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砂の落ちきる時

 サンドワームが、動いた。


 巨大な口が、夜空から北門へ向かって、振り下ろされてくる。


 遅い。


 そう見えた。


 あまりにも大きすぎて、遅く見えたのだ。


 違う。


 遅いのではない。


 二百歩の距離が、ただの一息で、消えていた。


「――伏せろおおおおおおおッ!!」


 フィールの叫びと同時に、蓮は地面に身を投げていた。


 ゴシャアアアアアアアアアアアアアアッ!!


 頭上を、夜が通り過ぎた。


 いや、夜ではない。口だった。牙の渦だった。寝台の壁の、上半分が、消えていた。積み上げられた木の寝台が、デザートスコーピオンの死骸ごと、巨大な口の中へと呑み込まれていく。バキバキと、骨を噛み砕くような音が、口の奥から響いてくる。


 口が、閉じた。


 巨大な頭が、ゆっくりと持ち上がっていく。


 北門の上に。


 城壁よりも、高く。


 蓮は仰向けのまま、それを見上げていた。


 頭だけで、見張り塔ほどもあった。その下に続く胴体は、まだ地面の下にあった。二百歩先の地面から北門の目の前まで、砂色の巨大な胴体が、橋のように夜の荒野に横たわっていた。


 どれだけ長いのか、考えたくもなかった。


「……こんなの」


 隣で、ロイが呟いた。剣を握った手が、ぶるぶると震えていた。


「こんなの、どうやって……」


 答えられる者は、いなかった。


 剣が届くのは、胴体の表面だけだ。その表面は、砂を固めたような分厚い皮で覆われている。デザートスコーピオンの甲殻よりも、さらに硬そうに見えた。


 巨大な頭が、また、ゆっくりと下を向いた。


 今度は、北門そのものを。


 呑み込むつもりだ。


「――口だ!!」


 ヴァイスが叫んだ。


 添え木の右腕を庇いながら、左手の短剣で夜空の口を指していた。


「外側は硬くても、中は柔らかい!! どんな魔物も、口の中だけは鍛えようがねえ!!」


「ミラ!!」


 フィールが、城壁の上へ向かって叫んだ。


 ミラは、もう弓を引き絞っていた。


 狙いは、夜空に開きかけた、巨大な口の奥。


 牙の渦の、その向こう。


 ヒュッ。


 矢が、夜を裂いた。


 牙と牙の隙間を、すり抜ける。


 口の奥の、赤黒い肉に。


 ドスッ。


 刺さった。


 オオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!


 サンドワームが、身をよじった。


 巨大な頭が、城壁に激突する。


 ドゴオオオオオオオオンッ!!


 城壁が、揺れた。胸壁の石が崩れ落ちる。城壁の上の警備隊の兵士が数人、悲鳴を上げて内側へ転げ落ちていく。ミラが、崩れた胸壁の縁に、辛うじてしがみついていた。


「効いてる……!!」


 後ろに下がっていたリアムが叫んだ。


 効いている。


 確かに、効いている。


 だが、矢一本だ。


 この化け物にとっては、棘が一本刺さった程度でしかない。


 サンドワームの頭が、再び持ち上がった。


 今度は、怒りを込めて。


「――残り、四分の一ッ!!」


 城壁の上から、ハンスの叫び声が降ってきた。


 崩れた胸壁の陰で、砂時計を胸に抱きしめたまま、若者はまだそこにいた。


 四分の一。


 あと、四分の一。


 その時。


 城壁の階段を、担架が駆け上がってきた。


 警備隊の男たちが、息を切らせながら担いでいる。その上に、テルモが横たわっていた。目を閉じたまま、包帯を血に染めたまま。


 そして、その担架の横を。


 白い長衣の老人が、よろめきながら、階段を上ってきていた。


「サナトス様――!?」


 フィールが叫んだ。


 サナトスは、答えなかった。


 城壁の上に辿り着くと、担架の傍らに膝をつき、布に巻かれた両手でテルモの手を包み込んだ。


 触れている。


 貴族と、貴族が。


「……今日の、三度目です」


 老人は、静かに言った。


 ――夕刻まで、取っておきましょう。何が起きるか、分かりませんから。


 朝、大広間でそう言った、最後の一度を。


 淡い光が、テルモを包んだ。


 長くはなかった。傷を塞ぐのではない。命を繋ぐのでもない。ただ、途切れた意識を、呼び戻すためだけの光。


 テルモの瞼が、震えた。


 開いた。


「……私は」


「眠っていらっしゃいました。少しだけ」


 サナトスは、微笑んだ。


「炎は、まだ残っておりますか」


 テルモは答えなかった。ただ、担架の縁を掴んで上体を起こし、崩れた胸壁の向こうを見た。


 夜空に鎌首をもたげる、巨大な口を。


「……一度なら」


 テルモの目に、火が灯った。


「一度なら、撃てる」


 サンドワームの頭が、振り下ろされた。


 北門へ。


 寝台の壁の残骸ごと。


 その前に立つ、特務班ごと。


 呑み込むために。


 口が、開いた。


 夜空が、赤黒い肉の洞穴に変わった。


 何百本という牙が、渦を巻いて迫ってくる。口の奥から、腐った砂と血の匂いが、熱い風となって吹きつけてくる。


 蓮は、動けなかった。


 足が、凍りついていた。


 逃げられない。


 大きすぎる。


 速すぎる。


 どこへ逃げても、この口は、北門ごと全てを呑み込む。


 ――どこに飛ぶのか、いつも考えて動け。


 なぜか、その言葉が頭をよぎった。


 飛べない。自分は飛べない。


 だったら。


 どこに、立つ。


 蓮は、前を見た。


 迫ってくる口を。


 その奥の、赤黒い肉を。


 ミラの矢が、刺さっている場所を。


 口の中は、柔らかい。


「――フィール」


 蓮は、言っていた。


「口の中に、剣を」


「え――?」


「呑まれる瞬間に、上顎へ突き立てる。……全員で」


 フィールの目が、見開かれた。


 正気の沙汰ではなかった。


 だが。


 フィールは、一瞬だけ蓮を見て。


 そして、叫んだ。


「特務班ッ!! 剣を上へッ!! 呑まれる瞬間に、口の天井を突けええええッ!!」


 ロイが、剣を頭上に掲げた。


 ヴァイスが、左手の短剣を逆手に構えた。


 ユーリが、槍の穂先を天へ向けた。


 蓮が、剣を両手で握り、真上へ突き上げた。


 フィールが、その隣で、同じように。


 口が。


 来た。


 牙の渦が、頭上を通り過ぎる。


 視界が、赤黒い闇に呑まれる。


 今。


 今だ。


「突けええええええええええええええッ!!」


 ズブウウウウウウウウウッ!!


 五本の刃が。


 巨大な口の、上顎の柔らかい肉に。


 同時に、突き刺さった。


 オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!


 咆哮が、口の中で爆発した。


 耳が潰れる。熱い体液が、頭から降り注ぐ。巨大な口が、閉じかけて、止まった。痛みに、口を閉じられないのだ。上顎に五本の刃を突き立てられたまま、巨大な頭が、苦悶にのたうち回る。


 蓮は、剣の柄にしがみついていた。


 頭が持ち上がる。体が宙に浮く。剣の柄だけが、命綱だった。赤黒い肉の洞穴の中で、振り回される。上下が分からない。フィールの悲鳴が聞こえる。ロイの叫びが聞こえる。


 離すな。


 離すな離すな離すな――!!


 その時。


 洞穴の入り口に。


 牙の渦の、向こう側に。


 城壁の上の、崩れた胸壁の縁が見えた。


 そこに。


 担架の上で上体を起こした、テルモの姿があった。


 右手を、まっすぐにこちらへ向けて。


 目が、合った。


「――離れろッ!!」


 テルモが、吠えた。


 蓮は、剣の柄を離した。


 落ちる。


 口の中を。


 牙の渦の、隙間を。


 下へ。下へ。下へ。


 フィールの手が、蓮の腕を掴んでいた。ロイが、ヴァイスが、ユーリが、同じように剣を離して落ちてくる。


 地面が、迫る。


 叩きつけられた。


 寝台の壁の残骸の上。


 転がる。


 仰向けになった蓮の、真上で。


 テルモの目が、口の奥を見た。


 口の奥の、全てを。


 ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!


 サンドワームの口の中が、燃え上がった。


 内側から。


 上顎に突き立った五本の剣の周りから。ミラの矢の周りから。赤黒い肉の洞穴の、その奥の奥まで。紅蓮の炎が、化け物の喉の奥へと、奔流となって流れ込んでいく。


 外側が硬くても。


 中は、柔らかい。


 そして、中を焼く炎を、外側の皮は、防げない。


 オ、オオ、オオオオオオオオオオオオオオ――!!


 巨大な頭が、夜空に向かって、のけ反った。


 開いた口から、炎が噴き上がる。


 夜空が、赤く染まった。


 城壁の上で、テルモが、担架の上に崩れ落ちた。


 今度こそ、全てを使い切って。


 サンドワームは、倒れなかった。


 口から炎と煙を噴き上げながら、それでも、巨大な頭を持ち上げていた。


 頭の半分が、焼け崩れていた。牙の渦の半分が、炭になっていた。それでも、残った半分の口が、北門を向いていた。


 怒りだけで、動いていた。


 蓮は、寝台の残骸の上で、起き上がれなかった。


 剣が、ない。口の中に置いてきた。


 フィールも、ロイも、ヴァイスも、ユーリも。


 誰も、剣を持っていなかった。


 焼け崩れた口が、ゆっくりと、振り下ろされてくる。


 遅い。


 今度は、本当に遅かった。化け物もまた、死にかけているのだ。


 それでも。


 剣のない自分たちには、止める術がない。


 城壁の上で、ハンスが、砂時計を掲げていた。


 砂が。


 最後の一粒が。


 落ちた。


「――落ちきったあああああああああああッ!!」


 ハンスの絶叫が、夜空に響いた。


 その瞬間。


 北門の内側の広場に。


 漆黒の門が、開いた。


 音もなく。


 巨大な、闇の口が。


 そこから。


「――全隊、射てえええええええええッ!!」


 聞き覚えのある声が、轟いた。


 ギードだった。


 「移動」第一部隊長。エスクーダで、貴族の盾となれと叫んだ男。


 その背後から、門をくぐって、兵士たちが次々と飛び出してくる。弓を構えている。槍を構えている。十人。二十人。五十人。まだ来る。まだ来る。


 ヒュヒュヒュヒュヒュヒュヒュヒュッ!!


 百本近い矢が、北門の上を越えて、夜空へ放たれた。


 狙いは、焼け崩れた口の中。


 テルモの炎で開いた、赤黒い傷口へ。


 ドスドスドスドスドスドスドスッ!!


 サンドワームの頭が、矢の雨に打たれて、大きく揺らいだ。


 そして。


 門から、最後に一人の青年が現れた。


 両手に包帯を巻いたまま。


 キネシス。


 青年は、北門の外を見た。


 焼け崩れた化け物の頭を。


 その真上の、夜空の一点を。


 消えた。


 次の瞬間、サンドワームの頭の真上に、キネシスが現れていた。


 一人ではなかった。


 その周りに、十人ほどの兵士が、一緒に現れていた。巨大な戦鎚を担いだ、筋骨隆々の男たち。その鎧に刻まれた紋章に、蓮は見覚えがあった。


 翼の紋章。


 「移動」第一部隊の中でも、城門を破るために鍛えられた重装兵たちだった。


「――叩き潰せッ!!」


 キネシスの号令とともに。


 十本の戦鎚が、落下の勢いを乗せて。


 焼け崩れた頭の、ど真ん中へ。


 振り下ろされた。


 ドゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンッ!!


 大地が、揺れた。


 サンドワームの頭が、地面に叩きつけられた。


 北門の目の前に。


 蓮の、目の前に。


 焼け崩れた巨大な頭が、地響きとともに、横たわった。


 動かなかった。


 しばらく、何も動かなかった。


 やがて。


 二百歩先の地面から伸びていた、巨大な胴体が。


 ゆっくりと。


 力を失って。


 崩れ落ちていった。


 静寂。


 それから。


 歓声が、爆発した。


 城壁の上から。北門の広場から。門をくぐって現れた兵士たちから。街の奥から。


 今度は、嗚咽ではなかった。


 勝鬨だった。


 蓮は寝台の残骸の上に仰向けに倒れたまま、夜空を見上げていた。


 星が、瞬いていた。


 生きている。


 隣で、フィールも同じように仰向けに倒れていた。その胸が、大きく上下していた。


「……生きてる?」


 フィールが、夜空を見上げたまま言った。


「……生きてる」


「全員?」


 蓮は、首を回した。


 ロイが、四つん這いで咳き込んでいた。ヴァイスが、添え木の腕を抱えて呻いていた。ユーリとリアムが、互いの肩を叩き合っていた。城壁の上で、ミラが崩れた胸壁から身を乗り出し、こちらを見下ろしていた。


「全員」


 フィールは目を閉じた。その目尻から、一筋だけ涙がこぼれた。


「……よかった」


 ギードが、北門の前に立っていた。


 最初に、誰かを探すように広場を見回した。その目が、化け物の頭の上から跳び降りてきたキネシスの上で止まった。包帯を巻いた両手の上で。しばらく、そのまま動かなかった。


 それから、焼け崩れた化け物の頭を黙って見上げ、振り返って、寝台の残骸の上に転がる特務班を見下ろした。


 その厳つい顔が、わずかに歪んだ。


 笑ったのかもしれなかった。


「……よく、持たせた」


 それだけ言って、ギードは兵士たちに向き直り、次々と指示を飛ばし始めた。負傷者の搬送。外壁の残敵の掃討。東西の壁への増援。


 その腰には、淡い光を宿した魔石がいくつも下げられていた。回復の魔石だった。門をくぐって現れた兵士たちの腰にも。キネシスがありったけ持たせると言った、移動の館の備えだった。


 これで、タイタンの傷も、テルモの傷も、サナトスの手も。


 蓮は、目を閉じた。


 長い、長い一日が、ようやく――


「あら」


 声がした。


 門の方から。


 蓮は、目を開けた。


 広場に開いた漆黒の門は、まだ閉じていなかった。


 ギードの部隊が、全員くぐり終えた後も。


 門は、まだ、開いていた。


 その闇の中から。


 最後に、もう一人。


 ゆっくりと、歩み出てくる人影があった。


 白い衣装。


 穏やかな微笑み。


 門の脇に立つゲートが、その人影に、恭しく道を空けた。


「ずいぶんと、賑やかなこと」


 蓮の全身の血が、凍りついた。


 知っている。


 この声を。この微笑みを。この白い衣装を。


 ムーヴの館の中庭で。集会の壇上で。


 全員の記憶を、塗り替えた女。


 メンタル。


「悪魔と、貴族様方が、戦われたそうね」


 白い女は、広場を見回した。


 城壁の上の、血まみれの警備隊を。


 街の奥から顔を出す、民たちを。


 北門の外に横たわる、焼け崩れた化け物を。


 そして。


 寝台の残骸の上に転がる、特務班を。


「貴族様に触れれば、加護が消える」


 メンタルは、微笑んだ。


「そんなことを、この街の皆さんが、知ってしまったのね」


 門が、ようやく、音もなく閉じていった。


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