癒やし手の帳簿
白い女は、翌朝、サナトリアを去った。
詰所の中庭に、ゲートが漆黒の門を開いた。メンタルはその前で振り返り、見送りに並んだ貴族たちに、一人ひとり柔らかく頭を下げた。
タイタンは豪快に手を振り返した。テルモは腕を組んだまま、小さく顎を引いた。サナトスは、両手を胸の前で重ねたまま深く頭を下げた。キネシスは、一歩も前に出なかった。
「それでは、皆様。お元気で」
メンタルは、最後に中庭の端を見た。従士たちが並ぶ列の一番後ろ、蓮の立つ場所を。ほんの一瞬だった。
それから女は、門の闇の中へと消えていった。ゲートが肩をすくめ、いつもの笑みを浮かべたまま、その後に続いた。
門が、閉じた。中庭に残ったのは、門の跡のうっすらとした黒い染みだけだった。
今朝の夜明け、そこには白い羽根が落ちていた。今は、何もなかった。
その日の昼過ぎ、詰所の小部屋で、キネシスは机に向かっていた。
「サナトス殿に、全てを話す」
開口一番、青年はそう言った。
「帳面の写しを渡し、窓のこと、あの女のこと、ゲート殿のことを。……今夜にでも」
蓮は扉の前に立ったまま、少しだけ考えた。
「全部は、まだ早いと思います」
キネシスの眉が動いた。
「昨夜、お前は、サナトス殿を信じる価値があると言った」
「確かめる価値がある、と言いました」
蓮は、言葉を選んだ。
「サナトス様が、メンタル様の手を取らなかった。それは事実です。でも、なぜ取らなかったのかは、分かりません。本当に手が痛かったのかもしれない。ただ気が進まなかったのかもしれない。……それを確かめる前に全てを話して、もしサナトス様が、メンタル様の側の方だったら」
「……サナトス殿が?」
「分かりません」
蓮は、首を振った。
「メンタル様をこの街に通したのは、ゲート様の門でした。帳面を盗んだのが誰なのかも、分からない。……貴族の方々の中で、誰がどちらの側なのか、俺たちはまだ何も知らないんです。全部を話した相手が向こう側だったら、次に消されるのは、記憶だけでは済まないかもしれません」
キネシスの顔が強張った。蓮は続けた。
「だから、まず一つだけ、訊いてみるんです。答えによって、次に何を話すか決める。……一度に全部を賭けない」
キネシスはしばらく黙っていたが、やがて深く息を吐いた。
「……私はまた、急いでいたか」
「急ぐ理由は、分かります」
「分かられても困る」
青年は、苦笑した。それは、昨日までの彼にはなかった顔だった。
「何を訊く」
蓮は、少しだけ間を置いた。
「サナトス様が、昨日の戦いを、どう覚えているか」
その夜。サナトスの館の奥に、治療記録の保管室があった。
壁一面の棚に、分厚い帳簿が隙間なく並んでいた。革の背表紙には年号が刻まれていて、一冊が一年分。棚の端から端まで、そして天井近くまで、数えきれないほどの帳簿が埃一つなく整然と並べられていた。
燭台の灯りの中で、サナトスはその中の一冊を開いていた。
「キネシス殿」
老人は、帳簿から顔を上げずに言った。
「このような夜更けに。……何か、お忘れになりましたか」
蓮の心臓が跳ねた。隣で、キネシスの肩がわずかに揺れた。
――お忘れになりましたか。
ただの挨拶かもしれなかった。夜更けに訪ねてきた者への、何気ない一言。だが、その言葉の選び方が。
「……サナトス殿」
キネシスが、低く言った。
「一つ、お尋ねしたい。昨日の、北門での戦いを。……あの悪魔を、どのように退けたか、覚えておられるか」
サナトスはゆっくりと帳簿を閉じ、顔を上げた。燭台の炎が、老人の皺深い顔を柔らかく照らしていた。
「ええ」
サナトスは、静かに言った。
「覚えておりますよ」
老人は、自分の両手を燭台の灯りの中へ差し出した。魔石で癒やされた、今は傷一つない手。
「この手が、焼けた時のことを。……悪魔の手首を掴み、テルモ殿の炎の熱が、この手のひらに伝わってきた時のことを。キネシス殿が、悪魔ごと空へ跳ばれたことも。そこの若い方が、悪魔の手首を斬り落とされたことも」
サナトスの目が、蓮を見た。
「全て」
保管室が、静まり返った。蓮は、息をするのを忘れていた。
覚えている。この老人は、窓を覚えている。
「……なぜ」
キネシスの声が、かすれた。
「なぜ、あの女の手を」
「取らなかったか、ですか」
サナトスは、閉じた帳簿の表紙に、そっと手を置いた。
「これを、見ていただけますか」
老人は、棚の中ほどから一冊の帳簿を抜き出した。年号は、十二年前のものだった。
頁をめくる。治療の記録が、びっしりと並んでいた。日付。患者の名。傷病の種類。施した癒やし。一日に三行。三度の癒やしの、三人分。四百五十年、毎日欠かさずに。
サナトスの指が、ある頁で止まった。
「ここを」
蓮とキネシスは、帳簿を覗き込んだ。
日付の横に患者の名があり、その下に、こう書かれていた。
外壁警備隊の兵、七名。北の外壁にて、正体の分からぬ何かに襲われ、胸を砕かれて死す。癒やし及ばず。
蓮の背筋が、凍りついた。胸を砕かれて。国境の集落で見た、あの痣。北の丘で、トーレとネロが受けた、あの掌打。
「私の字です」
サナトスは、静かに言った。
「間違いなく、私が書いたものです。……ですが、私はこの日のことを、何一つ覚えておりません」
老人は、帳簿の頁をめくった。数日後の日付。そこには、もう何も書かれていなかった。北の外壁の兵のことも。正体の分からぬ何かのことも。ただ、いつもと同じ、三人分の治療の記録が、淡々と並んでいるだけだった。
「この数日後に、メンタル殿が、年に一度の巡回で、この国を訪れておられます」
燭台の炎が、揺れた。
「私がこのことに気づいたのは、ほんの数年前のことです。古い帳簿を整理しておりましたら、自分の字で、自分の覚えていないことが書かれている頁が、いくつも見つかった。……どれも、メンタル殿の巡回の、少し前の日付でした」
キネシスが、帳簿の頁を食い入るように見つめていた。
「そして、どの年にも」
サナトスは、言った。
「巡回の折、あの方は、私の手を取っておられた。……ご挨拶として。労いとして。いつも、両手で、長く」
老人は、自分の手のひらを見下ろした。
「四百五十年、人に触れてきた手です。触れる者の心が、少しは分かります。……あの方の手は、いつも、優しすぎた」
蓮は、昨日の広場を思い出していた。タイタンの大きな手を、両手で包み込んで長く握っていたメンタルを。
「ですから、この数年は、手を取らぬようにしてまいりました。痛むと言って。疲れていると言って。……昨日も、そうしただけのことです」
サナトスは、帳簿を閉じた。
「紙は、覚えております。私が忘れても」
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて、キネシスが胸の内側から帳面を取り出した。最初の写し。自分の字で、自分の忘れたことが書かれた帳面。それを、サナトスの前に置いた。
「……私も、同じです」
青年の声は、かすかに震えていた。
「私の字で、私の覚えていないことが、書かれている。……サナトス殿。あなたが覚えておられることを、私は、何一つ覚えていない」
サナトスは帳面を開き、ゆっくりと頁をめくっていった。
エスクーダの夜。北の丘。窓の仕組み。北門の戦い。
老人の指が、ある頁で止まった。
貴族サナトス、素手にて悪魔の手首を掴み、窓を開く。両手に重度の火傷。
老人の唇が、微かに動いた。
「……これを書いてくださったのは、あなたでしたか」
「覚えていません」
「そうでしょうね」
サナトスは、目を細めた。
「ですが、書いてくださった。……ありがとう、キネシス殿」
キネシスは何も言えず、唇を固く結んで頭を下げた。
蓮は、懐からもう一冊を取り出した。昨夜キネシスと二人で作った写しの一冊で、蓮の少し崩れた字で書かれていた。
「これを、サナトス様に預かっていただきたいんです」
サナトスが、蓮を見た。
「写しを、三か所に分けて置きます。キネシス様と、俺と、サナトス様と。一冊が失くなっても、残りが残るように。……サナトス様の帳簿と、同じです」
老人は、蓮の差し出した帳面を両手で受け取り、その表紙をしばらく撫でていた。
「……従士の方の字ですね」
「すみません、汚くて」
「いいえ」
サナトスは、微笑んだ。
「生きた字です」
夜が更け、燭台の蝋が半分ほどに減っていた。三人は保管室の小さな卓を囲んで、声を潜めて話し合った。何が消されたのか。誰が覚えているのか。これから、何をすべきなのか。
「窓を、もう一度教えなければならない」
キネシスが言った。
「特務班に。タイタン殿とテルモ殿に。……あの悪魔は、手を取り戻したら、また来ると言った。その時、窓を知る者がいなければ、この街は」
「ですが、忘れる前のことを話せば」
サナトスが、静かに言った。
「皆さんは、覚えていないことを聞かされて、混乱されるでしょう。……それが噂になれば、また、あの方がいらっしゃる」
キネシスの顔が曇った。
蓮は、卓の上の帳面を見つめていた。忘れる前のことは、話せない。だったら。
「……新しく、教えればいいんじゃないでしょうか」
二人の貴族が、蓮を見た。
「昨日のことは、話さない。エスクーダのことも、北の丘のことも。……ただ、新しい戦い方として。キネシス様が考えた、悪魔と戦うための、新しい方法として」
蓮は、言葉を探しながら続けた。
「前の職場で……新しい仕組みを入れる時、前の仕組みの悪口は言うな、と教わりました。前のやり方を否定されると、人は構える。でも、新しいやり方として出されると、案外、素直に受け入れる」
キネシスが、ゆっくりと頷いた。
「……窓を、忘れる前の記憶としてではなく、新しい知恵として」
「はい」
「だが」
キネシスは、眉を寄せた。
「どうやって教える。口で説明するだけでは、誰も信じまい。触れ合えば守りが消えるなど。……実際に、見せねば」
蓮は、口を閉じた。そこだった。窓を教えるには、見せるしかない。守りを持つ者に貴族が触れ、その間に剣が通ることを。
だが、ここに悪魔はいない。守りを持つのは、悪魔と、貴族だけだ。
保管室が、静まり返った。燭台の炎が揺れた。
やがて、サナトスが静かに口を開いた。
「私を、使いなさい」
蓮とキネシスは、同時に顔を上げた。
老人は、いつもと同じ穏やかな顔で微笑んでいた。
「キネシス殿が、私に触れる。窓が開く。……その間に、特務班の皆さんが、私を突けばよろしい」
「サナトス殿、それは――」
キネシスが、身を乗り出した。
「突かれるなら、私が。私の方が若い。体も――」
「キネシス殿」
サナトスが、穏やかに遮った。
「戦場で窓を開けるのは、どなたです」
キネシスが、口を閉じた。
「あなたです。触れて、窓を開け、打たれる前に跳ぶ。……それは、触れる側で何度も稽古をせねば、身につきません。突かれる側に立っていては、いつまで経っても覚えられない」
老人は、自分の胸に、そっと手を当てた。
「私は、戦場には立てません。ならば、せめて的くらいには、なりましょう」
キネシスは、何も言い返せなかった。
「木の剣で結構です。少しばかり痣ができる程度でしょう」
老人は、自分の手のひらを見下ろした。
「四百五十年、傷を癒やしてきた身です。……一度くらい、傷を受ける側に回っても、罰は当たりますまい」
キネシスは言葉を失っていた。蓮も、同じだった。
従士が、貴族を突く。それは、この世界で決して知られてはならないことだった。貴族の殺し方そのものだった。だが、それを知らなければ、次に悪魔が来た時、誰も生き残れない。
サナトスは二人を見つめて、静かに言った。
「私を、突きなさい」
燭台の炎が、老人の目の中で、小さく揺れていた。
「それで、この街の誰かが、次の夜を越えられるのなら」




