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木剣の窓

 サナトスの館の奥に、小さな中庭があった。


 四方を高い石壁に囲まれ、外からは覗けない。薬草を育てるための庭だった。背の低い草が整然と植えられ、その真ん中に、踏み固められた土の空き地があった。


 夜明け前、まだ星の残る空の下で、特務班の七人がそこに並んでいた。


「こんな時間に、何?」


 フィールが小声で訊いた。その目は、まだ半分眠っていた。


「キネシス様からの呼び出しだ」


 蓮は答えた。


「新しい戦い方を、教えてくださるらしい」


「新しい?」


 フィールが首を傾げた、その時。


 中庭の入り口に、二つの人影が現れた。キネシスと、白い長衣の老人だった。


「サナトス様……?」


 ロイが目を丸くした。


 特務班の全員が、慌てて背筋を伸ばし、右の拳を左の胸に当てた。


 キネシスは七人の前に立った。青年の手には、木剣が一本握られていた。


「今日から、お前たちに新しい戦い方を教える」


 前置きもなく、キネシスは言った。


「悪魔には、いかなる攻撃も通らない。……それは知っているな」


「はい」


 フィールが答えた。


「悪魔は、魔殻を纏っています。貴族様の加護とは別の、魔の力だって。……だから、私たちは盾になるしか」


「違う」


 キネシスは、フィールの言葉を遮った。


「盾にならずに済む方法がある。……私が、考えた」


 蓮は、その横顔を見ていた。


 ――私が、考えた。


 嘘ではなかった。忘れる前のキネシスが、確かに考えたのだ。帳面に書いて、自分に託したのだ。


 キネシスは、木剣をヴァイスへと差し出した。


「これで、サナトス殿を打て」


 中庭が、凍りついた。


「……は?」


 ヴァイスが、木剣を見下ろしたまま、固まった。


「聞こえなかったか。サナトス殿の腕を、打て」


「い、いや、キネシス様、何を――」


「構いませんよ」


 サナトスが、穏やかに言った。


 老人は、自分から空き地の真ん中へ歩み出て、左腕を横へ差し出した。袖をまくり、枯れ枝のような細い腕を、夜明け前の薄明かりの中に晒した。


「さあ。遠慮なく」


 ヴァイスの顔から、血の気が引いていった。従士が、貴族を打つ。それは、この世界で考えることすら許されないことだった。


「……できません」


 ヴァイスの声が、震えていた。


「打っても、届きません。貴族様には加護が……それに、たとえ届かなくても、従士が貴族様に剣を向けるなんて――」


「届かないなら、何の害もあるまい」


 キネシスは、静かに言った。


「打て。命令だ」


 ヴァイスは唇を噛み、木剣を握り直した。震える腕で、振りかぶった。


「……失礼、いたします」


 振り下ろした。


 コン。


 乾いた音がした。


 木剣は、サナトスの腕の指一本手前で、見えない壁に弾き返されていた。


 ヴァイスは、深く息を吐いた。安堵の息だった。


「やはり……届きません」


「そうだな」


 キネシスは頷いた。


 そして、サナトスの傍らへ歩み寄り、その右肩にそっと手を置いた。


「もう一度」


「え……」


「もう一度、同じように打て」


 ヴァイスは、キネシスの手とサナトスの腕を交互に見た。貴族が、貴族に触れている。それが何だというのか。困惑したまま、ヴァイスはもう一度木剣を振りかぶった。さっきよりも、少しだけ力を抜いて。どうせ届かないのだから。


 振り下ろした。


 ピシッ。


 音が、違った。


 木剣が、サナトスの腕に。


 当たっていた。


 弾かれずに。


 老人の細い腕に、木の刃が、確かに食い込んでいた。


「――っ!?」


 ヴァイスが木剣を取り落とし、後ずさった。足がもつれて、尻餅をついた。


「あ、あ……当たった……当たった……!?」


 サナトスの腕に、赤い筋が浮かび上がっていた。木剣の痕だった。


 老人は、その痕を見下ろして、小さく微笑んだ。


「……ええ。当たりましたね」


 中庭の誰もが、声を失っていた。


 フィールが、両手で口を覆っていた。ロイが、目を見開いたまま動かなかった。ミラの指から、弓の弦が滑り落ちた。ユーリとリアムが、互いの顔を見合わせていた。


「貴族同士が触れ合っている間は」


 キネシスが、静かに言った。


「互いの加護が、消える。……貴族なら誰もが知っていることだ。触れ合わなければ、回復の魔石すら届かない。触れた所から消え、数呼吸かけて全身に回る」


 青年は、サナトスの肩から手を離した。


「そして、それは悪魔にも同じことが言える」


 フィールが、ゆっくりと手を下ろした。


「……悪魔に、貴族様が触れている間は」


「悪魔の魔殻も、消える」


 キネシスは、七人を見渡した。


「その間だけ、お前たちの剣が、悪魔に届く。……私はこれを、窓と呼ぶ」


 フィールの瞳が、ほんの一瞬揺れた。何かを思い出そうとするように、少女の視線が宙をさまよい、唇が音もなく動いた。


 窓。


 蓮は、息を殺してその顔を見ていた。


 フィールは、額に手を当てた。


「……なんだろう」


 小さな声だった。


「どこかで、聞いたことがある気がする。……窓、って」


 キネシスの肩が、わずかに強張った。


 サナトスが、静かにフィールを見つめていた。


「夢で見たのかもしれませんね」


 老人は、穏やかに言った。


「疲れておられる時には、よくあることです」


 フィールはしばらく額に手を当てたままだったが、やがて首を振った。


「……そうかもしれません。すみません」


 霧だ、と蓮は思った。エスクーダの後、フィールの中に残っていた、あの霧。消された記憶の輪郭だけが残った場所。窓という言葉が、その霧の中の何かに触れたのだ。


「悪魔は、触れ合いの中で生きている」


 キネシスは、説明を続けた。


「窓を開けた瞬間、悪魔もまた、貴族の加護が消えていることを知る。……窓は、両側から開く。長く開けていれば、窓を開けた貴族が殺される」


「だから、一瞬で」


 蓮が言葉を継いだ。


 キネシスが頷いた。


「私が触れ、窓が回るまでの数呼吸だけ開け、打たれる前に跳んで消える。その数呼吸の間に、お前たちの剣を届かせる。触れた所から開くのだから、私の手に近い所から突け。……瞬きの間だけ開く窓だ」


 フィールが、ゆっくりと顔を上げた。


 その目に、もう霧はなかった。


「……一瞬で、全員が、届く位置にいなきゃいけない」


「そうだ」


「どこから窓が開いても、二呼吸のうちに」


「そうだ」


 フィールは自分の手を見下ろし、拳を握った。


 蓮はその横顔を見ていた。丘の上の墓標の前で、次は倒す、と言った顔だった。忘れても、同じ顔をしている。


「……やります」


 フィールは言った。


「やらせてください。キネシス様」


 訓練が始まった。


 サナトスが空き地の真ん中に立ち、キネシスは少し離れた場所に立つ。特務班の六人がサナトスを囲むように散らばり、ミラは中庭の隅の石壁の上に登って、木の矢を番える。


 キネシスの目が、動く。


 消える。


 現れる。


 サナトスの背後。その肩に、手が触れる。


「――今!!」


 フィールの号令。


 走る。


 六人が、一斉に。


 だが。


「遅い」


 キネシスの手は、もう離れていた。


 青年の姿は、再び十歩先に現れていた。


 コン。コン。コン。


 木剣が、次々とサナトスの体の手前で弾かれた。窓は、閉じていた。


「一呼吸、遅い。……悪魔ならば、その一呼吸で、私の胸は砕かれている」


 特務班の全員が、肩で息をしていた。


「もう一度」


 キネシスが消える。


 現れる。


 触れる。


「今!!」


 走る。


 コン。コン。


 遅い。


「もう一度」


 消える。現れる。触れる。


「今!!」


 コン。コン。コン。ピシッ。


 一本だけ、当たった。


 ミラの木の矢だった。キネシスが現れるより先に、石壁の上からサナトスの肩口を狙って放たれていた。


「……なぜ、分かった」


 キネシスが石壁の上を見上げた。


 ミラは答えず、ただ無言で、キネシスの目元を指差した。


 キネシスの顔が強張った。跳ぶ前に、行き先を見る。あの悪魔がたった一度で見抜いたことを、この寡黙な弓兵も見抜いていた。


「……目か」


 キネシスは、苦々しげに呟いた。


「私の目が、行き先を教えている」


 蓮は、口を開きかけた。


 ――読ませればいい。


 北門で、自分がフィールにそう言ったことを、キネシスは覚えていない。だが、悪魔が先回りしてきた話をここですれば、なぜそれを知っているのかと、皆に問われる。


「キネシス様」


 蓮は言葉を選んだ。


「目が教えてしまうなら……それを、合図にしませんか」


 キネシスが振り返った。


「俺たちにだけ分かる合図に。……キネシス様が見た場所に、全員が先に走り込む。キネシス様が現れた時には、もう全員がそこにいる」


 キネシスはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと頷いた。


「……跳ぶ前に見るのを、弱点ではなく、号令にする」


「はい」


「悪魔にも読まれるぞ」


「読まれても」


 フィールが言った。


「悪魔が先回りするより、私たちの方が早ければいい」


 キネシスはフィールを見て、それから特務班の全員を見た。青年の口元が、わずかに緩んだ。


「……もう一度だ」


 空が白み始めていた。何度繰り返しただろう。


 キネシスの目が動く。六人が走る。キネシスが現れる。触れる。木剣が振り下ろされる。


 コン。コン。ピシッ。コン。


 ピシッ。ピシッ。コン。


 ピシッ。ピシッ。ピシッ。


 当たる数が少しずつ増えていった。サナトスの腕に、肩に、背中に、赤い痕が増えていった。


 老人は一度も痛いとは言わなかった。ただ、打たれるたびに小さく頷いていた。よろしい、と。もう一度、と。


 やがて。


 キネシスの目が動いた、その瞬間。


 六人が、一斉に走った。


 キネシスが現れた時には、もう全員が、サナトスを囲んでいた。


 手が、肩に触れる。


「今!!」


 ピシッ!!


 六本の木剣が。


 同時に。


 老人の体に、届いていた。


 キネシスの手は、次の瞬間には、もう離れていた。


 青年は十歩先に現れ、息を切らせて片膝をついた。


 特務班の全員が、木剣を振り下ろした姿勢のまま、固まっていた。


 静寂。


「……届いた」


 ロイが呟いた。


「全員……届いた」


 サナトスがゆっくりと膝をついた。


 蓮が駆け寄ろうとすると、老人は手を上げて制した。


「大丈夫です。……少し、足にきただけですよ」


 老人は白み始めた空を見上げて、深く息を吐いた。


「見事でした」


 その時だった。


 中庭の入り口で、何かが、落ちる音がした。


 カラン。


 全員が振り返った。


 入り口に、少女が立っていた。白い前掛け。袖に、血と薬の染み。足元に、薬草を入れた木桶が転がっていた。レミエルだった。


 少女は両手で口を覆い、膝をついた老人の腕を見ていた。木剣の痕が、幾筋も赤く浮かび上がった腕を。


「……サナトス、様」


 震える声だった。


「今……従士の方々が……サナトス様を……」


 誰も、何も言えなかった。


 レミエルの目から、涙がこぼれ落ちた。


「打って……打って、いた……?」


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