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痛みを知る手

 誰も、動けなかった。


 夜明けの光が、石壁の上から差し込んでいた。薬草の葉に宿った露が、きらきらと光っていた。その真ん中で、木剣を握ったままの特務班が、凍りついたように立ち尽くしていた。


 レミエルの目から、涙がこぼれ続けていた。少女の視線は、膝をついたサナトスの腕に釘づけになっていた。幾筋も走る、赤い痕に。


「……レミエル」


 サナトスが、静かに呼んだ。少女は、びくりと肩を震わせた。


「こちらへ、いらっしゃい」


 レミエルは動かなかった。足元に転がった木桶から、摘んだばかりの薬草がこぼれていた。


「……どうして」


 かすれた声だった。


「どうして、サナトス様が……打たれて……」


 レミエルの目が、特務班の方を向いた。木剣を握ったままの、六人の従士を。


 ヴァイスが、びくりと身を強張らせた。その手から、木剣が滑り落ちた。


 レミエルは、従士に優しい少女だった。怪我をした従士にも心を痛めるから、貴族社会では甘いと言われていた。サナトリアに来てからの数日、通りで、治療院の廊下で、蓮は何度もその姿を見てきた。血と薬の染みのついた袖で、見ず知らずの兵士の傷に薬を塗っていた姿を。


 その少女が今、従士たちを、信じられないものを見るような目で見ていた。


「私が、頼んだのですよ」


 サナトスが言った。


「打ってください、と。……私が」


 レミエルは、老人を振り返った。


「サナトス様が……?」


「ええ」


 サナトスは、膝をついたまま少女を手招きした。


「こちらへ。……話しましょう。全部ではありませんが、あなたが見たことについては」


 レミエルは、長い間動かなかった。それから、こぼれた薬草を踏まないように避けながら、ゆっくりと一歩を踏み出した。


 キネシスが、特務班に目配せをした。下がれ、という合図だった。フィールが頷き、六人は中庭の端へと移った。蓮も、その後に続こうとした。


「皆様、残ってください」


 サナトスが言った。


 蓮は足を止め、キネシスとサナトスとレミエル、その三人の傍らに立った。


 サナトスは少女の手を取り、ゆっくりと話し始めた。


 悪魔が、また来るかもしれないこと。


 悪魔には、いかなる攻撃も通らないこと。


 だが、貴族が悪魔に触れている間だけは、悪魔の魔殻が消えること。


 その間なら、従士の剣でも、悪魔に届くこと。


 それを、キネシスが考え出したこと。


 それを身につけるには、守りを持つ者を、実際に打たねばならないこと。


 だから、自分が打たれる役を、引き受けたこと。


 メンタルのことは、話さなかった。消された記憶のことも、北門の本当の戦いのことも。ただ、今ここで起きていることだけを。


 レミエルは、黙って聞いていた。その目から、涙はもうこぼれていなかった。


「……触れ合っている間は」


 少女が、ぽつりと言った。


「サナトス様の加護も、消える」


「ええ」


「だから、サナトス様に、剣が当たった」


「ええ」


 レミエルは、老人の腕を見下ろし、赤い痕にそっと指先で触れた。サナトスが、ほんのわずかに眉を寄せた。


「……痛い、のですね」


 少女の声が、震えていた。


「サナトス様も。……打たれたら、痛いのですね」


 サナトスは答えず、少女の頭に、もう一方の手をそっと乗せた。


「私、ずっと思っていました」


 レミエルは、老人の腕から目を離さずに言った。


「当主の方々は、傷つかない。どんな刃も、どんな牙も、届かない。……だから、戦で血を流すのは、いつも従士の方々でした。加護を持たない人だけが、傷ついて、痛い思いをする。それが、この世の決まりなのだと」


 少女の指先が、赤い痕をなぞった。


「だから、せめて、従士の方々の傷は、手当てしたかった。痛い思いをするのは、いつもあの方たちだけなのだから」


 蓮は、何も言えなかった。


「でも、違ったのですね」


 レミエルは、顔を上げた。その目に、まだ涙の跡が残っていた。


「サナトス様も、痛いのですね。……同じなのですね」


 しばらく、誰も口を開かなかった。


 やがて、レミエルは立ち上がった。転がった木桶のところへ行き、こぼれた薬草を一本ずつ拾い集め始めた。


「レミエル?」


「手当てを、します」


 少女は、振り返らずに言った。


「サナトス様の腕を。……それと」


 レミエルは、中庭の端に固まっている特務班の方を見た。木剣を握りしめたままの、六人の従士の手を。夜明けまで木剣を振り続けた手のひらは、どれも皮が剥け、血が滲んでいた。


「皆さんの手も」


 レミエルは薬草を抱えて特務班の方へ歩いていき、ヴァイスの前で足を止めた。ヴァイスは、うつむいたまま動かなかった。


「……申し訳、ありませんでした」


 押し殺した声だった。


「最初に打ったのは、俺です。サナトス様を。……従士の分際で」


「手を」


 レミエルは言った。ヴァイスが、顔を上げた。


「手を、見せてください」


 ヴァイスは戸惑いながら、右手を差し出した。


 レミエルは、その手を両手で包んだ。剥けた皮に、摘んだばかりの薬草を揉んで、そっと当てていく。


「……痛かったでしょう」


 少女は、言った。


「サナトス様を打つのは。……手よりも、ずっと」


 ヴァイスの肩が、震えた。何も言わなかった。言えなかった。ただ、うつむいたまま、少女の手当てを受けていた。


 レミエルは、一人ずつ特務班の手を取っていった。ロイの手を。ミラの手を。ユーリとリアムの手を。フィールの手を。


 最後に、蓮の前に来た。


 蓮が手を差し出すと、レミエルはその手のひらを見下ろして、少しだけ目を細めた。


「……蓮様の手が、一番ひどいですね」


「一番、多く振りましたから」


 胸の傷も治りきっていないのに。そう言いたげに小さく眉を寄せて、少女は薬草を当てた。ひんやりとしていた。


「私も、明日から、ここに来ます」


 レミエルは、蓮の手を包んだまま言った。


「手当てをする者が、いるでしょう? ……毎朝、こんなに手を痛めていたら、悪魔が来る前に、剣が握れなくなってしまいます」


「レミエル様」


「それと」


 少女は顔を上げ、サナトスの方を見た。


「打たれる役も、私が代わりに」


「いけません」


 サナトスの声は、静かだった。だが、はっきりとしていた。


「あなたには、まだ加護がありません。スキルを継いでいないのですから。……窓があろうとなかろうと、あなたが打たれれば、ただ傷つくだけです」


 レミエルは口を開きかけて、閉じた。薬草の汁で緑色に染まった、自分の手を見下ろした。


「……そう、でした」


 小さな声だった。


「私が打たれても、窓など開かない。ただ、痛いだけ」


「ええ」


「打たれる役は、加護を持つ方にしか、務まらないのですね」


「ええ」


 サナトスは、微笑んだ。


「ですから、あなたは、手当てをなさい。……それは、あなたにしかできないことです」


 レミエルはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。サナトスの傍らに戻り、老人の腕の赤い痕に薬草を当て始める。その手つきは丁寧だった。一筋ずつ、一筋ずつ。


「……あなたの手は、温かいですね」


 サナトスが、ぽつりと言った。


「昔から、そうでした」


 レミエルは答えず、老人の腕に薬草を当て続けていた。


 蓮は、その手を見ていた。


 なぜだろう。薬草を当てられた老人の腕の痕が、ほんの少しだけ、薄くなったように見えた。


 気のせいだろう。薬草に、そんな力はない。そう思って、蓮は目を逸らした。






 朝の鐘が、サナトリアの空に響いていた。


 特務班が中庭を出ようとした時、館の廊下を誰かが駆けてくる足音がした。「移動」第一部隊の伝令兵だった。ギードの部下の一人で、サナトリアに残った部隊の見張りについていた男だった。


「キネシス様!!」


 伝令兵は、中庭の入り口で膝をついた。息が荒かった。鳥舎に届いた伝書鳥の報せを握りしめて、街を駆け通してきたのだと分かった。


「北の外周の砂漠を巡回していた斥候から、伝書鳥が……!」


「言え」


「砂漠の縁の開拓地で、放牧場のモーズとトートスが、一晩で全て殺されました。百頭以上です。牧夫たちは市へ出ていて、難を逃れたそうですが」


 キネシスの眉が、動いた。


「魔物の仕業か」


「いえ……それが」


 伝令兵は、唾を飲み込んだ。


「魔物ならば、食い散らかします。ですが死骸は、全て……並べられていたそうです。一列に。丁寧に。まるで、誰かが、きちんと片付けたように」


 蓮の背筋が、凍りついた。


 並べられていた。丁寧に。


 北の外壁沿いの、三つの集落。声のない集落で見た、あの光景。


「そして……どの死骸にも、胸に、痣が」


 伝令兵は、言った。


「黒い痣が。……手のように見えるが、歪な痣だった、と」


 中庭が、静まり返った。


 レミエルが、薬草を握りしめた手を胸に押し当てていた。サナトスが、ゆっくりと顔を上げた。キネシスは何も言わず、その目が北の空を見ていた。


 蓮も、同じ方角を見ていた。


 手のように見える、歪な痣。


 北門の前で、蓮が斬り落とした右手。テルモが焼いた左手。両手を失った悪魔には、もう掌打は打てないはずだった。


 それなのに、歪な手の形。


 まるで、まだ生えかけの手で、押し当てたような。


「……手を」


 蓮は、呟いていた。


「取り戻しつつある」


 ――傷を癒やし、手を取り戻しましたら、改めて参ります。


 あの穏やかな声が、北の空の向こうから、聞こえた気がした。


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