腕が覚えていたもの
「十日」
サナトスの治療記録の保管室で、蓮は言った。
燭台の灯りの下に、三冊の帳面が並んでいた。その横に、開拓地で記録した紙が広げられていた。痣の形。足跡の間隔。血の量。ミラが数えた、百十七という数。
「北門で手首を斬り落としてから、今日で四日です。……開拓地の痣は、指の形がまだ崩れていました。でも、手のひらの形は、もうできていた」
蓮は、紙の上の痣の写しを指でなぞった。
「四日で、ここまで戻った。なら、指まで戻るのに、あと五日。長くて十日。……それが、俺たちに残された時間だと思います」
キネシスが、腕を組んだまま頷いた。
「十日で、何をする」
「窓を開けられる貴族を、増やします」
蓮は、言った。
「今、窓を知っていて、窓を開けられるのは、キネシス様お一人です。サナトス様は、打たれる役を引き受けてくださっていますが……戦場に立つ方ではありません」
「ええ」
サナトスが、穏やかに頷いた。
「私が悪魔の前に立っても、窓は開けられましょう。ですが、開けた後に逃げられない」
北門で、焼けていく手で悪魔の手首を掴み続けた老人は、静かにそう言った。
「タイタン様とテルモ様に、窓を教えます」
蓮は、続けた。
「北門で、お二人とも窓を開けました。でも今は、覚えていない。……新しい戦い方として、一から」
「どちらからだ」
キネシスが訊いた。
「タイタン様から」
蓮は、即座に答えた。
「理由は」
「タイタン様は、隠し事ができない方です。見て、驚いて、納得したら、きっとすぐに乗ってくださる。……それに」
蓮は、少しだけ言い淀んだ。
「広場で、メンタル様と握手した後。タイタン様は、最後まで離さなかった感触が残っている、と言いかけました」
キネシスの眉が動いた。サナトスが、目を細めた。
「消されても、体が、覚えているのかもしれません」
蓮は、言った。
「タイタン様が乗ってくだされば、テルモ様を説得する時に、タイタン様が力になってくださる。……一人ずつ、です」
キネシスはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……まず、動かしやすい者から動かし、その者に次を動かさせる、か」
「前の職場で、そう教わりました」
「お前の前の職場とやらは、ずいぶんと腹黒い商会だったようだな」
「普通の商会です」
サナトスが、声を立てずに笑った。
翌朝の夜明け前、薬草の中庭に巨漢が現れた。
「なんだなんだ、こんな時間に! 秘密の話ってのは、キネシスの坊主らしくもねえ!」
タイタンは、大声で言いながら石壁の門をくぐり、それから、足を止めた。
空き地の真ん中に、サナトスが立っていた。左腕の袖をまくり、枯れ枝のような腕を晒して。その腕には、まだ消えきらない赤い痕が幾筋も残っていた。そして老人の周りを、木剣を握った六人の従士が囲んでいた。
巨漢の目が、ゆっくりと見開かれた。
「……おい」
その声が、地の底から響くように低くなった。
「何だ、これは」
「タイタン殿、これは――」
キネシスが言いかけた。遅かった。
タイタンの巨体が、消えていた。違う。踏み込んだのだ。
蓮の目には、ほとんど見えなかった。
ドン、と地面が鳴った次の瞬間には、巨漢はもう、サナトスに一番近い場所にいたヴァイスの胸倉を掴み上げていた。
「てめえら――サナトスの爺さんに、何しやがったあああああッ!!」
「ぐ、あ……ッ!!」
ヴァイスの足が、地面から浮いていた。桁外れの握力が、胸倉ごとヴァイスの体を吊り上げていた。
「タイタン殿!!」
「タイタン様、待って――!!」
フィールが叫んだ。ロイが木剣を放り出して駆け寄ろうとした。
「おやめなさい」
静かな声が、中庭に響いた。
サナトスだった。老人は、タイタンの丸太のような腕にそっと手を置いていた。
「私が頼んだのです」
タイタンが、ゆっくりとサナトスを見下ろした。
「……爺さんが?」
「ええ。この方々に、打ってくださいと。……私が」
巨漢の顔から、怒りが少しずつ引いていった。代わりに浮かんだのは、困惑だった。
「何の、ために」
「見ていただけますか」
サナトスは、微笑んだ。
「言葉で説明するより、その方が早いでしょうから」
タイタンは、ヴァイスを下ろした。ヴァイスは地面に膝をついて咳き込み、フィールがその背中をさすった。
キネシスが、サナトスの肩に手を置いた。ロイが木剣を拾い上げ、振り下ろした。
ピシッ。
老人の腕に、新しい赤い筋が浮かんだ。
キネシスが、手を離した。
ロイが、もう一度振り下ろした。
コン。
弾かれた。
タイタンは腕を組んで、それを見ていた。一言も、口を利かずに。
キネシスが、窓の説明をした。貴族同士が触れている間は、互いの加護が消えること。触れた所から消え、数呼吸で全身に回ること。悪魔にも同じことが言えること。その間だけ、従士の剣が悪魔に届くこと。
タイタンは、最後まで黙って聞いていた。説明が終わっても、しばらく何も言わなかった。
「……触れている間、か」
巨漢は、低く唸った。
蓮の背筋に、ぞくりとしたものが走った。北門の前の作戦会議で、タイタンが初めて窓の話を聞いた時と、一字一句同じ言葉だった。
「オレら貴族同士は、触れてなきゃ回復の魔石ひとつ効かねえ」
タイタンは、自分の右手を見下ろした。開いて、握って、また開いた。
「……なあ、坊主」
「何だ」
「オレは、なんでだか知らねえが」
巨漢の太い眉が、何かを思い出そうとするように寄っていた。
「この手が、それを知ってる気がするんだよ。……何かを、こう、腕の中に抱え込んで。岩みてえに硬かったもんが、急に、柔らかくなった感触を」
タイタンは、何かを抱きすくめるように、両腕をゆっくりと胸の前で交差させた。
「……夢でも見たのかね」
蓮は、何も言えなかった。キネシスも、何も言わなかった。サナトスだけが、静かに微笑んでいた。
「夢でしょうね」
老人は、言った。
「ですが、良い夢です」
「よし」
タイタンは両腕を解き、中庭の真ん中へ、どかどかと歩いていった。
「爺さん、どいてくれ」
「タイタン殿?」
「爺さんを突いてたって、埒が明かねえだろう。爺さんは動かねえ。悪魔は動く。……オレが、悪魔の役をやってやる」
巨漢は、サナトスが立っていた場所に仁王立ちになった。
「坊主、オレに触れろ。窓を開けろ。そんで、お前ら」
タイタンは、特務班の六人を見渡した。その目が、ぎらりと光った。
「オレを、突いてみろ」
中庭が、静まり返った。
「……ただし」
巨漢は、にやりと笑った。
「オレは、避けるぜ。殴り返すぜ。……手加減はしてやるが、痛えのは覚悟しとけ」
フィールがごくりと唾を飲み込み、木剣を握り直した。
「……特務班。構え」
キネシスの目が、動いた。
タイタンの左斜め後ろ。
特務班の六人が、一斉に走った。
キネシスが消える。現れる。タイタンの肩に、手が触れる。
「今!!」
六本の木剣が、殺到する。
だが。
タイタンは、そこにいなかった。
「遅えッ!!」
巨体が、横に跳んでいた。
ただの横跳び。それだけで、地面が抉れ、薬草が土ごと吹き飛んだ。キネシスの手が、タイタンの肩から弾かれるように離れる。窓が閉じる。
六本の木剣が、空を切った。
「そらよッ!!」
タイタンの裏拳が、一番近くにいたロイの木剣を叩いた。
バキィッ!!
木剣が、真っ二つに折れた。ロイの体が、独楽のように回って地面に転がる。
「ロイ!!」
「平気だ!! 平気――げほっ!!」
「次!!」
タイタンが吠えた。
キネシスの目が、動く。今度はタイタンの右側。
走る。
キネシスが現れる。触れる。
タイタンが、身を沈める。
低い。
巨体とは思えないほど低い姿勢から、丸太のような脚が、地面すれすれを薙いだ。
ブオンッ!!
足払い。
ユーリとリアムが、まとめて宙に浮いた。地面に叩きつけられる。
「悪魔はなあ!! もっと速えんだろう!? もっと、いやらしいんだろう!?」
タイタンが、心の底から楽しそうに笑っていた。
「オレの拳一つ躱せねえで、悪魔を突けると思ってんのかあああッ!!」
蓮は、地面を転がりながら、歯を食いしばった。
速い。
硬い。
重い。
手加減されているのは分かる。本気なら、今の足払いで、ユーリとリアムの脚は砕けている。それでも、届かない。窓が開いている一瞬のうちに、タイタンは動く。キネシスの手を振り払い、窓を自分から閉じる。
悪魔も、同じことをするはずだ。北門で、あの悪魔はタイタンの握りを関節の技でほどき、テルモの枷を利用し、キネシスの跳躍を読み切った。窓が開いた瞬間、悪魔は窓を閉じようとする。
だったら。
「――フィール!!」
蓮は、叫んでいた。
「窓が開いてから走るんじゃ、間に合わない!! 窓が回る先に、先に剣を置いておくんだ!!」
フィールが、蓮を見た。
「……回る、先に?」
「窓は、キネシス様の手から開く。手に近い所から、順番に。肩、腕、胸、脇腹、脚。……一呼吸ごとに、そこへ剣を落としていけば、窓を閉じられる前に、全部届く!」
フィールの目が見開かれ、それから、少女はぎゅっと唇を結んだ。
「……全員、聞いた!? 窓を待たない!! 窓が回る順に、斬る!! 一呼吸目は肩と腕、二呼吸目は胸と脇腹、三呼吸目は脚!!」
「おうッ!!」
ヴァイスが、ロイが、ユーリとリアムが、地面から跳ね起きた。
石壁の上で、ミラが、無言で弓を引き絞った。
タイタンが、にやりと笑った。
「……面白え。来いッ!!」
キネシスの目が、動いた。
タイタンの左の背後。
走る。
六人が、一斉に。
それぞれが、受け持ちの場所へ。
キネシスが消える。
現れる。
タイタンの左肩に、手が触れた。
――一呼吸。
ピシッ!! ピシッ!!
ヴァイスの木剣が肩に、ロイの木剣が腕に、届いていた。
「ぐッ――!?」
タイタンの巨体が、わずかに揺らいだ。痛みに、一瞬だけ動きが遅れた。振り払うはずの腕が、止まっていた。
――二呼吸。
ピシッ!! ピシッ!! カンッ!!
ユーリとリアムの木剣が、左右の脇腹に。石壁の上から放たれた木の矢が、額に。
そして。
蓮の木剣が。
巨漢の、胸の真ん中に。
ゴッ。
鈍い音が、中庭に響いた。
――三呼吸。
「今ああああッ!!」
フィールの木剣が、太腿を打っていた。
ピシッ!!
キネシスの手が離れた。青年は十歩先に現れ、膝をついた。
静寂。
タイタンは、仁王立ちのまま、動かなかった。
その体のあちこちに、赤い痕が浮かび上がっていた。額に、小さな瘤ができていた。口の端が切れて、一筋の血が、顎を伝っていた。
巨漢は、自分の胸の真ん中を見下ろした。蓮の木剣が、まだそこに当たっていた。それから、ゆっくりと顔を上げ、蓮を見た。
「……小僧」
低い声だった。
蓮は木剣を引こうとした。その前に、タイタンの大きな手が、蓮の頭をわしわしと掻き回していた。
「いい突きだったぜえええええええッ!!」
巨漢の笑い声が、夜明けの空に響き渡った。
「ははははは!! 痛え!! 痛えなあおい!! 百年ぶりだぜ、こんなに痛えのは!!」
タイタンは、口の端から血を流し、額の瘤を撫でながら、腹を抱えて笑っていた。
「いいぞ、いいぞ!! これなら、悪魔も突ける!! ……なあ、坊主!!」
キネシスが、息を切らせながら顔を上げた。
「次は、オレが窓を開ける側だ。……お前一人に、窓役を押しつけてられるかよ」
キネシスはしばらく巨漢を見上げていたが、やがて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……頼む、タイタン殿」
その時だった。
中庭の入り口で、低い声がした。
「……何をしている」
全員が振り返った。石壁の門の前に、男が立っていた。
細身の体。腕を組んだ姿勢。朝の冷たい空気の中で、その男の周りだけが、わずかに陽炎のように揺らいでいた。
テルモだった。その目が、中庭の光景をゆっくりと見渡していた。
木剣を握った従士たち。
赤い痕だらけで笑うタイタン。
口の端の血。
膝をついたキネシス。
そして、袖をまくったまま立つサナトスの腕の、幾筋もの赤い痕。
テルモの目が、細められた。
その周りの空気が。
じわり、と。
熱を、帯び始めた。
「……従士が」
声が、低く、低く、沈んでいった。
「貴族を、打っているのか」




