見る、数える、生きて報せる
「今から出る」
キネシスは、そう言った。
詰所の小部屋。机の上に、ギードが持ってきた地図が広げられていた。北の外周の砂漠。その縁に点在する開拓地の一つに、赤い印がつけられていた。
「手を取り戻しつつあるなら、まだ取り戻しきってはいない。今が好機だ。特務班を連れて、私が跳ぶ」
青年の指が、赤い印を叩いた。
「窓の訓練は、今朝、全員が届くところまで来た。私が触れ、お前たちが突く。……それで足りる」
蓮は、地図を見下ろしていた。フィールも、同じように黙っていた。
足りる。本当に、そうだろうか。
「キネシス様」
蓮は、口を開いた。
「今朝、全員が届いたのは、一度だけです」
キネシスの指が、止まった。
「それも、相手はサナトス様でした。動かない相手です。……悪魔は、動きます。キネシス様の目を読みます。触れた瞬間に、打ってきます」
「分かっている」
「それに、窓を開けられる貴族は、キネシス様お一人です。タイタン様もテルモ様も、今は窓を知りません。もしキネシス様が、窓の内側で捕まったら」
蓮は、言葉を切った。
北門で、悪魔の掌がキネシスの背中に吸いついていた光景が、脳裏をよぎった。キネシスは、それを覚えていない。
「……誰も、助けに入れません」
小部屋が、静まり返った。キネシスは地図を見下ろしたまま、動かなかった。その横顔に、焦りが浮かんでいた。一昨日の夜、盗人の門をくぐって訴えに行こうとした時と、同じ顔だった。
「では、どうしろと言う」
青年の声が、低くなった。
「悪魔が手を取り戻すまで、指を咥えて待てと言うのか。次に来た時、また誰かが死ぬのを」
「待てとは言いません」
蓮は、首を振った。
「まず、見に行きましょう」
キネシスが、顔を上げた。
「戦いに行くんじゃなくて。……何があったのか。悪魔がどっちへ向かったのか。手は、どこまで戻っているのか。それを見て、数えて、生きて帰ってくる」
フィールが、はっとしたように蓮を見た。
――見て、数えて、報せろ。
特務班が作られた日に、キネシス自身が言った言葉だった。キネシスも、それに気づいたようだった。青年はしばらく黙っていたが、やがて深く息を吐いた。
「……特務班の主が、その務めを班の者に説かれるとはな」
「すみません」
「謝るな」
キネシスは、地図を丸めた。
「調査に出る。戦いはしない。悪魔を見つけても、手は出さない。……そういう段取りでいいな、隊長」
フィールが、背筋を伸ばした。
「はい。……撤退の合図と、集合場所を、先に決めさせてください」
「任せる」
キネシスは、それだけ言って、小部屋を出ていった。
扉が閉まった後、フィールが、小さく息を吐いた。
「……蓮」
「ん」
「あなた、いつからそんなに、キネシス様に物を言えるようになったの」
蓮は答えなかった。答えられなかった。キネシスと二人きりで夜明けまで話したあの夜のことを、フィールは知らないのだから。
開拓地は、砂漠の縁の、なだらかな丘の上にあった。
低い石垣に囲まれた放牧場。その奥に、日干し煉瓦の小屋が三つ。小屋の脇に、井戸。外周の砂漠へ向かって、人が少しずつ切り拓いてきた土地だった。
キネシスの「移動」で丘の麓まで跳び、そこから歩いて登った。石垣を越えた時、特務班の誰もが足を止めた。
モーズが、並んでいた。
トートスが、並んでいた。
放牧場の真ん中に、一列に。頭を同じ方向に揃えて。前脚をきちんと折り畳んで。まるで、眠っているように。
百頭以上。その一頭ずつの胸に、手のひらの形をした黒い痣があった。
「……数えて」
フィールが、かすれた声で言った。
「ミラ」
ミラが、無言で頷いた。
少女は列の端から歩き始め、一頭ごとに指を折っていった。唇が、音もなく動いていた。
蓮は、列の真ん中の一頭の前に膝をついた。大きなモーズだった。その胸の痣を、じっと見つめた。
「……報せの通りだ」
蓮は、呟いた。
フィールが、隣に来た。
北の集落で見た痣は、はっきりとした手のひらの形をしていた。五本の指の跡まで、くっきりと。だが、これは歪だった。手のように見えるのに、指の跡が短く、形が揃っていない。
蓮は、隣の一頭の胸を見た。その隣も、さらに隣も。どれも、同じだった。
「……まだ、戻りきってない」
蓮は、言った。
食いもせずに、ただ殺して、並べている。国境の悪魔も、そうだった。
――国が飢えておりますので。
北門で、あの悪魔はそう言った。そして、武を持たぬ者を糧と呼んだ。自分が食うためでないのなら。
「……同胞のための、糧なのか」
「殺すこと自体が、あいつらの国を養ってる。……そういうことなのかもしれない」
フィールが、息を呑んだ。
ミラが、列の反対の端から戻ってきた。少女は、指を立てて見せた。百と、十七。
「……それから、こっち」
ヴァイスが、列の先頭の方から呼んだ。
蓮とフィールが駆けつけると、ヴァイスが地面を指差していた。
砂の上に、人の足跡があった。裸足の、細い足跡。一歩一歩の間隔が、完璧に揃っていた。まっすぐに、丘を下り、北へ。外周の砂漠の、さらに奥へ。
そして、その足跡の横に、黒い染みが点々と続いていた。
「血だ」
ロイが言った。
「悪魔の血……まだ、傷が塞がってないんだ」
キネシスが、足跡の先を見つめていた。その手が、わずかに握りしめられていた。
蓮は、その横顔を見た。追いたいのだ。今すぐ跳んで、この足跡の先へ。
キネシスは長い間、北の地平線を見つめていた。それから、ゆっくりと手を開いた。
「……方角を、記録しろ」
青年は、言った。
「足跡の間隔と、血の量も。……今日は、ここまでだ」
フィールが蓮を見た。蓮は、小さく頷いた。
「兵隊さん」
小屋の陰から、声がした。特務班の全員が振り返った。
そこに、子どもが立っていた。
十歳くらいの、日に焼けた少年。擦り切れた服。裸足。その後ろに、少年の母親らしい女と、年寄りの男が、怯えたように身を寄せ合っていた。
「牧夫の家族か」
キネシスが訊いた。
女が、震えながら頷いた。
「市から、戻ったところで……主人は、まだ町に……」
「兵隊さん、あの人を、捕まえに来たの?」
少年が、キネシスを見上げた。
キネシスの眉が動いた。
「……あの人?」
「白い布を巻いた人。夜に来たの。僕、小屋の窓から、見てた」
特務班の全員が、息を呑んだ。
母親が、少年の肩を掴んだ。
「この子が熱を出して、市には連れて行けなくて。……義父が、この子と残ってくれていたんです」
年寄りの男が、震える声で続けた。
「わしは、この子を抱いて、寝台の陰に隠れておりました。……目を閉じて、じっと。それなのにこの子が、窓から覗いてしまって」
蓮は、少年の前に膝をついた。
「その人は、何をしてた?」
「モーズたちに、お辞儀してた」
少年は、言った。
「一頭ずつ。胸の前で、こうやって」
少年は、両手を胸の前で合わせようとして、首を傾げた。
「……でも、手が、ちゃんと合わなかった。片っぽの手が、黒くて、枝みたいで。もう片っぽは、なんだか、半分しか、なかった」
蓮の背筋が、凍りついた。左手は、テルモの炎で炭になった。右手は、蓮が斬り落とした。その両方が、戻りかけている。
「それから、お辞儀したモーズの胸に、その手を当てて」
少年の声が、少しだけ震えた。
「そしたら、モーズが、眠ったみたいに倒れて。……並べてた。一頭ずつ。すごく、丁寧に」
「その人は、小屋には来なかったのか」
キネシスが訊いた。
少年は、首を振った。
「来たよ」
母親が、息を呑んだ。
「小屋の窓のとこに来て、僕とおじいちゃんを見たの。僕、怖くて、動けなかった」
少年は、キネシスではなく、蓮を見ていた。
「そしたら、あの人、言ったの。『お二人とも、武をお持ちではありませんね』って」
蓮の喉が、凍りついた。武を持たぬ者は、糧。
「でも、それから、ちょっと笑って」
少年は、首を傾げた。
「『本来なら、いただくところですが』って。『お二人には、ひとつ、お使いをお願いしたい』って」
母親が、少年を抱きしめた。その腕が、震えていた。
「兵隊さんたちが来たら、伝えてくださいって。……だから、僕たちは、そのままにしておくって」
蓮は、息を止めた。見逃されたのではなかった。この二人は、伝言を運ぶために生かされたのだ。
小屋の前の空気が、止まった。
「……何と」
キネシスの声が、かすれていた。
少年は、蓮をまっすぐに見た。その目の中に、何の悪意もなかった。ただ、頼まれたことを、正直に伝えようとしているだけの目だった。
「『通さない方に、よろしくお伝えください』って」
蓮の心臓が、止まりかけた。
「『もうすぐ、手が戻ります』って」
夕日が、放牧場を赤く染めていた。
並べられた百十七頭の家畜の影が、砂の上に長く伸びていた。
蓮は、血の跡が続く北の地平線を見つめていた。悪魔は、知っていたのだ。ここに誰かが来ることを。来るのが特務班だということを。その中に、自分がいることを。
――覚えておきます。
北門で、あの悪魔はそう言った。あれは、社交辞令ではなかった。
「……帰るぞ」
キネシスが、静かに言った。
「見た。数えた。……あとは、生きて報せるだけだ」
青年は、牧夫の家族の方を振り返った。
「お前たちも来い。ここに残るのは、危ない」
母親が、何度も頷いた。
キネシスの目が、丘の麓の一点を見た。
特務班の全員が、その視線の先へ、一斉に走り出した。
キネシスが現れた時には、もう全員がそこにいた。牧夫の家族も、その輪の中にいた。青年は全員を見渡して、小さく頷いた。そして、次の一点を見た。
夕日の沈む方角。サナトリアの白い城壁が、遥か遠くに霞んで見える、その一点を。
――跳んだ。




