↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
56/156

二枚の翼

 掌がタイタンの胸に添えられていた。


 窓は開いている。


 巨漢の加護は消えている。


 そして、巨漢は動けない。


 蓮は走っていた。


 届かない。


 三歩。


 たった三歩が、果てしなく遠い。


 悪魔の肘が、わずかに引かれた。


 打つ。


 打たれる。


 北門で蓮の胸を砕いたあの一撃が。


 窓の内側で、守りのない、動けない巨漢の胸に。


「――燃えろッ!!」


 砂丘の中腹から、声が落ちてきた。テルモだった。右手が、まっすぐに悪魔の右肘へ向けられていた。


 窓は開いている。窓の内側なら、炎も届く。だが、窓が開いているのは悪魔だけではなかった。悪魔を抱きすくめたタイタンの加護も消えている。悪魔の全身を焼けば、その体にぴたりと貼りついた巨漢も炎に呑まれる。掌を焼けば、掌の下のタイタンの胸が焼ける。


 だから。


 肘。タイタンの体から離れていて、それでいて一撃を打ち出す要の場所。


 ゴオオオオオッ!!


 悪魔の右肘が、拳ほどの紅蓮の炎に包まれた。


 タイタンの胸に添えられた掌には、火の粉一つ落ちなかった。


 悪魔の肘が止まった。ほんの一瞬。炎の熱に、筋が縮んだのだ。


 その一瞬に。


「おおおおおおおおおおおッ!!」


 蓮の剣が、悪魔の前腕を下から突き上げていた。


 ズブッ。


 刃が腕の肉を貫いて、反対側へ抜けた。


 掌がタイタンの胸から、指一本分浮いた。


 浮いた。


 だが。


「……惜しい」


 アスモデウスが呟いた。肘を焼かれ、腕を蓮の剣に貫かれたまま。


 指一本分浮いた掌を。


 そのまま。


 押し込んだ。


 ドン。


 音は小さかった。だが、タイタンの巨体が内側から震えた。


 ごぼり、と。巨漢の口から、赤いものが溢れ出た。


「タイタン様ッ!!」


「が、は……ッ」


 タイタンの目が見開かれていた。それでも倒れなかった。悪魔を抱きすくめた腕が、ほどけなかった。固まったまま、動かないまま。だからこそ、倒れることすらできなかった。


「浅い」


 アスモデウスが静かに言った。


「炎と剣で、少しだけずれました。……北門の時よりも、浅い」


 悪魔の目が、腕を貫く蓮の剣を見た。それから、蓮を見た。


「また、あなたですか。通さない方」


 その声はどこか嬉しそうだった。


「――フィール!!」


 蓮は剣の柄を握ったまま叫んだ。


「タイタン様が外れない!! 腕が固まってる!!」


「分かってる!!」


 フィールの声が返ってきた。


「ロイ、ヴァイス!! タイタン様の指を!! 一本ずつ剥がして!!」


「おう!!」


 ロイとヴァイスがタイタンの背に取りつき、固まった巨漢の指を力ずくでこじ開けにかかる。


 重い。桁外れの力で握り込んだまま、固まった指だった。人の力では、びくともしない。


「くそ、動かねえ……!!」


 その時、悪魔の足首に、白いものがこびりついているのが見えた。さっき砕けた、テルモの氷のかけらだった。


 悪魔が膝から下を、ほんのわずかに回した。


 内へ。


 外へ。


 また内へ。


 ごく小さく。ごく速く。


 ぎしり。ぎしり。ぎしり。


 かけらが砂ごと崩れ落ちた。


 蓮は息を呑んだ。さっきも、これだったのだ。


 テルモの氷が割れたのは三呼吸目。稽古でタイタンが力ずくで割った時と同じだった。だから誰も気に留めなかった。


 だがこの悪魔は、力など込めていなかった。凍らされたその瞬間から、膝から下をこうして揺すり続けていたのだ。慌てもせず。顔色一つ変えずに。


「――嘘」


 ベルが呟いた。


「氷を……揺すって割ったの……?」


 蓮には分かった。地面に深く打ち込んだ杭は、まっすぐ引っ張っても抜けない。だが前後に揺すれば、杭と土の間に隙間ができて、やがて緩む。


 氷も同じだった。力任せに引けば、氷は脚の周り全体で踏ん張る。だが細かく、速く、何度もねじれば、脚と氷の境目にわずかな隙間が生まれる。隙間ができれば、硬い氷ほどそこからひびが走る。


 タイタンは三呼吸かけて、力で割った。この悪魔は同じ三呼吸を、ただ揺すって過ごした。次に凍らされても、同じように割るだろう。


 いや。割り方を一度覚えたのなら、次はもっと早く。


 蓮の背中に、冷たい汗が噴き出した。


「……少々、冷えましたね」


 アスモデウスは足首を回しながら言った。燃える肘のまま、右腕に蓮の剣を刺したまま、タイタンの固まった腕に抱かれたまま。


「さて」


 悪魔の左手が動いた。燃えていない方の手が、タイタンの腕の内側に。その指先が、巨漢の腕の筋を、とん、と押した。


 固まっていた腕が。


 ふっと。


 緩んだ。


 ロイとヴァイスが、勢い余って後ろへひっくり返った。抱きすくめていた腕がほどけ、窓が閉じた。タイタンの巨体が、砂の上に崩れ落ちた。


 悪魔は、その巨体を軽く跨いだ。燃える肘を一振りすると、炎が消えた。腕を貫いていた蓮の剣が抜けて、砂の上に落ちた。


「お返しします」


 悪魔は、蓮の足元に落ちた剣を、爪先で軽く蹴って寄越した。


 倒れたタイタンのすぐ前で、悪魔は足を止めていた。巨漢は砂に頬を押しつけ、血を吐いていた。起き上がれない。腕がまだ思うように動かないのだ。


 この悪魔が、あと一度。あと一度、タイタンの背に触れて掌を添えれば。


「――キネシス様ッ!!」


 蓮は叫んでいた。段取りの最後の一手。悪魔を、ここから引き離す。


 キネシスは、もう跳んでいた。


 悪魔の真後ろ。


 その肩に。


 手が触れた。


 窓が開いた。


 キネシスの目が、窪地の向こうを見た。地平の際。陽炎に揺れる、遠い砂丘の頂を。見える限り、一番遠い場所を。


 消えた。


 悪魔とキネシスが、窪地から。


 蓮は振り返った。


 遠い。あまりに遠い砂丘の頂に、豆粒のような影が二つ並んでいた。


 一瞬。


 片方の影が消えた。キネシスが、窪地の縁に戻っていた。窪地の底は、遠い砂丘からは見えない。縁までしか跳べなかったのだ。


 遠い頂には、悪魔の影だけが残った。


 届いた。段取りの通りだ。


 キネシスは、息をつく間もなかった。その目が、もう窪地の底を見ていた。砂の上に倒れた巨漢を。


 消えた。


 現れた。


 タイタンのすぐ隣に。


 青年の手が、巨漢の肩を掴んだ。


 その目が、砂丘の中腹を見た。テルモの背後。悪魔から一番遠い、斜面の上を。


 消えた。タイタンの巨体ごと。


 次の瞬間、二人はテルモの背後の斜面に転がっていた。


 キネシスが膝をついた。肩で息をしていた。額から汗が滴り、砂に黒い染みを作っていた。


 夜明けから、これで何度目だ。蓮は、数えるのをやめた。数えたところで、キネシスが跳ぶのをやめるはずがなかった。


「……ざまあ、ねえ」


 斜面に仰向けになったタイタンが、血の混じった咳をしながら笑った。


「坊主に、担がれちまった……」


「喋るな」


 テルモが振り返らずに言った。その目は、遠い砂丘の頂から離れていなかった。


 蓮も、遠い砂丘を見ていた。目を離せなかった。


 あの距離なら、歩いて戻るには一刻はかかる。走っても、半刻は。その間に体勢を立て直せる。タイタンの傷を確かめられる。テルモの氷の位置を――


 バサッ。


 風に乗って、音が届いた。遠い。だが、確かに。


 蓮の喉が凍りついた。


 遠い砂丘の頂で。


 悪魔の背中から。


 二枚の翼が。


 大きく。


 広がっていた。


 バサッ。


 影が、頂から浮いた。


 バサッ。


 影が、大きくなった。


 近づいてくる。


 まっすぐに。


 速い。


 馬など比べものにならない。


 風の音が、見る間に近づいてくる。


 バサッ。


 バサッ。


 バサッバサッバサッ――!!


 窪地の上空で、影が大きく旋回した。それから、ゆっくりと舞い降りてきた。まるで階段を一段ずつ降りるように。穏やかに。優雅に。


 さっきと同じ場所に。タイタンが倒れていた、その砂の上に。音もなく、降り立った。


 数えるほどの呼吸しか、経っていなかった。


 悪魔は足元を見下ろした。巨漢の形にへこんだ砂と、点々と落ちた血の跡を。


 それから斜面の上の、タイタンとキネシスを見上げて、小さく頷いた。


「お見事です。……今のは、とっさの一手ですね」


 キネシスの肩が、ぴくりと動いた。


「翼は、二枚に戻りましたので」


 アスモデウスは翼をたたみながら言った。


「北門の時のようには、参りません。……申し訳ありません」


 謝っていた。本当に、申し訳なさそうに。


 北門で、一枚の翼で空から落ちてきた悪魔は。今は、どこへ飛ばされても帰ってくる。


 斜面の上で、キネシスは動かなかった。その顔から、血の気が引いていた。


 段取りの最後の一手。遠ざけるための一手。


 それが、消えた。


「ここから先には、行かせねえ……!!」


 ロイが剣を抜いた。ヴァイスも。ユーリとリアムも。四人は、悪魔と斜面の間に立ち塞がった。


 斜面の上には、倒れたタイタンと、膝をついたキネシスと、テルモがいる。


 窓は開いていない。剣は届かない。それでも、四人は退かなかった。


 盾となれ。


 エスクーダで、ギードが叫んだ言葉。従士なら誰もが同じことを叩き込まれてきた。考えるより先に、体がそう動いていた。


「ファイアボール!!」


 窪地の縁から、火球が飛んだ。ベルだった。


 悪魔の体の手前で。見えない壁に当たって。


 霧散した。


「効かない……効かない、効かないっ!!」


 もう一度。


 アイスボール。


「…………」


 ファイアボール。


「…………」


「なんでよ!! さっきは効いたのに!!」


「窓が閉じてる!!」


 フィールが叫んだ。


「誰も触れてない!! 今は何をやっても届かない!!」


 ベルの手が止まった。唇を噛んでいた。悔しそうに。震えながら。


 アスモデウスは、その少女を穏やかに見ていた。


「良い火でした。……先ほどの、顔を焼いた火は」


 悪魔は焼けた頬に、白い布の指先で触れた。


「窓の開くその前から、走りながら陣を描いておく。お若いのに、よく考えておられる」


「若い言うなっ!!」


 ベルが叫んだ。声が裏返っていた。目に、悔しさの涙が滲んでいた。


 蓮は剣を拾い上げていた。頭の中が、猛烈な勢いで回っていた。


 整理しろ。


 整理しろ。


 整理しろ。


 タイタンは倒れた。胸を打たれ、腕を固められ、今は斜面で血を吐いている。窓役の一人が欠けた。


 テルモの氷は割られた。力ではなく、揺すって。次はもっと早く割られる。


 キネシスの最後の一手は、翼に破られた。どこへ跳ばしても、数呼吸で戻ってくる。


 そして。


 窓の内側では、悪魔も触れた者を固められる。


 窓は両側から開く。それは剣が通るということだけではなかった。悪魔の技も、通るということだった。


 九日間で組み上げた段取りが。


 一つずつ。


 丁寧に。


 解かれていく。


 まるで、蓮の書いた表を、一行ずつ指でなぞって消していくように。


 蓮は窪地の上を見た。砂丘の中腹のテルモを。テルモは倒れたタイタンを見ていて、その横顔は蒼白だった。


 それから蓮は、アスモデウスを見た。悪魔もまた、砂丘の中腹を見上げていた。


 テルモを。


 その赤い瞳が、細められた。


「足を縫ってくださった方」


 アスモデウスが穏やかに言った。


「窓を繋げる要は、あなたですね」


 テルモの眉が動いた。


「一つ目の窓で足を縫い、二つ目の窓で胴を縛る。……足を縫う方がいなければ、二つ目の窓は開く前に閉じてしまう」


 悪魔はゆっくりと、テルモの方へ向き直った。ロイたち四人の剣など、目にも入っていないようだった。


 右の拳を、左の掌に。


 パン。


 両手を体の前で合わせ、頭を下げた。


 客への礼だった。次の手合わせの相手を、決めた者の礼だった。


「では、次は」


 顔を上げた悪魔の、二枚の翼が。


 音もなく広がった。


「炎の方」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。