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三つの窓

 稽古は、毎朝、夜明け前に始まった。薬草の中庭、石壁の内側。外からは誰にも見えない場所で。


 一日目は、タイタンが打たれ役を務めた。二日目はテルモが、三日目はサナトスが、四日目はまたタイタンが。


 窓を開ける役も、三人で回した。キネシスが跳んで触れる窓。タイタンが抱きすくめる窓。そして、テルモの氷。窓の開き方と、その支え方は三つあり、三つとも、まるで違った。


「――今!!」


 フィールの号令が、夜明けの中庭に響いた。


 キネシスの窓は、速い。


 跳んで、触れて、跳んで消える。窓が開いているのは、二呼吸か三呼吸。窓が回る順に間に合わせるために、特務班はキネシスの目が動いた瞬間に走り出し、まだ誰もいない空間に向かって木剣を振り下ろさなければならない。


 ピシピシピシッ!!


 届く。


 四本。五本。日によっては六本。


 だが、すぐに閉じる窓には、一人一太刀がやっとだった。


「軽い」


 打たれ役のテルモが、腕の赤い痕を見下ろして言った。


「一太刀ずつでは、悪魔は倒れん。……北門で、何十本と突き立てても、あの悪魔は立っていたのだろう」


 テルモは、自分が口にした言葉に眉を寄せた。


 北門の悪魔に、何十本も突き立てた。そんな記憶は、テルモにはないはずだった。帳面の写しを読んだキネシスから、聞いただけのはずだった。それでもテルモは、まるで自分の目で見たことのように、そう言った。


 タイタンの窓は、長い。


 抱きすくめて、離さない。桁外れの腕力で締め上げている限り、窓は開き続ける。その間に、特務班は何度でも打ち込める。二太刀。三太刀。四太刀。


「おらおら、もっと打て!! まだ開いてるぞおおッ!!」


 テルモを後ろから抱きすくめたまま、タイタンが吠えた。


 ピシッ!! ピシッ!! ピシピシピシッ!!


 届く。届く。届く。


 だが。


「――タイタン、腕だ!!」


 テルモが叫んだ。


 腕の中で、テルモの肘がわずかに曲がっていた。その先の拳が、タイタンの脇腹にぴたりと添えられていた。


 窓は、両側から開く。抱きすくめている間は、タイタンの加護も消えている。テルモの拳が、もし悪魔の掌だったら。タイタンの肋は、今頃。


「……ちっ」


 タイタンは、腕を解いた。テルモの拳が、巨漢の脇腹に、とん、と当たった。


「長く開けていれば、それだけ長く、お前も打たれる」


 テルモが言った。


「悪魔が、それをしないはずがない」


 巨漢は脇腹をさすりながら、黙り込んだ。


 蓮はその光景を見ながら、北門の夜を思い出していた。


 タイタンは、悪魔を抱きすくめた。窓は大きく開き、特務班の剣が全て届いた。そして悪魔は、締め上げられた手首から先だけを、地面に向けた。


 魔法陣が、生まれた。


 あの白い光。


 タイタンは窓の内側で、それを受けた。巨漢は、それを覚えていない。だが蓮は、覚えている。


 長く開く窓は、長く開いている分だけ、悪魔にも時間を与える。


 テルモの氷は、窓とは違った。


 打たれ役のタイタンから十歩離れた場所で、テルモが手をかざす。霜が走り、氷が這い上がる。巨漢の足首が、地面に縫いつけられる。


 タイタンが、足を引き抜こうとする。


 動かない。


「……おい」


 タイタンが、自分の足元を見下ろした。


「なんで、オレに、お前の氷が効いてんだ。オレには加護が――」


「効いてなどいない」


 テルモが、言った。


「氷は、ただの氷だ。凍らせたのは、お前の体ではない。地面だ。……加護は、攻めを弾く。だが、足を掴む地面までは、弾かん」


 タイタンが、歯を食いしばった。


 一呼吸。


 二呼吸。


 三呼吸。


 バキィッ!!


 氷が、砕けた。


「……三呼吸か」


 テルモは、砕けた氷を見下ろした。


「悪魔なら、もっと早く割るだろう。だが、その三呼吸の間は、悪魔も動けない。避けられない」


 それからテルモはタイタンの傍らへ歩み寄り、その左手を巨漢の肩に置いた。もう一度、手をかざす。


 霜が、地面ではなく。


 タイタンの脛を、直に這い上がった。


「冷てえッ!?」


 巨漢が、飛び上がりかけた。


「触れている間は、お前の加護は消えている。……だから、私の力が、お前の体そのものに届く」


 テルモは、手を離した。


 中庭が、静まり返った。


 貴族同士なら、誰もが知っていることだった。触れ合っている間だけは加護が消える。だからこそ、癒やしの光も触れなければ届かない。だが、テルモは今、それを悪魔に重ねていた。


「……ならば」


 テルモの目が、光った。


「私が悪魔に触れている間、私の氷は、悪魔の体を凍らせられる。私の炎は、悪魔を焼ける。……タイタンの拳も、キネシスの跳躍も」


「キネシスの坊主の跳躍もかよ」


 タイタンが、目を丸くした。


「窓の開いた悪魔を、坊主が跳ばせるってのか。どこへでも」


 キネシスは何も言わず、ただ自分の手のひらを、じっと見下ろしていた。


 蓮には、分かった。キネシスは今、帳面の頁を思い出しているのだ。


 貴族キネシス、窓の開いた悪魔を「移動」にて上空へ運ぶ。


 自分の字で書かれた、自分の覚えていない、その一行を。






 その夜、詰所の小部屋で、蓮は一枚の紙を広げていた。キネシスとタイタンとテルモとサナトスが、その紙を囲んでいた。


 紙には、蓮の少し崩れた字で表が書かれていた。三つの窓と、その長所と短所。


 キネシスの窓。速い。一瞬だけ開く。打たれにくい。だが、一太刀しか入らない。


 タイタンの窓。長い。何太刀でも入る。だが、長く開くほど、タイタン自身が打たれる。


 テルモの氷。触れなくても、悪魔の足を縫いつけられる。だが、三呼吸で割られる。触れれば、悪魔の体そのものを凍らせられる。だが、テルモの体は細い。悪魔の掌を一撃でも受ければ。


「……一つの窓だけでは、足りない」


 蓮は、言った。


「でも、三つを繋げたら」


 蓮は、表の下に矢印を書き込んでいった。


「まず、キネシス様が跳んで触れる。悪魔の目が、キネシス様に向く。……その隙に、テルモ様が、悪魔の足を凍らせる」


 テルモが、腕を組んだまま頷いた。


「足が縫いつけられた悪魔は、三呼吸の間、動けない。避けられない。……そこへ、タイタン様が抱きすくめる。長い窓が開く」


 タイタンが、にやりと笑った。


「それでも悪魔が、手首を地面に向けて、何かをしようとしたら」


 蓮は、表の一番下に、もう一本の矢印を書いた。


「キネシス様が、もう一度跳んで触れて、窓の開いた悪魔を遠くへ。……タイタン様ごと」


「遠くへ跳ばして、どうする。手を離せば、窓は閉じる。悪魔は無傷だ」


 テルモが、眉を寄せた。


「傷を負わせるためじゃありません」


 蓮は、首を振った。


「遠ざけるためです。魔法を撃つ者は、手のひらを向けた先に陣を描きます。悪魔が手首を地面に向けたら、足元に何かが来る。……ここで弾けたら、皆が死ぬ。だから、見える一番遠い場所で弾けさせる。俺たちから、一番離れた場所で」


 テルモが、黙った。


「上へ跳ばすのは、だめなのか」


 タイタンが訊いた。


「上だと、悪魔が手のひらを下に向けたら、俺たちの真上から撃たれます。……横です。地平線の、見える限り遠く」


「オレごとかよ!!」


「タイタン様は、向こうに着いたら手を離して、キネシス様の手を取ってください。キネシス様は、タイタン様を連れて跳んで戻る。……悪魔だけが、遠くに残る」


 小部屋が、静まり返った。


 キネシスが、蓮の書いた表をじっと見下ろしていた。その指が、最後の矢印の上で止まった。


「……私が、遠くへ跳ぶ」


 青年は、小さく呟いた。


「窓の開いた悪魔を連れて」


 蓮は、何も言わなかった。キネシスは、それを一度やっている。覚えていないだけで。帳面の写しに、自分の字で書かれているだけで。


「……お前は」


 キネシスが、顔を上げた。


「どこで、こんな段取りを覚えた」


 蓮は、少しだけ笑った。


「前の商会で、大きな仕事の時は、誰が何をいつやるか、全部紙に書いて、皆で見ながら決めました。……一人の頭の中だけで決めると、必ず誰かが、何かを忘れるので」


「誰かが、何かを忘れる、か」


 キネシスは、自嘲するように口元を歪めた。それから、紙を丁寧に折り畳んだ。


「写しを、三枚作れ。帳面と同じように」


「はい」


「それと」


 青年は、少しだけ間を置いた。


「……明日から、表のここに、私の名を書く時は、跳ぶ場所まで書いておけ。私は、跳ぶ前に、行き先を見る。……先代に、そう教わった」


 ――どこに跳ぶのか、いつも考えて動け。


 先代のその口癖を、キネシスは忘れていなかった。






 九日目の朝、三つの窓を繋げる初めての通し稽古が行われた。悪魔役は、サナトスだった。


 老人が中庭の真ん中に立ち、その周りを三人の貴族と六人の従士が囲む。石壁の上にはミラ。中庭の隅には、薬草の籠を抱えたレミエルがいた。


「始め」


 サナトスが、静かに言った。


 キネシスの目が、動いた。


 特務班が走る。


 キネシスが消える。現れる。老人の肩に触れる。


 老人の目が、キネシスに向いた。


 その隙に。


 パキィッ!!


 テルモの霜が、老人の足元を這い上がった。足首が、地面に縫いつけられた。


 キネシスが、跳んで消える。


 窓が、閉じる。


 だが、足は、凍ったままだ。


「タイタン!!」


「おうよッ!!」


 巨漢が、老人を背後から抱きすくめた。


 力は、込めていない。老人の細い体を、そっと包み込むように。


 それでも、触れている。


 長い窓が、開く。


「――今!!」


 フィールの号令。


 ピシピシピシピシピシッ!!


 六本の木剣が、老人の肩に、腕に、背中に。


 カンッ!!


 木の矢が、額に。


 ピシッ!! ピシッ!! ピシッ!!


 二太刀目。三太刀目。


 届く。届く。届く。


 老人の手が、わずかに下を向いた。


 手首から先だけが。


 地面を、指していた。


 悪魔が、魔法陣を生む時の仕草。


 蓮が、北門で見た、あの仕草。


 サナトスは、それを、表に書かれた通りに真似ていた。


「――キネシス様ッ!!」


 蓮は、叫んでいた。


 キネシスが、現れた。


 タイタンの背中に、手が触れた。


 その目が、遠くを見た。


 中庭の石壁の向こう。街の外れの、見張り塔の頂を。


 消えた。


 キネシスと、タイタンと、タイタンに抱きすくめられたサナトスが。


 中庭から、一瞬で。


 蓮は、見上げた。


 夜明けの空を背に、遠い見張り塔の頂に。


 三つの小さな影が、並んでいた。


 一瞬だけ。


 そして。


 キネシスとタイタンの影が、消えた。


 次の瞬間には、二人は中庭に戻っていた。


 見張り塔の頂に、サナトスの影だけが、ぽつんと残されていた。


「――サナトス様ぁぁぁぁッ!!」


 レミエルの悲鳴が、中庭を裂いた。


 遠い塔の上で、小さな影が、ゆっくりと手を振った。


 キネシスが、荒い息のまま膝をついた。


「……しまった。迎えに行く段取りを、表に書いていなかった」


 テルモが、呆れたように溜息をついた。


「本番なら、悪魔を迎えに行く者などおらん。……それで正しい」


 キネシスはもう一度跳び、ほどなくして、老人を連れて中庭に戻ってきた。


 サナトスは、薬草の上に腰を下ろして、夜明けの空を見上げていた。


 そして。


 声を立てて、笑い出した。


「……ああ」


 老人は、涙を流しながら笑っていた。


「見晴らしが、良いですね。この街を、あんなに高いところから見たのは……四百五十年生きて、初めてです」


 タイタンが、腹を抱えて笑い出した。テルモも、呆れたように溜息をつきながら、それでも口元を緩めていた。特務班の誰もが、その場にへたり込んで、肩で息をしていた。


 通った。


 三つの窓が、繋がった。






 稽古の後、皆が中庭を出ていく中で、フィールだけがその場に立ち尽くしていた。


 蓮は、振り返った。


「フィール?」


 フィールは、自分の手を見下ろしていた。木剣を握っていた手を。


「……ねえ、蓮」


 少女は、顔を上げなかった。


「さっき、サナトス様が、手首を地面に向けた時」


「うん」


「私、なんで、あれが危ないって、分かったんだろう」


 蓮の心臓が、跳ねた。


「蓮が叫ぶより、少しだけ、早かったの。……体が、勝手に、後ろに下がろうとした。あの仕草を見た瞬間に。白い光が来るって。熱い風が来るって」


 フィールは、自分の手を握りしめた。


「私、そんなもの、見たことないのに」


 夜明けの光が、中庭に差し込んでいた。薬草の葉に、露が光っていた。


 フィールは、ゆっくりと顔を上げた。その目が、まっすぐに蓮を見ていた。


「蓮」


 少女は、静かに訊いた。


「私、何か、忘れてる?」


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