↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
42/171

忘れない者

 広場から、音が消えていた。


 さっきまで勝鬨を上げていた兵士たちが、口を閉ざしていた。城壁の上の警備隊も、街の奥から顔を出した民たちも、誰もが白い衣装の女を見つめていた。


 メンタルは、その視線の中をゆっくりと歩いた。寝台の残骸を避けて。焼け焦げたデザートスコーピオンの死骸を避けて。散らばった矢や折れた槍の穂先を、裾で払うようにして。花畑を歩くように。


「ひどい有様ね」


 穏やかな声だった。


「怖かったでしょう。……本当に、よく頑張ったわ。皆さん」


 その声に、城壁の上で誰かがすすり泣きを漏らした。


 蓮には、その声の意味が分かった。労われたのだ。この白い女に、優しく、柔らかく。命がけで戦った夜の終わりに、その言葉はあまりにも心地よく響いた。


 だからこそ、恐ろしかった。


「メンタル殿」


 キネシスが、女の前に立ちはだかった。焼けた両手に包帯を巻いたまま。その声は、夜の空気よりも冷たかった。


「何をしに来た」


「あら、キネシス様。先代様のこと、改めてお悔やみを」


 メンタルは、小さく頭を下げた。


「サナトス様からの使者の報せを、ゲート様から伺いましたの。悪魔が現れた、と。……私のお役目は、民の心を安らかに保つことですもの。恐ろしい夜を越えた人々の心を、癒やして差し上げたくて」


「癒やしなら、サナトス殿がいる」


「サナトス様が癒やせるのは、体でしょう?」


 メンタルは、微笑んだ。


「私が癒やすのは、心ですわ」


 蓮の背筋を、冷たいものが這い上がった。


 心を癒やす。恐ろしいものを見た記憶を。知ってはならないことを、知ってしまった記憶を。


 メンタルは広場を見回し、よく通る声で言った。


「明日の昼、街の中央広場で、集会を開きます。亡くなった方々を弔い、戦った方々を労い、貴族様方に感謝を捧げるための集会を。……皆さん、どうか一人残らず、お集まりになってね」


 一人残らず。


 蓮は、拳を握りしめた。エスクーダの時と、同じだ。ムーヴの館の中庭で、集会の壇上で、この女はこうして微笑んでいた。そして壇の下に集まった全員の記憶を、あの夜の真実を、跡形もなく塗り替えた。イライザの剣が悪魔に通ったことも。窓が開いていたことも。全て。


「……勝手な真似を」


 キネシスが、低く言った。


「勝手だなんて」


 メンタルは、首を傾げた。


「これは、私の国のお役目ですのよ。年に一度、全ての国を巡って、民の心を整える。……回復の国にも、毎年伺っておりますわ。ねえ、サナトス様」


 城壁の上で、担架の傍らに座り込んでいたサナトスが、ゆっくりと顔を上げた。


 老人は何も言わなかった。ただ、焼けた両手を胸に抱えたまま、白い女を見下ろしていた。その目の奥に何があるのか、蓮には読めなかった。






 夜が更けた。


 ギードの部隊が持ち込んだ回復の魔石で、負傷者たちの手当てが始まっていた。


 サナトスの館の大広間で、キネシスが、包帯を解いた焼けた手で魔石を握り、タイタンの肩に触れていた。貴族同士は、触れ合わなければ癒やしが届かない。キネシスの手のひらが魔石の光に照らされ、その焼けた皮膚もまた、少しずつ癒えていくのが見えた。


 次に、テルモに。最後に、サナトスの両手に。


 老人の手を包む布が解かれ、焼け爛れた手のひらが露わになった時、傍らのレミエルが息を呑んだ。キネシスが魔石を握ったまま、その手に自分の手を重ねた。淡い光が、二人の手を包み込んだ。赤黒く焼けた皮膚が、ゆっくりと元の色を取り戻していく。


「……ありがとう、キネシス殿」


「礼には及ばない」


 キネシスは、それだけ言った。その目は、サナトスの手ではなく、大広間の入り口を見ていた。


 そこに、白い衣装の女が、壁にもたれるようにして立っていた。何も言わずに、ただ微笑みながら。貴族たちが触れ合う様子を、じっと見つめていた。






 蓮は、眠れなかった。


 詰所の屋上に出ると、夜風が頬を撫でた。先客がいた。フィールだった。胸壁に腰掛けて、北の荒野を見下ろしていた。焼け焦げたサンドワームの巨体が、月明かりの中に、黒い丘のように横たわっていた。


「眠れないの?」


「……フィールも」


「うん」


 蓮は、フィールの隣に腰を下ろした。しばらく、二人とも黙っていた。


「ねえ、蓮」


 やがて、フィールが口を開いた。


「私ね、ずっと考えてたの。次に悪魔が来たら、どうするか」


 蓮は、フィールの横顔を見た。


「窓は、開く。確かに開くの。昨日、それが分かった。でも、開けるたびに、貴族様が死にかける。……だったら、もっと短く開けて、もっと速く突けばいい。一瞬で。瞬きの間に」


 フィールの目が、月明かりの中で光っていた。


「キネシス様の窓は、一瞬だった。あれをもっと、磨けばいいの。特務班全員が、どこから窓が開いても、一呼吸で突ける位置に立てるように。……そういう訓練を、しようと思って」


 少女は、胸壁の上で膝を抱えた。


「次は、倒す。倒せる方法が、やっと見つかったんだもの」


 蓮は、何も言えなかった。言えるはずがなかった。


 明日の昼、この少女はそれを忘れる。窓があることも。窓の開き方も。今夜、月明かりの下で考えた、この訓練のことも。全て。エスクーダの夜を忘れたように。国境の集落で、蓮が悪魔に傷を負わせたあの夜を、忘れたように。


「……蓮?」


 フィールが、こちらを見ていた。


「どうしたの。顔色、悪いわよ」


「……何でもない」


 蓮は、目を逸らした。


「いい考えだと思う。……本当に」


 フィールはしばらく蓮を見つめていたが、やがて、ふっと笑った。


「変なの」


 少女は胸壁から降りた。


「明日の集会、一緒に行こうね。……オルトたちのこと、ちゃんと弔ってあげたいから」


 階段を降りていくフィールの背中を、蓮は見送った。


 ――一緒に行こうね。


 その言葉が、棘のように胸の奥に刺さったまま、抜けなかった。






 夜半を過ぎた頃、詰所の廊下で、蓮は呼び止められた。


「来い」


 キネシスだった。青年はそれだけ言って、廊下の奥の小部屋へと入っていった。蓮は、後に続いた。


 小部屋には、燭台が一つだけ灯っていた。机の上に、帳面が二冊並べられていた。一冊は、蓮も見覚えのあるキネシスの帳面。もう一冊は、真新しい帳面だった。


 キネシスは、その真新しい方を蓮の前へ滑らせた。


「写しだ」


 蓮は帳面を手に取り、開いた。几帳面な小さな字が、びっしりと並んでいた。


 エスクーダの夜。国境の集落。北の丘。アスモデウスの言葉。窓の仕組み。触れ合えば、加護も魔殻も消えること。その間は、従士の剣でも悪魔に通ること。そして、貴族の体にも通ること。


 サナトリア北門の戦い。タイタンの窓。テルモの枷。キネシス自身の、瞬きの窓。サナトスの素手の窓。


 全てが、書かれていた。インクがまだ乾ききっていない頁もあった。


「……これを、今夜?」


「魔石で手が治ったからな」


 キネシスは、癒えたばかりの自分の手を見下ろした。


「治ったなら、書ける」


 蓮は、帳面から顔を上げた。


「なぜ、俺に」


 キネシスは、しばらく答えなかった。燭台の炎が揺れていた。


「明日、あの女は私にも触れようとするだろう」


 青年は、静かに言った。


「貴族には、触れなければ洗脳は効かん。……あの女は今夜、大広間で、私たちが魔石を使うのを見ていた。誰が誰に触れるのか。どう触れるのか。ずっと、見ていた」


 蓮は、あの白い微笑みを思い出した。壁にもたれて、じっと見つめていた、あの目を。


「避けられるかは、分からん。あの女の挨拶は、いつも長い。両手で包み込むような握手だ。……先代は、あの手を、いつも指先だけで払っていた。私には、まだあの真似ができるかどうか」


 キネシスは、自分の帳面に目を落とした。


「私の帳面は、私の手元にある限り、私が忘れれば意味をなさない。忘れた私は、その帳面を、ただの妄言の束だと思うかもしれん。……だから、もう一冊。私の手の届かぬところに」


「でも、俺だって、明日の集会で――」


「そうだな」


 キネシスは、蓮の言葉を遮った。その目が、燭台の炎を映して、じっと蓮を見つめていた。


「お前は、エスクーダの悪魔が自爆したと言った」


 蓮の喉が、凍りついた。


「エスクーダの生還者は皆、あの夜のことを、同じように覚えている。貴族三人が悪魔を討ち、貴族付き従士が盾となって散った、と。……自爆という言葉を口にした者は、一人もいない。私の帳面以外には」


 燭台の炎が、ぱちりと爆ぜた。


「お前だけだ」


 蓮は、何も言えなかった。否定しなければ。混乱していた、と。昨夜と同じように。だが、声が出なかった。


 キネシスはそれ以上何も訊かず、帳面をもう一度、蓮の方へ押しやった。


「理由は訊かん。訊けば、お前は答えねばならなくなる。……答えたことを、明日、私が忘れるかもしれん」


 青年の声は、静かだった。


「ただ、お前は」


 少しだけ、間があった。


「忘れない気がする」


 蓮は、帳面を胸に抱いた。重かった。紙の重さではなかった。


「もし明日の集会の後、私が窓のことを忘れていたら」


 キネシスは、燭台に手を伸ばした。


「これを、私に読ませろ。……紙は、洗脳されない」


 炎が、消えた。


 闇の中で、蓮は、ただ一言だけ答えた。


「……はい」






 翌日の昼、鐘がサナトリアの空に響き渡った。


 街の中央広場は、人で埋め尽くされていた。民がいた。寝台から起き上がれる者は、家族に支えられて。警備隊がいた。ギードの部隊がいた。特務班がいた。


 広場の中央に、白い布をかけた壇が設けられていた。その上に、白い衣装の女が立っていた。


 蓮は、人混みの中にいた。隣にフィール。反対側に、ロイとミラ。後ろに、ヴァイスとユーリとリアム。


 胸の内側、上着の下に、キネシスの帳面の写しが紐で縛りつけてあった。心臓の音が、うるさかった。


 壇の脇に、貴族たちが並んでいた。サナトス。その隣にレミエル。癒えたばかりの肩を回すタイタン。腕を組んだテルモ。ゲートは壇のすぐ下で、いつもの笑みを浮かべていた。


 キネシスは、壇から最も遠い場所に、一人で立っていた。


 メンタルが、両手を広げた。


「皆さん」


 澄んだ声が、広場の隅々まで響き渡った。


「昨日は、本当に、恐ろしい日でしたね」


 民の間から、すすり泣きが漏れた。


「悪魔が現れ、魔物の群れが押し寄せ、たくさんの方が傷つき、そして、尊い命が失われました」


 メンタルは、目を伏せた。


「けれど、もう大丈夫。貴族様方が、この街を守ってくださいました。……恐ろしい記憶は、ここに、置いていきましょう」


 女の瞳が、ゆっくりと開かれた。


 蓮は、その目を知っていた。エスクーダの後の、あの集会で、壇の上から全員を見渡したあの目を。


 広場の空気が、変わった。


 蓮の周りの人々の目から、何かが、すうっと、抜けていくのが分かった。


 フィールの目から。


 ロイの目から。


 ミラの目から。


 昨夜、月明かりの下で光っていた、あの決意の色が。


 窓の記憶が。


 静かに、白く、塗り潰されていく。


 蓮は、動かなかった。


 動けば、ばれる。


 皆と同じように、ぼんやりと壇の上を見上げていなければならない。


 胸の内側で、帳面が、心臓の鼓動に合わせてかすかに揺れていた。


 壇の上で、メンタルがゆっくりと広場を見渡していた。


 一人ひとりの顔を。


 確かめるように。


 その目が。


 人混みの中の、一点で。


 止まった。


 蓮の上で。


 白い女は、ほんの少しだけ首を傾げた。


 そして。


 微笑んだ。


 まるで、古い知り合いを見つけたように。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。