先代の背中
キネシスは、長い間動かなかった。燭台の炎だけが揺れていた。
やがて青年の指が、頁をめくった。一枚、また一枚。
エスクーダの夜。国境の集落。北の丘。アスモデウスの言葉。窓の仕組み。サナトリア北門の戦い。タイタンの窓。テルモの枷。サナトスの素手の窓。
そして、キネシス自身の瞬きの窓。悪魔ごと、空へ跳んだこと。
頁をめくる指が、次第に速くなっていった。速くなって、止まって、また戻って。同じ行を、何度も目で追っていた。
蓮は扉の前に立ったまま、何も言わなかった。言えることは、何もなかった。
最後の頁で、キネシスの指が止まった。
そこには、他の頁よりも少しだけ乱れた字で、短い文が書かれていた。
この写しを蓮に託す。
もし私が、これを読んで何一つ覚えていなかったなら。
書いた私を、信じよ。
蓮を、信じよ。
キネシスは、その文を声に出さずに読んだ。唇が、わずかに動いていた。
やがて青年は帳面を閉じ、両手をその表紙の上に置いた。昨夜、魔石で癒えたばかりの手。今日、白い女を受け止めた手。
「……私は」
声が、かすれていた。
「私は、覚えていない」
蓮は、黙って頷いた。
「何一つ。空へ跳んだことも。悪魔の足に、しがみついたことも。……この手が焼けたのは、魔物と戦ったからだと、思っていた」
キネシスは、自分の手を見下ろした。
「だが、字は、私の字だ。この癖も。この言い回しも。……私以外の誰にも、書けない」
燭台の炎が、ぱちりと爆ぜた。
「書いた私を、信じよ、か」
青年は、小さく息を漏らした。笑ったのかもしれなかった。
「自分に、命令されるとはな」
しばらく、どちらも口を開かなかった。やがて、キネシスが立ち上がった。
「ゲート殿に、門を開いてもらう」
蓮は、顔を上げた。
「王城へ行く。王に、直接申し上げる。悪魔を倒す方法を、民からも貴族からも消し去っている者たちがいると。……帳面が盗まれ、記憶を塗り替えられたと。王ならば、あの女の力にも――」
「待ってください」
考えるより先に、蓮は言っていた。
キネシスが、眉を寄せた。
「何だ」
「王城へは、門でしか行けないんですよね」
「そうだ。王城を囲む結界の内側へ通じるのは、門だけだ」
「その門を開けるのは、ゲート様だけ」
「……そうだ」
「帳面が消えたのは、集会の間です。キネシス様が広場の端に立っていて、メンタル様が、キネシス様の腕の中に倒れ込んでいた間。……その時、ゲート様はどこにいましたか」
キネシスの口が、開いたまま、止まった。
蓮は続けた。喉が渇いていた。それでも、言わなければならなかった。
「メンタル様をサナトリアへ連れてきたのは、ゲート様の門です。昨日の朝、ゲート様は所用で自国へ戻っていた。夕刻に戻ってきて、門を開いた。……その門から、最後に出てきたのが、メンタル様でした」
燭台の炎が、揺れた。
「報告先が」
蓮は、言葉を選んだ。
「報告を届ける道そのものが、隠している側の手の中にあるかもしれません」
沈黙が落ちた。キネシスは立ち上がったまま、動かなかった。その顔から、少しずつ血の気が引いていくのが分かった。
「……私は」
青年の声が、かすかに震えた。
「今、何をしようとした」
蓮は、答えなかった。
「盗人に、盗まれたと訴えに行こうとした。その盗人の門をくぐって。……写しまで、持って」
キネシスは椅子に座り込み、両手で顔を覆った。
「先代なら」
指の隙間から、声が漏れた。
「先代なら、こんな間抜けはしなかった」
蓮は、机の前の椅子を引いて腰を下ろした。貴族の前で、許しもなく座る。従士がしていいことではなかった。それでも、座った。キネシスは、何も言わなかった。
「俺は」
蓮は、机の上の帳面を見つめながら、言った。
「ここに来る前、ある商会で働いていました。……帳簿を付けたり、書類をまとめたり、上の人と下の人の間を取り持ったり。そういう仕事です」
嘘ではなかった。ここではない世界の、小さな会社の話だった。
「そこで教わったことが、いくつかあります。大事な記録は、一冊にしない。必ず写しを作って、別々の場所に置く。一つが失くなっても、他が残るように」
キネシスが、顔を覆った手の隙間から、蓮を見た。
「キネシス様は、それをもうやっていました。昨夜。この写しを作って、俺に預けた。……だから、今、ここに記録が残っているんです」
「……それは、私ではない。忘れる前の私だ」
「同じ人です」
蓮は、言った。
「字が、同じなんでしょう」
キネシスは、答えなかった。
「もう一つ、教わったことがあります」
蓮は、指を一本立てた。
「悪い報せを上に持っていく時は、まず、その道筋を確かめる。誰に、どの順番で、どうやって届けるのか。……届けた先が、その悪い報せの張本人だったら、報せた方が潰されますから」
キネシスの肩が、小さく揺れた。
「それから」
蓮は、指をもう一本立てた。
「一人で抱えない。信じられる人を、一人ずつ、増やしていく。……いきなり全員には話さない。一人。確かめて、また一人」
燭台の炎が、二人の間で、静かに揺れていた。
「……誰を、信じる」
キネシスが、低く訊いた。
「サナトス様」
蓮は、即座に答えた。
「今日、メンタル様が手を差し出した時、サナトス様だけは、手を取りませんでした。魔石で癒えたはずの手を、まだ痛むと言って。……知っていて避けたのか、ただの偶然なのか、分かりません。でも、確かめる価値はあると思います」
キネシスは、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと顔から手を離した。
「……お前は」
青年は、蓮を見た。燭台の炎を映したその目は、もう冷たくはなかった。
「従士にしておくには、惜しい男だな」
「従士でいいです」
蓮は、首を振った。
「従士なら、目立ちませんから」
キネシスは一瞬目を見開き、それから、本当に小さく笑った。
「……先代にも、同じことを言われた。目立つな、と。移動の者は、影のように動けと」
夜が、更けていった。
二人は机を挟んで、写しをさらに二冊作った。キネシスが読み上げ、蓮が書き写す。蓮の字はキネシスほど几帳面ではなかったが、一字一句、間違えないように書いた。
一冊は、蓮が持つ。一冊は、確かめた上でサナトスに託す。そして、最初の写しは。
「私が持つ」
キネシスが言った。
「誰の手も届かぬ場所に、置いておく。……忘れても、読めばいい。読めば、書いた私を信じられる」
青年は、帳面を胸の内側にしまった。誰の手も届かぬ場所がどこなのか、キネシスは言わなかった。蓮も、訊かなかった。
窓の外で、東の空が白み始めていた。書き終えた蓮がペンを置いた時、キネシスが東の空を見たまま、ぽつりと言った。
「私は、四百年以上、遅れて生まれた」
蓮は、顔を上げた。
「他の貴族の方々は、皆、何百年もスキルを持って生きてこられた。タイタン殿も、テルモ殿も、サナトス殿も。……私は、まだ、ひと月にもならない」
青年の横顔は、夜明けの光の中で、ひどく若く見えた。
「先代は、私に全てを教えてくださった。移動の貴族としての務めを。悪魔を追う任の意味を。領地の民のことを。……それなのに私は、その先代の帳面を、盗まれた。先代の仇かもしれない者を、この腕で受け止めた」
キネシスは、目を閉じた。
「先代に、恥じぬ働きをしなければならない。移動の貴族として、精一杯。……そう思えば思うほど、足りないものばかりが、見えてくる」
蓮は、すぐには何も言わなかった。言うべき言葉を探して、それからゆっくりと口を開いた。
「俺が前にいた商会にも、新しく上に立った人がいました」
キネシスが、目を開けた。
「前の人が、すごく優秀な人で。皆が、前の人と比べました。新しい人は、毎日遅くまで残って、一人で全部やろうとして。……倒れました」
「……それで」
「戻ってきた時、その人は、下の者に仕事を振るようになりました。分からないことは、分からないと言うようになりました。……前の人とは、違うやり方で。でも、皆、前より、その人のことを好きになりました」
蓮は、窓の外の、白んでいく空を見た。
「ムーヴ様と同じになる必要は、ないと思います。キネシス様は、キネシス様のやり方で」
長い沈黙があった。
「……振る、か」
キネシスは、呟いた。
「ならば、振ろう」
青年は、蓮を見た。
「お前に。……私の、目となれ。耳となれ。私が見落とすものを、見ろ」
蓮は立ち上がり、右の拳を左の胸に当てた。従士が、仕える貴族に捧げる礼だった。そして、深く頭を下げた。
「はい」
蓮は写しを胸に縛りつけて、小部屋を出た。廊下の窓から、夜明けの光が差し込む中庭が見えた。その隅に、漆黒の門の跡がうっすらと残っていた。
その前に、白い何かが落ちていた。
蓮は足を止め、目を凝らした。
羽根だった。一枚の、白い羽根。
鳥の羽根ではなかった。大きすぎた。人の腕ほどもある、純白の羽根。夜明けの光を受けて、それ自体が、内側から淡く輝いているように見えた。
風が吹いた。羽根はふわりと舞い上がり、中庭の上空へと昇っていった。蓮は、その行方を目で追った。
白い羽根は、夜明けの空のずっと高いところへ。
東の空の、まだ星の残る、その一点へ。
そこに。
一瞬だけ。
光が、瞬いた気がした。
星ではない。
太陽でもない。
もっと白い、何かが。
こちらを、見下ろしているような。




