炎の枷
中庭の空気が、揺らいでいた。
テルモの足元の土が、白く霜を吹いていた。その周りだけ、夜明けの露が凍りついて、薬草の葉が白く縁取られていく。
「……テルモ殿」
キネシスが、一歩前に出た。
「話を聞いてほしい。これは――」
「聞いた」
テルモは、キネシスを見ていなかった。その目は、木剣を握った従士たちに向けられていた。
「門の外で、全部聞いていた。触れ合えば加護が消える。その間なら、従士の剣でも届く。……それを、従士に稽古させている」
テルモの声は静かだった。静かすぎた。
「キネシス。お前は、貴族の殺し方を、従士に仕込んでいるのか」
中庭が、凍りついた。
蓮は、息を呑んだ。それだったのだ。テルモが怒っているのは、身分の上下ではない。
貴族同士が触れ合えば、加護が消える。その間なら、誰の剣でも通る。それは、貴族だけが知る秘密だった。民にも、従士にも、決して知られてはならない秘密だった。
「悪魔の殺し方だ」
キネシスが、言った。
「同じことだ」
テルモは、首を振った。
「魔殻は、悪魔の魔の力。加護とは別物だ。……貴族ならば、誰もがそう教わっている。悪魔に通じぬ稽古をして、後に残るのは、貴族の殺し方を体で覚えた従士だけだ。それが、この中庭の外へ漏れたらどうなる」
誰も、答えられなかった。
テルモの言うことは、正しかった。窓が悪魔に通じなければ、この稽古は、貴族の首に刃を当てる稽古でしかない。
「……別物かどうか」
キネシスが、静かに口を開いた。
「テルモ殿。古い言い伝えを、ご存じだろう。悪魔の手に捕らえられた貴族は、加護ごと命を奪われる、と」
テルモの眉が、わずかに動いた。
「どうやって加護が破られたのかは、誰にも分からん。だから従士は、悪魔の指一本、貴族に触れさせぬよう、盾になる。……そう教わってきた」
キネシスは、懐から一枚の紙を取り出した。
キネシスの字ではない、古い書き写しの文字が並んだ紙だった。
「先代の家に残っていた記録だ。……こう書かれている」
キネシスは、その一行を読み上げた。
「悪魔に触れられている間、貴族の加護は消える」
テルモが、黙った。
「触れ合えば、加護は消える。貴族同士でも。悪魔とでも」
キネシスは、紙を下ろした。
「ならば。その間、悪魔の魔殻は、どうなっている」
テルモは答えなかった。その指が、こめかみを押さえていた。
北門の前の作戦会議でも、テルモは同じ仕草をしていた。今のテルモは、その時のことを覚えていない。それでも指は、同じ場所を押さえていた。
「……別物だ」
テルモが言った。さっきよりも、声が細かった。
「なあ、テルモ」
タイタンが、腕を組んだまま、低く言った。
「オレは、さっき、こいつらに打たれた。……オレの腕がな、何かを知ってやがるんだよ。何かを抱え込んで、岩みてえに硬かったもんが、急に柔らかくなった感触をな。夢かもしれねえ。だが、夢にしちゃあ、生々しすぎる」
テルモはタイタンを見て、それから、ゆっくりと目を伏せた。
蓮は、一歩前に出ていた。言葉を、選んだ。
「テルモ様」
テルモの目が、蓮に向いた。
「悪魔が来た時、従士は盾になるしかありません。悪魔の指一本、貴族様に触れさせないように。……盾にならずに済む道を、探しているだけです」
テルモの目が、わずかに揺れた。
記憶は、書き換えられている。それでも、エスクーダの夜、一人の従士がテルモの前に身を投げ出して死んだこと。それだけは、消えていなかった。
長い沈黙があった。足元の霜が、少しずつ引いていった。
「……従士に貴族を打たせるなど、本来ならば、認めん」
テルモが、言った。
「だが、その戦い方が、悪魔に通じるものかどうか。……それは、試せる」
テルモの目が、特務班を一人ずつ見ていった。
「ただし、覚えておけ」
低い声だった。
「この窓とやらが、本物の悪魔の前で開かなかった時は。……この稽古に関わった従士は、一人残らず、私が処刑する」
中庭の空気が、凍りついた。
「貴族の殺し方を体で覚えた従士を、生かしておくわけにはいかん。悪魔に通じぬのなら、なおさらだ」
誰も、声を発さなかった。ロイの喉が、ごくりと鳴った。ヴァイスが、木剣を握る手に力を込めた。
フィールが、一歩前に出た。
「……構いません」
少女の声は、震えていなかった。
「窓が開かなければ、どのみち、私たちは盾になって死ぬだけです。……同じことです」
テルモは、フィールを長い間見ていた。
「……そうか」
テルモは中庭の真ん中へ歩み出て、サナトスが立っていた場所に、細身の体でまっすぐに立った。
「私が、悪魔の役をやる」
特務班の全員が、息を呑んだ。
「窓が開いても、私に近づいた者は、足を凍らせる。悪魔ならば、そのくらいのことはするだろう。……一人でも凍りついたら、この稽古は、しまいだ」
テルモは、タイタンを見た。
「タイタン。窓を開けるのは、お前の役だ」
巨漢が、にやりと笑った。
「おう。任せとけ」
タイタンがテルモの背後に回り、丸太のような両腕で、細身の体を後ろから抱きすくめた。
「……冷てえな、お前は」
「黙れ」
テルモの周りの空気が、冷えていく。
タイタンの腕に、白い霜が這い始めた。触れているのだ。窓が開いている。タイタンの加護も、消えている。
「冷てえ冷てえ!! ははっ、いいぞ、これくらいでなきゃな!!」
巨漢は笑いながら、腕を緩めなかった。
フィールが木剣を握り直した。窓が回る順に。肩と腕。胸と脇腹。そして、脚。
「……特務班。構え」
六人が、木剣を構えた。石壁の上で、ミラが弓を引き絞った。
「――行け!!」
走る。
六人が、一斉に。
パキパキパキッ!!
テルモの足元から、霜が放たれた。地面を這い、走り込んでくる足を狙って、白い牙のように伸びていく。
だが。
特務班は、止まらなかった。
――一呼吸。
ピシッ!! ピシッ!!
ヴァイスの木剣が肩に、ロイの木剣が腕に。打った瞬間に、二人はもう跳び退いていた。霜が、さっきまで二人の足があった場所を、白く凍らせる。
――二呼吸。
ピシッ!! ピシッ!! カンッ!!
ユーリとリアムの木剣が、左右の脇腹に。石壁の上から放たれた木の矢が、額に。ユーリとリアムもまた、打つと同時に霜の届かぬ方へ転がっていた。
「く……ッ!!」
テルモの霜が、追う。
追いきれない。
打っては離れ、打っては離れ。足を止める者が、一人もいない。
――三呼吸。
「今ああああッ!!」
フィールの木剣が、太腿を打っていた。
ピシッ!!
そして。
最後の一本。
蓮の木剣が。
テルモの、右の手首に。
コツン、と。
軽く、当たった。
その瞬間、蓮の足首を、霜が捉えた。
白い牙が、靴を這い上がる。足が、地面に縫いつけられる。
だが、テルモはそれに目もくれなかった。
その目は。
大きく、見開かれていた。
霜が、止まった。
テルモは、その場に立ち尽くしていた。足元の霜が、ゆっくりと溶け始めていた。
細身の体のあちこちに赤い痕が浮かび、額に小さな瘤ができていた。だが、テルモはその痕には目もくれず、自分の右の手首を見下ろしていた。蓮の木剣が当たった場所を。
「……ここを」
テルモの声は、かすれていた。
「なぜ、ここを打った」
蓮は、答えられなかった。なぜ右の手首だったのか、自分でも分からなかった。ただ、体がそこを選んでいた。北門で、テルモが自分の腕を氷の枷で悪魔に縛りつけた、あの場所を。
「……妙だ」
テルモは、右の手首を左手で掴んだ。
「ここが、熱い」
その指が、手首を、ゆっくりとなぞった。
「何かに、縛られていたような。……冷たいものに。自分で、自分を縛りつけたような」
テルモは、こめかみを押さえた。
靄がかかっているのだ、と蓮には分かった。テルモは今、靄の向こうの何かに手を伸ばそうとしている。だが、届かない。
「……夢でも、見ていたか」
テルモは、自嘲するように呟いた。
タイタンが、その肩をどん、と叩いた。
「夢だろうよ」
巨漢は、にやりと笑った。
「オレも見た。……いい夢だぜ」
テルモは、タイタンを見上げた。それから、赤い痕だらけの腕のまま穏やかに微笑んでいるサナトスを見た。キネシスを見た。そして、木剣を握ったまま濡れた足で立つ、六人の従士を見た。
長い沈黙があった。
「――いいだろう」
テルモは、顔を上げた。
「窓役、私も引き受ける。……だが、条件がある」
「条件?」
キネシスが訊いた。
テルモは、蓮を見た。
「この稽古、明日から私も毎朝来る。打たれる役も、交代でやる。……サナトス殿一人に、打たれ役を押しつけておくわけにはいかん」
テルモは、特務班を見渡した。
「そして、この中庭で見たことは、この中庭の外へは決して出すな。……見張るのも、私の役目だ」
サナトスが、目を細めた。
「それと」
テルモは蓮の前に歩み寄り、木剣を握るその手を、じっと見下ろした。
「お前の突き」
低い声だった。
「どこかで、見た気がする」
蓮の心臓が、跳ねた。
テルモはそれ以上何も言わず、自分の右の手首を、もう一度だけ左手で強く握りしめた。それから踵を返し、中庭を出ていった。
その背中の周りの空気が、まだ、わずかに揺らいでいた。
冷たい男の中で。
何かが、燃え続けていた。




