預けておく
――私、何か、忘れてる?
フィールの声が、夜明けの中庭に静かに落ちた。
蓮は、答えられなかった。喉の奥で、言葉がいくつも生まれては消えていった。
忘れてる。
たくさん、忘れてる。
国境の集落で、蓮が悪魔に傷を負わせたこと。エスクーダの夜、イライザの剣が悪魔に届いたこと。北門で、フィール自身が「突け」と号令をかけたこと。オルトが死んだこと。丘の上の墓標の前で、次は倒す、今度は誰も死なせない号令をかけてみせる、と言ったこと。
全部。
白い衣装の女に、消されたこと。
言えるはずがなかった。言えば、訊かれる。なぜ、蓮だけが覚えているのか。その答えを、蓮自身がまだ持っていなかった。
それに、もしフィールが、忘れさせられたことを知ったら。次にあの女と会った時、フィールは何も知らない顔ができるだろうか。
できない。この少女は、嘘をつくのが下手だ。蓮は、それを知っていた。
「……蓮?」
フィールが、首を傾げた。
蓮はゆっくりと息を吐き、それから少女の手を見た。木剣を握り続けて、皮の剥けた手。今朝、レミエルが薬草を当ててくれた手。
「忘れてるかもしれない」
蓮は、言った。
フィールの目が、わずかに見開かれた。
「でも、フィールが忘れたことは」
言葉を、選んだ。
一つずつ。
嘘にならないように。でも、全部は言わないように。
「全部、俺が覚えてる」
中庭に、風が吹いた。薬草の葉が、さわさわと揺れた。
「だから、大丈夫」
フィールは何も言わず、ただ、じっと蓮を見つめていた。
その目の奥で、何かが動いていた。問いたいことが、いくつもあるのが分かった。なぜ、とか。何を、とか。どうして蓮が、とか。
蓮は、目を逸らさなかった。逸らしたら、全部が嘘になる気がした。
長い沈黙の後、フィールは、ふっと肩の力を抜いた。
「……そう」
少女は、小さく笑った。
「じゃあ、預けておく」
蓮は、瞬きをした。
「預け……?」
「私が忘れたこと。蓮が、持っててくれるんでしょう」
フィールは、自分の皮の剥けた手のひらを見下ろした。
「なら、いい。……いつか、返してくれれば」
それだけ言って、フィールは木剣を拾い上げた。背中を向け、中庭の出口へ歩き出した。
蓮は、その背中を見送っていた。
訊かなかった。
何一つ。
訊きたいことが、あんなにあったはずなのに。
フィールは、出口の手前で足を止めた。振り返らずに、言った。
「蓮」
「……ん」
「あなたが何か隠してるのは、ずっと前から知ってる」
蓮の心臓が、跳ねた。
「国境の集落の夜から。……ううん、もっと前。砂漠であなたを拾った日から、ずっと」
フィールの声は、静かだった。
「でも、訊かない。あなたが話したくなるまで」
夜明けの光が、少女の髪を淡く照らしていた。
「それが、私のやり方だから」
フィールは、中庭を出ていった。足音が、石の廊下の向こうへ遠ざかっていった。
蓮は一人、薬草の中に立ち尽くしていた。
胸の奥が、痛かった。
傷の痛みではなかった。
「おう、小僧!! そんなとこで突っ立って、何やってんだ!!」
背後から、大きな手が蓮の背中をばしんと叩いた。蓮は、前のめりに三歩よろめいた。
「タ、タイタン様……」
「朝飯だ、朝飯!! レミエルの嬢ちゃんが、モーズの乳粥を作ってくれてんだぞ!! 冷めちまうだろうが!!」
巨漢は、蓮の首根っこを掴んで、廊下へと引きずっていった。
「……なんだ、その顔は」
廊下の途中で、タイタンが蓮の顔を覗き込んだ。
「女に振られたみてえな顔してんぞ」
「振られてません」
「じゃあ、振ったのか」
「振ってもいません」
「じゃあ何だ」
「……預けられました」
タイタンはしばらく蓮の顔を見つめていたが、それから、何を思ったのか、腹を抱えて笑い出した。
「がはははは!! そうかそうか!! 預けられたか!! そりゃあ重てえなあ!!」
「笑うところですか、それ」
「笑うところだろうが!! 若えってのはいいねえ!!」
廊下の向こうから、テルモが歩いてきた。朝の稽古の後始末をしていたのか、袖を濡らしている。タイタンの笑い声に、露骨に顔をしかめた。
「朝から騒々しい」
「おうテルモ!! この小僧がな、女に何かを預けられたんだとよ!!」
「……それが、私に何の関係がある」
「関係ねえから面白えんだろうが!!」
テルモは深く溜息をつき、それから、ちらりと蓮を見た。
「預かったものは、落とすな」
それだけ言って、テルモは食堂の方へ歩いていった。
蓮がその背中を見送っていると、タイタンが、にやにやと笑いながら蓮の肩を叩いた。
「あいつなりの激励だ。……さ、乳粥だ乳粥!!」
食堂へ向かう廊下の窓から、館の裏門が見えた。
荷馬車が三台、ちょうど門をくぐってくるところだった。幌に、見慣れた印が染め抜かれている。「移動」の第二部隊、物流隊だった。北門の戦いの後、サナトリアへ物資を運んでくる荷が、毎日のように届いていた。御者台の男には見覚えがあった。第二部隊にいた頃、同じ宿舎で寝起きしていた先輩だった。
蓮は、足を止めかけた。
その時。
二台目の荷台の、積み上げられた麻袋の陰に。
小さな人影が、一つ、うずくまっていた。
外套のフードを目深にかぶっていて、顔はほとんど見えない。
ただ、フードの奥で。
一瞬だけ。
目が、合った。
気がした。
「おい小僧、何してんだ!!」
タイタンの声に、蓮は振り返った。
もう一度窓の外を見た時には、荷台の麻袋の陰には、誰もいなかった。荷を下ろす従士たちの声が、裏門のあたりで賑やかに響いているだけだった。
――見間違いか。
蓮は首を傾げながら、タイタンの後を追った。
食堂には、湯気が満ちていた。
長い卓に、大鍋が一つ。その周りに、特務班の六人と、サナトスとレミエルが座っていた。
フィールは窓際の席で、ミラと並んで乳粥をすすっていた。蓮が入ってきても、顔を上げなかった。ただ、ほんの少しだけ口元が緩んでいた。
レミエルが、蓮の前に椀を置いた。
「蓮様の分です。……今朝も一番たくさん木剣を振っていたので、たくさん食べてください」
「ありがとうございます」
受け取った椀は温かく、乳粥は少しだけ甘かった。
ロイが、隣でがつがつと椀をかき込んでいた。ヴァイスは、添え木の取れた腕で、ぎこちなく匙を動かしていた。リアムが昨日の稽古の話を一人でまくし立て、ユーリが黙って頷いていた。ミラは、黙ってフィールの椀におかわりをよそっていた。
サナトスが、その光景を目を細めて眺めていた。
「……賑やかですね」
老人は、ぽつりと言った。
「この館の食堂が、こんなに賑やかなのは、何百年ぶりでしょう」
レミエルが、老人の隣に座って、嬉しそうに微笑んだ。
蓮は乳粥をすすりながら、その光景を見ていた。
十日あまり前、この街は悪魔に襲われた。オルトが死んだ。貴族たちが血を流した。魔物の群れが押し寄せ、白い女がやってきて、全てを塗り替えていった。
それでも、今、この食堂には、湯気と、笑い声と、甘い乳粥の匂いがあった。
守れたものが、ここにある。
忘れさせられても。
消されても。
ここに、ある。
その時、食堂の扉が開いた。
キネシスだった。青年は、手に一枚の紙を握っていた。食堂の喧騒が、少しずつ静まっていった。
キネシスは卓の端まで歩いてくると、その紙を大鍋の横に置いた。
「移動の調査網からだ」
短い言葉だった。全員が、紙を覗き込んだ。
地図だった。北の外周の砂漠の、奥の奥。開拓地から、さらに北へ。そこに、赤い印が一つ。
「昨夜、調査網の斥候が見た」
キネシスは、言った。
「砂丘の陰に、白い布を巻いた人影が一つ。……月明かりの下で、拳を胸の前で合わせていたそうだ」
食堂が、静まり返った。誰も、匙を動かさなかった。
「両の手で」
キネシスの声が、低くなった。
「きちんと、合わせていた」
蓮の背筋を、冷たいものが駆け上がった。
手が。
戻ったのだ。
窓の稽古は、九日で三つの窓を繋げるところまで来た。間に合ったのか。間に合わなかったのか。
分からない。
分からないまま、行くしかない。
キネシスは、卓を囲む全員を一人ずつ見渡した。サナトス。レミエル。タイタン。テルモ。そして、特務班の六人。
最後に、蓮を。
「明日の夜明けに、出る」
青年は、言った。
「見るためではない。数えるためでもない」
キネシスの目に、静かな火が灯っていた。
「倒すために」
フィールが、ゆっくりと匙を置いた。
立ち上がった。
右の拳を、左の胸に当てた。
「特務班、承りました」
その声は、震えていなかった。
今度は、誰も死なせない号令を、かけてみせる。
丘の上でそう言ったことを、少女は、もう覚えていない。
だが、蓮は覚えている。
その言葉も。
その誓いのとおりに、少女が号令をかけ続けてきたことも。
全部。
預かっている。
蓮も、立ち上がった。右の拳を、胸に。
ロイが。ヴァイスが。ミラが。ユーリとリアムが。
一人、また一人と立ち上がり、拳を胸に当てていく。
タイタンが、にやりと笑って、拳で卓を叩いた。
「よっしゃああッ!!」
ドンッ!!
卓の上の椀が、一斉に跳ね上がった。
「……タイタン殿」
テルモが、乳粥のかかった袖を見下ろして、低く呟いた。
食堂が、笑い声に包まれた。
窓の外で、朝日が白い都を照らしていた。
北の空の、ずっと向こうで。
白い布を巻いた両の手が、今も、静かに合わされている。




