差し出された手
白い女の微笑みは、一瞬だった。
メンタルはすぐに視線を外し、何事もなかったかのように、穏やかに、慈しむように、広場全体へと目を戻した。
蓮は、動かなかった。
心臓だけが、胸の内側で暴れていた。帳面を縛りつけた紐が、鼓動に合わせて肋骨に食い込む。
見られた。だが、何を見られたのか。分からない。分からないまま、蓮は周りの人々と同じように、ぼんやりと壇の上を見上げ続けた。
「――どうか、安らかに」
メンタルが、両手を胸の前で組んだ。
「亡くなった方々の魂が、安らかでありますように。……そして、この街を守ってくださった、勇敢な貴族様方に、感謝を」
広場が、拍手に包まれた。
隣で、フィールが手を叩いていた。ロイも、ミラも、ヴァイスも、ユーリもリアムも。皆、穏やかな顔をしていた。昨夜まであの顔に刻まれていたはずの疲労や、恐怖や、決意が、すっかり洗い流されたように。
蓮も、手を叩いた。手のひらが、痛かった。
集会が終わっても、人々はすぐには散らなかった。
あちこちで輪ができ、互いの無事を喜び合い、昨日のことを語り合っていた。蓮は耳を澄ませた。この人たちが今、何を覚えているのかを、知らなければならなかった。
「テルモ様の炎は、凄かったなあ……荒野が、一面、火の海になって」
「悪魔の腕を、焼き落としたんだろう? 俺は城壁の上から見てたよ」
「タイタン様が、悪魔を殴り飛ばして、空の彼方まで吹っ飛ばしたって」
「サナトス様は、傷ついた従士を、次から次へと癒やしてくださって……」
「従士たちも、よくやったよ。貴族様の盾になって……」
蓮は、奥歯を噛みしめた。貴族の力で、悪魔を追い払った。従士は、盾になった。窓は、どこにもなかった。
タイタンが悪魔を抱きすくめたことも。テルモが自分の腕を枷にしたことも。サナトスが焼けていく手で悪魔の手首を掴み続けたことも。キネシスが悪魔ごと空へ跳んだことも。特務班の剣が、悪魔の胸に届いたことも。
全てが、「貴族様の力」というたった一言に、塗り潰されていた。
「ねえ、蓮」
フィールが、蓮の袖を引いた。
「オルトたちのお墓に、花を持っていこうと思うの。一緒に来てくれる?」
「……ああ」
蓮は頷いた。それから、訊かずにはいられなかった。
「フィール。昨夜、屋上で言ってたこと」
「屋上?」
フィールは、首を傾げた。
「訓練のこと。……次に悪魔が来た時の」
「訓練?」
少女は、不思議そうに蓮を見た。
「何の訓練? 私、そんなこと言ったっけ」
蓮は、何も答えられなかった。
フィールは、少しだけ眉を寄せた。
「……ああ、でも、そうね。次に悪魔が来たら、私たちはまた、貴族様の盾になるしかないもの。盾として、少しでも長く立っていられるように、鍛えておかなきゃね」
盾。
――悪魔の指一本、貴族様に触れさせるな。盾となれ。
ギードの声が、耳の奥で鳴った。
――今度は、誰も死なせない号令を、かけてみせる。
丘の上でそう言った少女は。月明かりの下で、次は倒す、と言った少女は。もう、どこにもいなかった。
「……そうだな」
蓮は、そう答えた。声が震えないようにするだけで、精一杯だった。
壇の下で、メンタルが、貴族たちの前に立っていた。
「タイタン様。ご無事で、本当によかった」
女が手を差し出した。
タイタンは、豪快に笑って、その手を握り返した。
「おう! 心配かけたな! なあに、悪魔の一匹や二匹、オレの拳でぶっ飛ばしてやったぜ!」
握手は、長かった。
メンタルは、両手でタイタンの大きな手を包み込んでいた。穏やかに微笑みながら、何かを囁くように、唇がわずかに動いていた。
タイタンの目が、一瞬だけ、宙を泳いだ。
それから、また豪快に笑った。
「いやあ、しかし昨日は疲れた! 最後まで離さなかった……いや、殴り飛ばした感触が、まだ拳に残ってやがる!」
蓮の背中を、冷たい汗が流れた。離さなかった、と言いかけたのだ。タイタンの体のどこかに、まだあの感触が残っている。それでも言葉は、塗り替えられた記憶の方へと流されていった。
「テルモ様も」
メンタルは、テルモの前に移った。
テルモは腕を組んだまま、女を見下ろしていた。手を差し出そうとはしなかった。メンタルは気にした様子もなく、テルモの組んだ腕にそっと指先を添えた。
「その腕で、悪魔を焼いてくださったのね」
指先が、袖の上から、テルモの手首に触れた。
そのまま、離れなかった。
一呼吸。
二呼吸。
テルモの眉が、わずかに動いた。それから、何事もなかったかのように腕を組み直した。
「……当然のことをしたまでだ」
「サナトス様」
メンタルは、老人の前に立って手を差し出した。サナトスはその手を見て、それからゆっくりと、深く頭を下げた。自分の両手は、胸の前で重ねたまま。
「お気遣い、痛み入ります、メンタル殿。……この手は、まだ、少し痛みますので」
昨夜、キネシスの魔石で癒やされた手だった。まだ癒えきってはいない。それでも、握手一つできないほどではないはずだった。
メンタルの手が、宙でほんの一瞬止まった。それから女は、柔らかく微笑んで手を引いた。
「まあ。お大事になさってね」
サナトスは、頭を下げたまま動かなかった。蓮には、老人の表情が見えなかった。知っているのか。それとも、ただ本当に手を差し出したくなかっただけなのか。分からなかった。
メンタルは、広場の端へと歩いていった。そこに、キネシスが一人で立っていた。壇から、最も遠い場所に。
蓮は、息を止めた。
キネシスは、近づいてくる女を冷たい目で見ていた。一歩、後ろへ下がった。メンタルは、構わず歩みを進めた。
「キネシス様。先代様がお亡くなりになって、まだ日も浅いのに、本当に、よく頑張っていらっしゃるわ」
「お気遣いは無用だ」
キネシスは、もう一歩下がった。
その背中が、広場の端の石壁に、触れた。
逃げ場が、なかった。
いや。
ある。
キネシスには、「移動」がある。視界の内のどこへでも、一瞬で跳べる。跳べばいい。だが、衆人環視の中で、貴族が別の貴族から跳んで逃げる。それが何を意味するか。あの女に、何を教えることになるか。
キネシスの目が、ほんの一瞬、迷った。
その一瞬に。
メンタルが、つまずいた。
「あ――」
白い衣装の裾が、石畳の段差に引っかかっていた。女の体が、前のめりに傾く。キネシスの方へ。
石畳へ。
倒れる。
キネシスの手が、動いていた。
考えるより先に。
倒れかかる女の体を、両腕で、受け止めていた。
触れた。
蓮の喉から、声にならない声が漏れた。
メンタルは、キネシスの腕の中で、すぐには体を起こさなかった。
一呼吸。
二呼吸。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
その唇が、青年の耳元に寄せられた。
「――ありがとう」
囁くように。
「お優しいのね。先代様に、よく似ていらっしゃる」
キネシスの目が。
宙を、泳いだ。
ほんの一瞬。
瞬きよりも、短い間。
メンタルは青年の腕の中からするりと抜け出し、裾を払って、柔らかく頭を下げた。
「失礼いたしました。慣れない石畳で」
キネシスは何も言わず、自分の両手を見下ろしていた。何かを思い出そうとするように。あるいは、何かを忘れたことに気づこうとするように。
やがて、青年は顔を上げた。その目は、いつも通り冷たかった。
「……気をつけられよ」
それだけ言って、キネシスは広場を去っていった。一度も、振り返らずに。
「蓮? どこ行くの?」
フィールの声を背中に聞きながら、蓮は人混みを抜けようとしていた。
キネシスを追わなければ。確かめなければ。
その時。
「あなた」
すぐ後ろから、声がした。
蓮の足が、止まった。
振り返った。
白い衣装の女が、そこに立っていた。
いつの間に。
さっきまで、広場の反対側にいたはずなのに。
「エスクーダにも、いたわね」
メンタルは、微笑んでいた。
「ムーヴ様の館の中庭で。……覚えているわ。一番後ろの列の、右から三番目。黒い髪の、新入りの従士さん」
蓮の全身の血が、引いていった。
覚えている。この女は、あの日の集会の、一人ひとりの顔を。
「昨日は、どんなふうに戦ったの?」
メンタルは、子どもに今日の出来事を尋ねるように首を傾げた。
蓮は口を開きながら、さっき広場で聞いた言葉を、必死に頭の中で並べ直した。
「……北門の前で、魔物と戦いました。テルモ様の炎と、タイタン様の拳が、悪魔を追い払って……俺たちは、貴族様の盾に」
「そう」
メンタルは、頷いた。
「悪魔の腕を焼き落としたのは、どなただったかしら」
「テルモ様です」
「右の腕?」
蓮の舌が、凍りついた。
右。
左。
テルモが焼いたのは、左腕だ。右手首は、蓮が斬り落とした。
だが、塗り替えられた記憶の中では。
どちらだ。
広場の誰かが言っていた。悪魔の腕を焼き落とした、と。右とも、左とも、言っていなかった。
「……両方、だったと思います」
蓮は、言った。
「よく、見えなかったので。必死で」
メンタルは、しばらく蓮を見つめていた。その目は穏やかで、底が見えなかった。
「そうね」
やがて、女は微笑んだ。
「必死だったものね。……皆さん、そう」
白い手が、伸びてきた。
蓮の頬に、そっと触れた。
冷たい指だった。
「あなたの目、とても澄んでいるわ」
メンタルは、囁いた。
「何も、濁っていない。……不思議ね」
指が、離れた。
女は裾を翻して、人混みの中へと歩み去っていった。一度だけ、振り返った。
「また、会いましょうね」
その微笑みが人波の向こうに消えるまで、蓮は一歩も動けなかった。
胸の内側で、帳面が、心臓の鼓動に合わせてかすかに揺れていた。
その夜、蓮は、詰所の廊下の奥の小部屋の扉を叩いた。
「入れ」
キネシスの声だった。
燭台が一つだけ灯った部屋で、青年は机に向かい、紙の束に何かを書きつけていた。机の端の、いつもあの帳面が置かれていた場所は、空いていた。
「何だ」
顔も上げずに言った。
蓮は扉を閉めた。喉が、渇いていた。
「キネシス様。……一つ、お訊きしてもよろしいでしょうか」
「手短に」
「窓、という言葉を、覚えていらっしゃいますか」
ペンが、止まった。
キネシスが、顔を上げた。
その目が、燭台の炎を映して、蓮を見た。
「窓?」
青年は、眉を寄せた。
「何の話だ」
それから、苛立たしげに机の端の空いた場所を指で叩いた。
「……それより、私の帳面を見なかったか。集会から戻ったら、どこにも見当たらん。置き忘れた覚えもないのだが」
蓮の背筋が、凍りついた。
帳面が、消えている。
あの集会の間に。
キネシスが広場の端に立ち、白い女がその腕の中に倒れ込んでいた、あの間に。
誰かが。
蓮は、ほんの一瞬だけ目を閉じた。それから目を開け、上着の紐を解いた。胸に縛りつけていた帳面の写しを取り出し、机の上にそっと置いた。
「読んでください」
蓮は、言った。
「あなたが、書いたものです」
キネシスは、帳面を見下ろした。表紙に見覚えのない帳面だった。青年は眉を寄せたまま、それを開いた。
一頁目。
几帳面な、小さな字。
燭台の炎が、揺れた。
キネシスの指が。
頁の上で。
止まった。
それは、紛れもなく。
彼自身の、字だった。




