好きになっちゃったんだもん
日が落ちた。砂漠の夜は冷える。昼間あれほど照りつけていた光が消えると、砂はあっという間に熱を失い、吐く息が白く見えるほどになった。
北の監視塔の鳥舎から伝書鳥を放ったあと、キネシスはもう二度だけ跳んで、そこで膝をついた。今日はここまでだった。
砂丘の陰に、小さな焚き火が一つ。薪はない。砂の上に並べた石を、テルモが力で温め続けているだけだった。それでも石は火の色に赤らみ、その周りにはほんのりとした温もりがあった。
その火を囲んで、十人が輪になって座っていた。
いや。
十一人だった。
「ねえレン、背中まだ痛い?」
「……大丈夫」
「大丈夫じゃないでしょ。魔石二つも使ったのよ? ちょっと見せなさいよ」
「いいって」
「いいから!」
ベルが蓮の背中側に回り込もうとした。蓮は体をひねって避けた。ベルが逆側から回り込む。蓮がまた避ける。
「なんで逃げるのよ!!」
「逃げてない」
「逃げてるでしょ!!」
焚き火の向こうでロイが肩を震わせていた。笑いを堪えているのだと分かった。ヴァイスは呆れたように天を仰いでいた。リアムがユーリに何か耳打ちしていた。ユーリは返事もせず、膝の上の槍の穂先を布で拭っていた。
タイタンだけは、遠慮なく笑っていた。
「がははは!! いいぞちびっこ、もっとやれ!!」
「ちびっこって言うな!!」
ベルが振り返りざまに叫んだ。その拍子に、腰の剣が鞘の中でかちゃりと鳴った。昼間、タイタンが蟻地獄の底から拾い上げてきた剣だった。煤は拭ったが、刃こぼれは残ったままだった。
その鞘に、すっと手が伸びた。ユーリだった。ベルが何か言うより早く、ユーリは剣を抜き取り、懐から小さな砥石を出して、黙って刃を当て始めた。
しゅっ。しゅっ。
焚き火の明かりの中で、砥石の音だけが規則正しく続いた。
「……ちょっと。それ、あたしの」
「珍しい」
隣でリアムが目を丸くしていた。
「ユーリが他人の得物に触るとこなんて、初めて見たぞ。こいつ、自分の槍だって誰にも触らせねえのに」
ユーリは答えなかった。刃を焚き火にかざし、こぼれが消えたのを確かめてから、柄の方をベルに向けて差し出した。
ベルは受け取って、刃を見た。それから、少しだけ頬を膨らませて、小さく言った。
「……ありがと」
ユーリは一度だけ頷いて、また自分の槍の穂先を拭い始めた。
その隙に、蓮は少しだけ座る位置をずらした。フィールの隣に。
フィールは黙って干し肉を齧っていた。蓮が隣に来ても何も言わず、ただ自分の干し肉を半分に割って、蓮の手に押しつけた。
「食べて。血が足りてないでしょう」
「……ありがとう」
ベルが振り返った。蓮とフィールが並んで座っているのを見て、その大きな目がすっと細められた。
「……ねえ。あんた」
ベルはフィールを見ていた。
「あんた、レンの何?」
焚き火の周りが静まり返った。
ロイが干し肉を喉に詰まらせて咳き込んだ。
フィールは干し肉を齧るのをやめ、ゆっくりとベルを見た。
「特務班の隊長です、ベル様。蓮は私の班の隊員です」
「様はいらないって言ったでしょ。そういう話し方も」
フィールは少しだけ黙った。
「……隊長よ。蓮は、私の班の隊員」
「ふうん」
ベルは腕を組んだ。
「じゃあ、関係ないわね」
「……そうね」
フィールはそれだけ言って、また干し肉を齧り始めた。表情は何も変わらなかった。
蓮は、その横顔を見た。
何も、変わらなかった。
本当に何も。
それがなぜか、胸に引っかかった。
石の火が少し落ち着いた頃、キネシスが口を開いた。
「ベル」
「なに」
「明日、悪魔と戦う。その前に話しておかねばならないことがある」
キネシスは窓の話をした。
悪魔に触れられている間、貴族の加護は消えること。同じ時、悪魔の魔殻も消えること。その間だけ、剣が、矢が、悪魔に届くこと。三つの窓のこと。その繋ぎ方のこと。
帳面のことは話さなかった。誰かに忘れさせられたことも。
ベルは黙って聞いていた。最初は腕を組んでいた。途中から身を乗り出していた。最後には目を輝かせていた。
「……じゃあ」
話が終わると、ベルは言った。
「窓が開いてる間なら、あたしのファイアボールも悪魔に効くってこと?」
「効く」
答えたのはテルモだった。
「窓の外なら、魔法も矢と同じだ。殻に弾かれて終わる。だが窓の内側なら届く。……ただし狙いを外せば、窓を開けている貴族を焼く。窓の内側では、その貴族にも加護はない」
「外さないわよ」
「誰でも最初はそう言う」
「あたしは外さない」
テルモはベルを見た。ベルも、テルモを見返した。しばらく二人は睨み合っていたが、やがてテルモが、ふっと鼻を鳴らした。
「……明日、見せてもらおう」
「見てなさいよ」
キネシスが咳払いをした。
「それと、もう一つ」
青年の声が低くなった。
「今の話は誰にもするな。アクアリス殿にも。マリン殿にも。……世に出れば、多くの者の命に関わる」
ベルは首を傾げた。
「なんで? 悪魔を倒せる方法なんでしょ? みんなに教えた方がいいじゃない」
「……理由は、今は言えない」
ベルはしばらくキネシスを見つめていた。それから、蓮を見た。
「レンも知ってるのよね、この話」
「……うん」
「誰にも話してないの?」
「話してない」
「話したら、レンが困る?」
蓮は少しだけ考えた。
「……困る」
ベルはあっさりと頷いた。
「じゃあ言わない」
キネシスが目を瞬かせた。
「……それでいいのか」
「いいわよ。レンが困ることは言わない。それだけ」
少女は当たり前のことのように言った。
焚き火の向こうで、タイタンがまた腹を抱えて笑い出した。
夜が更けた。
蓮は見張りについていた。砂丘の頂に腰を下ろし、北の地平線を見ていた。月明かりの下で、砂の海がどこまでも青白く広がっていた。
背後で砂を踏む音がした。振り返らなくても分かった。軽い足音。小さな歩幅。
「……寝てろって言われただろ」
「寝られないもん」
ベルが蓮の隣にどすんと座り、膝を抱えて、蓮と同じ方角を見た。しばらく二人とも黙っていた。
「ねえ、レン」
「ん」
「なんで、あたしを助けたの」
「……昼間も訊いた」
「ちゃんと答えてないでしょ」
蓮は少しだけ考えた。
「助けたかったから」
「それだけ?」
「それだけ」
「知らない子なのに?」
「知らない子でも」
ベルは膝に顎を乗せた。
「……変なの」
それから、ぽつりと言った。
「あたしね。家で、誰にも構ってもらえなかったの」
蓮は隣を見た。ベルは、地平線を見たままだった。
「お養父様は毎日、朝から晩まで水を作ってる。世界中の川と井戸と雨のために。館の裏の泉の前に座って、ずっと、ずっと。……声をかけても聞こえてないの。水を作ってる時は」
少女の声は平気そうだった。
平気そうに、聞こえた。
「マリンは跡継ぎだから、先生が何人もついてて、いつも忙しい。あたしは跡継ぎじゃないから、誰もあたしに用事がないの。マリンとは喧嘩ばっかりしてるけど、あの子だけはたまに部屋に来てくれた。それくらい」
「剣と魔法は」
「兵隊さんたちの稽古に勝手に混ざってた。追い返されても、次の日また行くの。そのうち誰も追い返さなくなった」
ベルは小さく笑った。
「悪魔を倒したら、みんなあたしのこと見てくれるかなって。そう思って、家を出てきたの。……馬鹿でしょ」
蓮は何も言わなかった。言えることがなかった。
一人で飯を食い、一人で笑って、それを当たり前だと自分に言い聞かせていた頃の自分を、少しだけ思い出していた。
だから、ただ隣に座っていた。
しばらくして、ベルがまた口を開いた。
「でもね」
少女が蓮の方を向いた。月明かりの下で、その大きな目がまっすぐに蓮を見ていた。
「今日、あんたが見てくれた」
「……え」
「あの穴の中で。あたしのこと。……命がけで」
ベルの頬が赤くなっていた。月明かりの下でも分かるほどに。
「だから、もういいの。悪魔なんか倒さなくても。……レンが見てくれたから」
蓮は、どう返せばいいのか分からなかった。口を開きかけて、閉じた。
「……だったら、帰った方がいい」
ようやく、それだけを言った。
「明日は本当に危ないんだ。今日のサンドウルフなんかとは比べものにならない。……死ぬかもしれない」
「知ってる」
「だったら――」
「だから隣にいるの」
ベルは言った。
「レンが死にそうになったら、今度はあたしが助ける。それまでずっと隣にいる」
「ベル」
「なによ」
「ついてくるなって言ってるんだ。俺が――」
「だって」
少女が蓮の言葉を遮った。その声が、急に小さくなった。
膝を抱えた腕に、顔を半分埋めて。耳まで真っ赤にして。
「……だって、好きになっちゃったんだもん」
夜風が砂丘の頂を吹き抜けていった。二本の長い髪の束が、ふわりと揺れた。
蓮は固まっていた。
何も言えなかった。
頭の中が真っ白だった。
ベルは膝に顔を埋めたまま動かなかったが、急に立ち上がった。
「お、おやすみ!!」
叫ぶように言って、砂丘を駆け下りていく。途中で一度、砂に足を取られて転びかけたが、それでも振り返らずに、焚き火の方へ走っていった。
蓮は砂丘の頂に、一人取り残された。心臓がうるさかった。
焚き火のそばで、フィールは寝たふりをしていた。毛布にくるまって、目を閉じて。
砂丘の上の声は、夜風に乗って途切れ途切れに届いていた。全部ではない。
でも、最後の一言だけは。
はっきりと。
フィールは目を閉じたまま動かなかった。毛布の中で、自分の手をぎゅっと握りしめた。
木剣を握り続けて、皮の剥けた手。昨日の朝、蓮に「預けておく」と言った手。
ベルが焚き火のそばに駆け戻ってきて、フィールのすぐ近くにどすんと寝転がった。毛布を頭まで被って、足をばたばたさせている。毛布が短くて、足の先が冷えた砂の上にはみ出していた。
フィールは目を開けなかった。ただ、そっと自分の毛布を一枚引き抜いて、ベルの足元にかけてやった。
夜の砂漠は冷えるから。
ばたばたしていた足が、ぴたりと止まった。毛布の中から、小さな声がした。
「……ありがと」
フィールは答えなかった。
寝たふりを、続けた。
夜明けに、「移動」の伝令兵が砂丘の陰に現れた。アクアリスの館から飛んだ伝書鳥が、夜のうちに北の監視塔の鳥舎へ降りたのだという。伝令兵はそこから上級の「移動」の魔石で、砂丘の頂を跳び継いできたのだった。
「キネシス様。『水』のアクアリス様より、ご返答です」
伝令兵は一枚の紙を差し出した。キネシスはそれを受け取って開き、眉を動かした。
「……何と」
テルモが訊いた。
キネシスは、紙を皆に見えるように広げた。細い、少し震えた字で、たった一行だけ書かれていた。
好きにさせてやってくれ。
それだけだった。
ベルが紙を覗き込み、しばらくその一行を見つめていた。それから、ふいと顔を背けた。
「……お養父様らしいわね」
その声は平気そうだった。
平気そうに、聞こえた。
蓮は紙の文字を見ていた。細い字。少し震えた字。朝から晩まで水を作り続けている男が、その手を止めて書いた一行。この一行を書いている間、どこかの川が細くなったかもしれない。
好きにさせてやってくれ。
蓮には、それがただの放任の言葉には見えなかった。
「――行くぞ」
キネシスが紙を畳んで懐にしまった。その目が、北の地平線を見た。地図の赤い印の、その先を。
「今日で終わらせる」
昼過ぎ、跳び継いだ砂丘の頂から、それは見えた。
砂漠の中にぽっかりと開いた窪地。
その底に岩が一つ。
岩の上に。
白い布を巻いた人影が座っていた。
黒い肌。
背に、畳まれた黒い翼。
背筋を伸ばして。
両の手を胸の前で合わせて。
目を閉じて。
まるで、祈るように。
特務班の全員が息を殺した。
タイタンが拳を握った。
テルモの周りの空気が揺らいだ。
キネシスの目が、窪地の縁の一点を見た。
ベルが細身の剣の柄に手をかけた。その手が、ほんの少しだけ震えていた。
その時。
岩の上の人影が、ゆっくりと目を開けた。
赤い瞳が。
まっすぐに。
砂丘の頂を。
見上げていた。
「――お待ちしておりました」
穏やかな声が、窪地から静かに昇ってきた。
アスモデウスは岩から降りた。
右の拳を、左の掌に。
パン。
乾いた音が砂漠に響いた。
取り戻した、両の手で。
「手が戻りましたので」
悪魔は両手を体の前で合わせ、深く、深く頭を下げた。
「改めて参るつもりでおりました。……いえ」
顔を上げた悪魔は微笑んでいた。
その赤い瞳が、砂丘の頂に並ぶ顔を一つずつ確かめて。
最後に、蓮の上で止まった。
「皆様の方から、来てくださいましたね」




