一刻
「寝台を運べえッ!!」
北門の前で、外壁警備隊の隊長が声を嗄らして叫んでいた。
通りの両脇に並んでいた寝台が、次々と運ばれてくる。その上に横たわっていた人々は、家族に、近所の者に、警備隊の若者たちに背負われ、抱えられ、街の奥へと移されていく。空になった寝台が、北門の歪んだ扉の隙間へと、一つ、また一つと積み上げられていった。
癒やしを待つための寝台が、今は、癒やしを待つ人々を守るための壁になっていく。
蓮はその光景を見ながら、奥歯を噛みしめていた。
「砂時計を!」
フィールが叫んだ。
警備隊の若者が、両手で抱えるほどの砂時計を持って駆けてきた。治療院で薬を煎じる時に使う、一刻の砂時計だった。
「あなた、名前は」
「ハ、ハンスです!」
「ハンス。これを城壁の上で持っていて。砂が四分の一落ちるたびに、残りがどれだけか大声で叫んで。……その砂が落ちきった時が、増援の来る時よ」
若者は砂時計を抱きしめるように頷き、城壁の階段を駆け上がっていった。
フィールは振り返った。特務班の六人が、そこにいた。
蓮。ロイ。ヴァイス。ミラ。ユーリ。リアム。
ヴァイスは右腕を添え木で固め、左手に短剣を握っていた。ロイの額には、血の滲んだ包帯が巻かれていた。リアムは、足を引きずっていた。蓮の胸は、一呼吸ごとに軋んでいた。
誰一人として、万全ではなかった。
「……命令は一つだけ」
フィールは言った。
その声は、震えていなかった。
「死なないで」
――今度は、誰も死なせない号令を、かけてみせる。
丘の上でそう言った少女の、最初の号令だった。
突けとは言わなかった。悪魔の懐へ飛び込めとも言わなかった。ただ、死なないで、と。
「北門は、私たちが塞ぐ。ミラは城壁の上、テルモ様の傍に。……あとは」
フィールは、積み上げられていく寝台の壁を見た。
「一刻、持たせるだけ」
城壁の上に、テルモが運ばれてきた。
警備隊の担架に横たえられたままだった。腹と肩の包帯には、もう新しい血が滲んでいる。それでもテルモは、担架の縁を掴んで上体を起こし、胸壁に背を預けて座った。そして、北の荒野を見下ろした。
夕日が、地平線に触れかけていた。
その赤い光の中を。
砂煙が、迫っていた。
近い。
さっきまで地平線の影だったものが、今ははっきりと形を持っていた。
狼だった。
砂色の毛並みの、痩せた狼。一頭ではない。十頭ではない。百頭でもない。砂煙の中から、次から次へと、波のように湧き出してくる。その後ろに、もっと大きな影がうごめいていた。黒光りする甲殻。高く掲げられた、鋏と、毒針。人の背丈ほどもある、巨大な蠍。
「サンドウルフと……デザートスコーピオン……」
城壁の上で、警備隊の誰かが呻いた。
「外周の砂漠の魔物だ……なんで、こんな数が……」
蓮は、昨夜の悪魔の言葉を思い出していた。
――国が飢えておりますので。
悪魔が糧を狩れなかった。だから、代わりに。
蓮は、首を振った。今は考えている場合ではない。
テルモが、右手を上げた。
サンドウルフの群れの先頭が、北門まであと三百歩に迫った時だった。
「……一度目だ」
テルモが、呟いた。
その目が、荒野を見た。
荒野の、全てを。
ゴオオオオオオオオオオオオオッ!!
大地が、燃え上がった。
北門の前、百歩先から三百歩先まで。荒野の一帯が、一瞬にして炎の海に変わった。サンドウルフの群れが、炎の中に呑み込まれていく。悲鳴。咆哮。焼ける毛皮の匂い。赤い炎が夕焼けの空を焦がし、北門の前に並ぶ者たちの顔を、真っ赤に照らし出した。
「うおおおおおおおッ!!」
城壁の上で、歓声が上がった。
燃える。燃える。燃える。何百というサンドウルフが、一瞬で灰になっていく。
テルモが、胸壁に背を預けたまま、激しく咳き込んだ。口の端から、赤いものがこぼれた。
「……テルモ様!」
ミラが駆け寄った。
「構うな」
テルモは、口元の血を手の甲で拭った。
「私の目は、北門の周りしか見えん。……見えぬところから、来るぞ」
その言葉通りだった。
炎の海の、両端。
燃え上がる荒野の、東と西の縁から。
炎を避けるように回り込んだサンドウルフの群れが、外壁に沿って、左右へ散っていく。
北門だけではない。
外壁の、あらゆる場所へ。
「東の外壁に、群れが――!!」
「西からも来るぞッ!!」
城壁の上を、悲鳴のような報告が駆け抜けた。
そして。
炎の海の、真正面。
燃え盛る炎の壁を、突き破って。
黒い甲殻が、現れた。
デザートスコーピオン。
全身の甲殻を炎に焼かれながら、それでも止まらない。その後ろから、二匹目。三匹目。四匹目。燃える体のまま、鋏を振り上げ、まっすぐに北門へ。
「――来るぞッ!!」
フィールが叫んだ。
蓮は、剣を構えた。
ガシャアアアアアアアンッ!!
一匹目のデザートスコーピオンが、寝台の壁に激突した。
木の寝台がひしゃげる。積み上げられた壁が大きく揺れる。その隙間から、燃える鋏が突き出してきた。
「押さえろ! 押さえろおおッ!!」
警備隊の男たちが、寝台の壁に肩を押しつけて踏ん張る。その頭上を、鋏がかすめていく。
蓮は、壁の隙間から突き出した鋏の付け根へ、剣を突き入れた。
ガキッ。
硬い。甲殻に弾かれる。
だが悪魔の見えない壁とは違う。甲殻は甲殻だ。刃が通らないだけで、力は伝わる。
「関節だ!! 甲殻の継ぎ目を狙えッ!!」
ヴァイスの声が飛んだ。
蓮は剣を引き、鋏の付け根の、甲殻と甲殻の継ぎ目に切っ先を合わせた。
突く。
ズブッ。
入った。
緑色の体液が噴き出した。デザートスコーピオンが甲高い声を上げ、鋏を振り回す。蓮は壁の陰に身を伏せた。鋏が頭上の寝台を粉砕する。木片が雨のように降り注ぐ。
ロイが、壁の上によじ登っていた。
「うおおおおおおおおッ!!」
デザートスコーピオンの頭上へ、飛び降りる。背中の甲殻の継ぎ目に、剣を両手で突き立てる。深く。深く。デザートスコーピオンが暴れる。ロイの体が振り回される。それでも剣の柄を離さない。
城壁の上から、矢が飛んだ。
ミラだった。
デザートスコーピオンの目へ。
ドスッ。
一本。
ドスッ。
二本。
デザートスコーピオンの動きが、止まった。
ゆっくりと。
燃える巨体が、寝台の壁に寄りかかるように、崩れ落ちていった。
「一匹……!!」
ロイが、デザートスコーピオンの背中から転がり落ちながら叫んだ。
休む間はなかった。
二匹目が、崩れ落ちた一匹目の死骸を乗り越えて、壁に取りついていた。
三匹目が、その横から。
四匹目が。
そして、その足元を縫うようにして、炎を抜けてきたサンドウルフの群れが、寝台の壁の隙間へと殺到してきた。
「来たああああッ!!」
隙間から、サンドウルフが飛び込んでくる。
ユーリが槍で突く。警備隊の若者が剣を振り回す。フィールの剣が閃く。蓮の剣がサンドウルフの喉を裂く。
斬る。
斬る。
斬る。
一頭斬れば、二頭が飛び込んでくる。二頭斬れば、四頭が。
牙が蓮の腕を掠めた。爪が腿を裂いた。胸が軋む。息が上がる。剣が重い。
構わない――!!
「――残り、四分の三ッ!!」
城壁の上から、ハンスの叫び声が降ってきた。
蓮は、サンドウルフの喉から剣を引き抜きながらその声を聞いた。
四分の三。
まだ、四分の一しか経っていない。
この地獄を、あと三倍。
東の外壁から、悲鳴が上がった。
城壁の上を走る警備隊の兵士が叫んでいた。
「東の壁が――!! サンドウルフが、壁を越えて――!!」
蓮は、東を見た。
外壁の上に、砂色の影が次々と這い上がっていた。仲間の背を踏み台にして、積み重なるようにして、壁をよじ登ってくる。壁の上の警備隊の兵士たちが、槍で突き落とす。突き落としても、突き落としても、次が這い上がってくる。
一頭が、壁を越えた。
街の中へ。
その先には。
寝台から移された人々が避難した通りがあった。
「テルモ様――!!」
ミラが叫んだ。
テルモは、胸壁に背を預けたまま、東を見ていなかった。見えないのだ。北門の上からでは、東の外壁は、丘の斜面の向こうに隠れている。
「……運べ」
テルモが、低く言った。
「私を、東へ運べ」
「その体で――!!」
「運べと言っている!!」
警備隊の男たちが、テルモの担架を担ぎ上げた。城壁の上を、東へ向かって走る。揺れる。そのたびに、テルモの包帯から血が滲む。
蓮は北門の前でサンドウルフを斬りながら、それを見送った。城壁の上を走る担架が、丘の斜面の向こうに消えていく。
数瞬の後。
ゴオオオオオオオオオオオッ!!
東の空が、赤く燃え上がった。
二度目。
壁の上に這い上がっていたサンドウルフの群れが、炎に包まれて、次々と壁の外へ転がり落ちていくのが見えた。
だが。
その炎が消えた時。
城壁の上から、警備隊の悲鳴が上がった。
「テルモ様!! テルモ様ッ!!」
蓮の心臓が、跳ねた。
東の城壁の上で、担架の上のテルモが、ぐったりと動かなくなっていた。
意識を、失ったのだ。
炎は、あと一度残っていたかもしれない。だが、それを使う者は、もう目を開けていなかった。
「――残り、半分ッ!!」
ハンスの声が、震えながら降ってきた。
半分。
蓮は、寝台の壁の前で、剣を杖にして立っていた。
足元に、サンドウルフの死骸が積み重なっていた。デザートスコーピオンの死骸が、四つ。壁の隙間を塞ぐように、横たわっていた。
特務班の誰もが、血まみれだった。
ヴァイスが、壁に背を預けて座り込んでいた。添え木の腕から、新しい血が滴っていた。ロイが、剣を握ったまま肩で息をしていた。リアムは、腿をサンドウルフに噛み裂かれ、警備隊の若者に引きずられて後方へ下げられていた。
フィールが、蓮の隣に立った。
その頬に、サンドウルフの返り血が飛んでいた。
「……生きてる?」
「……生きてる」
「全員?」
蓮は、辺りを見回した。
ロイ。ヴァイス。ユーリ。後ろに下げられたリアム。城壁の上にミラ。
「全員」
フィールは小さく息を吐いた。その目がほんの一瞬だけ潤み、すぐに前を向いた。
「あと半分。……あと、半分よ」
北の荒野は、夜に沈みかけていた。
テルモの炎の跡が、まだあちこちで燻っていた。その向こうから、サンドウルフが散発的に押し寄せてくる。数は、確かに減っていた。
持つかもしれない。
このまま、あと半分。
増援が来るまで。
蓮が、そう思った時だった。
足元が、揺れた。
ドン。
蓮は、足元を見た。
サンドウルフの死骸が、転がっていた。
ドン。
また、揺れた。
今度は、もっと大きく。
ドン。
ドン。
ドン。
地面の、下から。
「……なに、これ」
フィールが、呟いた。
城壁の上で、ミラが北の荒野を指差していた。
その指が、震えていた。
北門から、二百歩ほど先。
テルモの炎に焼かれた荒野の地面が。
盛り上がっていた。
砂が、土が、小山のように膨れ上がり、その頂が、ぱっくりと割れていく。
割れ目から。
何かが、首をもたげた。
夜の闇よりも黒い、巨大な、円い口。
その縁に、何百本という牙が、渦を巻くように並んでいた。
口だけで、北門の扉ほどの大きさがあった。
その下に続く胴体は、まだ、地面の下に隠れていた。
どこまで続いているのか、分からなかった。
「サンド……ワーム……」
城壁の上で、警備隊の老兵が、呆然と呟いた。
「外周の砂漠の、奥の奥にしかいないはずの……なんで……なんで、こんなところに……」
巨大な口が、夜空に向かって、咆哮を上げた。
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!
音ではなかった。
振動だった。
寝台の壁が揺れた。城壁が揺れた。蓮の胸の骨が、内側から震えた。
そして。
サンドワームの、巨大な口が。
ゆっくりと。
北門の方を、向いた。
テルモは、意識がない。
タイタンは、眠っている。
キネシスは、まだ戻らない。
サナトスの癒やしは、あと一度。
砂時計の砂は、まだ、半分残っている。
蓮は、剣を握り直した。
手が、震えていた。
それでも。
剣を、下ろさなかった。
「……特務班」
隣で、フィールが言った。
その声も、震えていた。
それでも。
「――死なないで」




