北門の時のようには、参りません。……申し訳ありません」
謝っていた。本当に、申し訳なさそうに。
北門で、一枚の翼で空から落ちてきた悪魔は。今は、どこへ飛ばされても帰ってくる。
斜面の上で、キネシスは動かなかった。その顔から、血の気が引いていた。
段取りの最後の一手。遠ざけるための一手。
それが、消えた。
「ここから先には、行かせねえ……!!」
ロイが剣を抜いた。ヴァイスも。ユーリとリアムも。四人は、悪魔と斜面の間に立ち塞がった。
斜面の上には、倒れたタイタンと、膝をついたキネシスと、テルモがいる。
窓は開いていない。剣は届かない。それでも、四人は退かなかった。
盾となれ。
エスクーダで、ギードが叫んだ言葉。従士なら誰もが同じことを叩き込まれてきた。考えるより先に、体がそう動いていた。
「ファイアボール!!」
窪地の縁から、火球が飛んだ。ベルだった。
悪魔の体の手前で。見えない壁に当たって。
霧散した。
「効かない……効かない、効かないっ!!」
もう一度。
アイスボール。
「…………」
ファイアボール。
「…………」
「なんでよ!! さっきは効いたのに!!」
「窓が閉じてる!!」
フィールが叫んだ。
「誰も触れてない!! 今は何をやっても届かない!!」
ベルの手が止まった。唇を噛んでいた。悔しそうに。震えながら。
アスモデウスは、その少女を穏やかに見ていた。
「良い火でした。……先ほどの、顔を焼いた火は」
悪魔は焼けた頬に、白い布の指先で触れた。
「窓の開くその前から、走りながら陣を描いておく。お若いのに、よく考えておられる」
「若い言うなっ!!」
ベルが叫んだ。声が裏返っていた。目に、悔しさの涙が滲んでいた。
蓮は剣を拾い上げていた。頭の中が、猛烈な勢いで回っていた。
整理しろ。
整理しろ。
整理しろ。
タイタンは倒れた。胸を打たれ、腕を固められ、今は斜面で血を吐いている。窓役の一人が欠けた。
テルモの氷は割られた。力ではなく、揺すって。次はもっと早く割られる。
キネシスの最後の一手は、翼に破られた。どこへ跳ばしても、数呼吸で戻ってくる。
そして。
窓の内側では、悪魔も触れた者を固められる。
窓は両側から開く。それは剣が通るということだけではなかった。悪魔の技も、通るということだった。
九日間で組み上げた段取りが。
一つずつ。
丁寧に。
解かれていく。
まるで、蓮の書いた表を、一行ずつ指でなぞって消していくように。
蓮は窪地の上を見た。砂丘の中腹のテルモを。テルモは倒れたタイタンを見ていて、その横顔は蒼白だった。
それから蓮は、アスモデウスを見た。悪魔もまた、砂丘の中腹を見上げていた。
テルモを。
その赤い瞳が、細められた。
「足を縫ってくださった方」
アスモデウスが穏やかに言った。
「窓を繋げる要は、あなたですね」
テルモの眉が動いた。
「一つ目の窓で足を縫い、二つ目の窓で胴を縛る。……足を縫う方がいなければ、二つ目の窓は開く前に閉じてしまう」
悪魔はゆっくりと、テルモの方へ向き直った。ロイたち四人の剣など、目にも入っていないようだった。
右の拳を、左の掌に。
パン。
両手を体の前で合わせ、頭を下げた。
客への礼だった。次の手合わせの相手を、決めた者の礼だった。
「では、次は」
顔を上げた悪魔の、二枚の翼が。
音もなく広がった。
「炎の方」




