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繋がる窓

 窪地の底で、アスモデウスが一歩踏み出した。


 砂を踏む音がしなかった。北門で見た時と同じ。いや、それ以上に軽かった。


 両の手があった。白い布が、指の一本一本まで丁寧に、新しく巻き直されていた。


 背中の翼も、二枚に戻っていた。北門でヴァイスが根元から斬り落とした、あの左の翼が。


 胸の穴も。脇腹の傷も。太腿の傷も。


 何一つ残っていなかった。


「……全部治ってやがる」


 タイタンが低く唸った。


「十日やそこらで、全部かよ」


「ええ」


 アスモデウスは穏やかに頷いた。


「皆様からいただいた傷を癒やすのに、少々、糧をいただきました。開拓地の皆様には、申し訳ないことをいたしました」


 蓮の拳が握りしめられた。


 百十七頭。ミラが一頭ずつ指を折って数えた、あの数。あれは、この悪魔が傷を塞ぐための糧だったのだ。


 悪魔は、砂丘の頂に並ぶ者たちを一人ずつ見上げていった。タイタン。テルモ。キネシス。フィール。ロイ。ヴァイス。ミラ。ユーリとリアム。


 そして、蓮。


「通さない方。……お元気そうで、何よりです」


 蓮は答えず、代わりに剣を抜いた。


 悪魔の目が蓮の隣に移り、小さな影の上で止まった。


「おや。新しい方がいらっしゃいますね。武をお持ちの、小さなお客様」


「小さい言うなッ!!」


 ベルが叫んだ。悪魔に向かって、遠慮も何もなく。


 特務班の誰もが息を止めた。


 アスモデウスは一瞬、目を丸くした。それから、声を立てて笑った。


「ふ、ふふ……これは失礼いたしました。では、何とお呼びすれば」


「ベル!! あんたを倒しに来た女よ!!」


「ベル様」


 悪魔はその名を確かめるように口にした。


「覚えておきます」


 悪魔は、右の拳を左の掌に打ち合わせた。


 パン。


 両手を体の前で合わせ、深く頭を下げる。


「アスモデウスと申します。……皆様、お手合わせを」


 キネシスが一歩前に出て、同じ形で拳を掌に打ちつけた。


 パン。


「『移動』の貴族、キネシス」


 タイタンが続いた。


 ドンッ。


「『力』の貴族、タイタン!!」


 テルモが続いた。


 パン。


「『炎氷』の貴族、テルモ」


 特務班が続いた。


 パン。パン。パンパンパン。


 ベルが少し遅れて、慌てたように拳を掌に叩きつけた。


 パンッ。


 その音が、窪地に響いた。悪魔の礼には、悪魔の礼で返す。北門の後、テルモから教わったことだった。


 アスモデウスが顔を上げた。その口元が、心底嬉しそうに綻んでいた。


「――参ります」


 悪魔が構えた。両の掌を前に。


 北門で見た構えとは違った。両の手がある構えだった。


 フィールが息を吸った。


「特務班、散開!!」


 七人が砂丘を駆け下りた。ベルもその中にいた。ミラだけが頂に残り、弓を引き絞る。


 七人は、窪地を囲むように散らばった。


 タイタンとテルモは砂丘の中腹で足を止めた。テルモが悪魔を見下ろせる位置。タイタンがひと跳びで届く位置。昨夜、焚き火の前で決めた立ち位置だった。


 キネシスの目が動いた。


 悪魔の右斜め後ろ。


 特務班が一斉にその一点へ走り込む。


 キネシスが消えた。


 現れた。


 悪魔の右斜め後ろ。


 その肩に、手が――


「読んでおりますよ」


 アスモデウスの声がキネシスの耳元で響いた。


 悪魔はもうそこにいなかった。


 キネシスの真横にいた。


 跳ぶ前に、行き先を見る。


 北門で、たった一度で見抜かれた癖。キネシスはそれを覚えていない。だが、知っていた。中庭の稽古で、ミラが無言でこちらの目元を指差した日から。帳面の写しに、自分の字で書かれた一行を読んだ日から。


「――知っている」


 キネシスは言った。その目は、もう次の一点を見ていた。


 悪魔の真正面。特務班が、今まさに走り込んでいる場所。


 消えた。


 悪魔の手が、キネシスのいた空間を撫でた。


 現れた。


 悪魔の真正面。


 特務班の真ん中に。


 そして。


 悪魔の胸に、手を。


 触れた。


 窓が。


 開いた。


 悪魔の目がキネシスに向いた。


「――テルモ様ッ!!」


 フィールの叫び。


 砂丘の中腹で、テルモが右手を振り下ろした。


 パキイイイイイイイイインッ!!


 悪魔の足元の砂が、一瞬で凍りついた。


 砂ごと。


 足首ごと。


 白い氷が、悪魔の両脚を膝まで呑み込んでいた。


「――ほう」


 アスモデウスの目が見開かれた。


 キネシスの手が離れた。青年は、もう跳んでいた。


 窓が閉じた。


 だが、氷は残っていた。


 凍らせたのは悪魔の体ではない。悪魔の脚を掴んだ砂だ。加護も魔殻も、足を掴む地面までは弾かない。


 悪魔が脚を引き抜こうとした。


 ぎしり、と氷が軋んだ。


 動かない。


 すぐには動かない。


 一呼吸。


「タイタン様ッ!!」


「おうよおおおおおおおッ!!」


 砂丘の中腹から巨体が跳んだ。


 砂が爆ぜた。


 二呼吸。


 着地は悪魔の真後ろ。


 丸太のような両腕が、悪魔の体を背後から抱きすくめた。


 両腕ごと。


 胴ごと。


 締め上げる。


 常人など及びもつかない、桁外れの腕力で。


「捕まえたぞ、この野郎……!!」


 三呼吸。


 氷が割れた。


 だが、もう遅い。


 悪魔の体はタイタンの腕の中だった。


 窓が。


 再び。


 大きく開いた。


「――全員ッ!!」


 フィールの声が窪地を裂いた。


「突けえええええええええッ!!」


 走った。


 窓を待たない。窓に合わせる。九日間、毎朝、薬草の中庭で繰り返したことを。


 ロイが。ヴァイスが。ユーリとリアムが。フィールが。


 そして、蓮が。


 ――通れ!!


 ズブッ!!


 ロイの剣が悪魔の脇腹に沈んだ。


 ザシュッ!!


 ヴァイスの剣が太腿を裂いた。


 ドスッ!!


 砂丘の上から放たれたミラの矢が、肩を貫いた。


 ユーリの槍が腰に。リアムの短剣が背に。


 フィールの剣が胸へ。


 蓮の剣が腹へ。


 通った。


 通った。


 全部、通った。


 黒い血が噴き上がった。


 そして。


 悪魔の真正面に、小さな影が飛び込んでいた。


 ベル。


 剣は構えていなかった。左手をまっすぐ、悪魔の顔へ突き出していた。


 その掌の先に。


 もう、魔法陣が満ちていた。


 走りながら描いていたのだ。窓が開くその前から。窓が開くと信じて。


「――外さないって、言ったでしょ!!」


 少女の叫び。


「ファイアボールッ!!」


 ドオオオオオンッ!!


 火球が。


 悪魔の顔面に。


 至近距離で。


 炸裂した。


 悪魔の背にいるタイタンにも、剣を突き立てた特務班の誰にも、火の粉一つかからなかった。悪魔の顔だけが、炎に包まれていた。


 砂丘の中腹で、テルモが目を見開いていた。


「……外さなかったか」


 その口元が、ほんのわずかに緩んでいた。


「二太刀目、構え!!」


 フィールが叫んだ。


 特務班が剣を引き抜き、振りかぶる。


「まだだ!! まだ離さねえぞ!!」


 悪魔を抱えたまま、タイタンが吠えた。


「こいつ手首を地面に向けてねえ!! 光は来ねえ!! 今のうちに、もっと突けえええッ!!」


 段取りの通りだった。悪魔が手首を地面に向けたら、魔法陣の兆し。その時はキネシスがタイタンの背に触れ、悪魔ごと見える限り遠くの地平へ跳ぶ。悪魔だけを置いて戻る。それまでは窓を開け続けて、何太刀でも。九日間、そう決めて、そう稽古してきた。


 キネシスは窪地の縁に立って、悪魔の手首から目を離さずにいた。だから、巨漢は離さなかった。


 炎が晴れた。


 アスモデウスの顔が焼けていた。黒い肌が爛れ、焦げた白布の切れ端が頬に張りついていた。


 全身に剣が、槍が、矢が突き立っていた。黒い血が砂の上にぼたぼたと落ちていた。


 それでも。


 悪魔は笑っていた。


「……素晴らしい」


 焼けた唇が動いた。


「一つの窓では足りないと。……三つの窓を繋げてこられた」


 悪魔の赤い瞳が、ゆっくりと窪地の縁のキネシスを見た。砂丘の中腹のテルモを見た。そして、自分を抱きすくめるタイタンを、肩越しに見た。


「足を縫い、胴を縛り、窓を開けたまま、皆様で突く。見事な段取りです。本当に」


 蓮の背筋に、冷たいものが走った。


 褒められている。また。


 この悪魔は傷を負いながら、心の底から感嘆している。北門で、手首を斬り落とされた時と同じように。


「ですが」


 アスモデウスの声が、ほんの少しだけ低くなった。


「窓は両側から開くのです。……それも、お忘れではないでしょう?」


 タイタンが腕に力を込めた。


「知ってるよ!! だからどうした!! お前の腕はオレが抱え込んでんだ!! 何もできやしねえだろうが!!」


「ええ」


 悪魔は頷いた。


「腕は、動きませんね」


 その時。


 蓮は見た。


 タイタンの腕の中で。


 悪魔の白い布を巻いた右手の指先が。


 ほんのわずかに動いていた。


 手首から先だけが。


 地面ではなく。


 上へ。


 抱きすくめたタイタンの腕の、その内側へ。


 巨漢の手首の、内側に。


 指先が。


 そっと。


「――タイタン様、手首ッ!!」


 蓮が叫んだ。


 遅かった。


 手首は、地面を向いていなかった。魔法陣の兆しは、どこにもなかった。だから、誰も跳ばなかった。


 段取りの表のどこにも、それは書かれていなかった。


「北門で、癒やしの方から良いことを教わりました」


 アスモデウスが囁いた。


「素手で掴まれることの意味を」


 指先が、タイタンの手首の内側の筋を、とん、と押した。


 ほんの軽く。


 それだけで。


 巨漢が全身で込めていた桁外れの力が、行き場を失った。


 締め上げる力が。


 腕の内側で。


 ねじれて。


 跳ね返って。


 巨漢自身の肩を、背を、腰を、がちりと噛み合わせた。


「……あ?」


 タイタンの口から、間の抜けた声が漏れた。腕をほどこうとして、指一本、動かなかった。


 腕が動かない。


 抱きすくめたまま。


 ほどけもしない。


 締めることもできない。


 ただ、固まっている。


 北門で、キネシスの背に掌が吸いついた時と同じだった。体の内側に、何かを流し込まれたように。自分の力で、自分を縛られて。


「タイタン様!!」


「な、んだ、こりゃ……体が……」


 タイタンの声が震えていた。


 腕は悪魔を抱えたまま。


 窓は開いたまま。


 巨漢の加護は消えたまま。


 そして、動けないまま。


「抱きしめていただいたまま、というのも」


 アスモデウスは穏やかに言った。硬直したタイタンの腕の中で、悪魔の体がゆっくりと回った。


 抱きすくめられた姿勢のまま。


 内側で。


 タイタンの方へ。


 向き直っていた。


 巨漢の胸と悪魔の胸が、向かい合っていた。


 悪魔の右手が、ゆっくりと持ち上がった。


 タイタンの胸の、真ん中へ。


「悪くはありませんね」


 掌が。


 そっと。


 巨漢の胸に添えられた。


 窓は、とうに開いている。


 抱きすくめた、その瞬間から。


 この掌は。


 最初の一撃から。


 届く。


 トーレの胸を砕いた掌。


 ネロの胸を砕いた掌。


 蓮の胸を、二度砕いた掌。


「――タイタン様ああああああああッ!!」


 蓮の絶叫が、窪地に響き渡った。


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