三つの光
朝が来た。何事もなかったかのように。
窓から差し込む白い光で、蓮は目を覚ました。詰所の一室。粗末な寝台。薬草の匂い。昨日と同じ天井。
体を起こそうとして、胸に鈍い痛みが走った。サナトスが繋いでくれた骨は、まだ脆い。壁に叩きつけられた背中も、氷の上を転がった腕も、全身のあらゆる場所が昨夜のことを覚えていた。
夢ではなかった。
蓮は窓の外を見た。
北門の向こうに、荒野が広がっていた。テルモの作った氷は、夜のうちに溶けていた。その代わりに、大地には巨大なすり鉢状の窪みが残り、その周りに割れた氷の跡がぬかるみとなって、黒く広がっていた。
そして窪みの縁に、焦げた槍の穂先が、まだ突き立っていた。
サナトスの館の大広間は、朝から静まり返っていた。
長い寝台が三つ、並べられていた。
一つ目に、タイタンが横たわっていた。胸から腹、顔の半分までが、白い布で覆われている。布の下から、焼けた肉の匂いが薬草の香りに混じって漂っていた。巨漢は目を閉じたまま、浅い呼吸を繰り返していた。
二つ目に、テルモ。腹と肩に分厚い包帯。意識はあったが、天井を見つめたまま一言も口を利かなかった。
三つ目は、空だった。キネシスのために用意された寝台だった。青年は、両手に包帯を巻いたまま、その傍らに立っていた。
「座れと言われたが、座る必要はない」
キネシスは、それだけ言った。
大広間の奥から、サナトスが現れた。白い長衣。両手は肘から先まで、ぐるぐると布に巻かれていた。指の一本も、布の外には出ていない。その後ろに、レミエルが付き従っていた。少女の目は、一晩中泣き腫らしたように真っ赤だった。
「おはようございます、皆様」
老人の声は、昨日と同じように穏やかだった。
「今日の癒やしが、戻りました」
大広間にいる全員が、老人を見た。
「……三度です」
サナトスは静かに言った。
「一日に、三度。それ以上は、この身が持ちません。昨日、その三度を使い切りました。今日もまた、三度だけ」
三度。
蓮は、三人の貴族を見た。タイタン。テルモ。キネシス。そして、布に巻かれたサナトス自身の手。癒やしが要るのは四つ。三度では、足りない。
それだけではなかった。この館の外には、この街の通りの両脇には、簡素な寝台に横たわる数千人の人々がいる。病に伏した者。癒えぬ傷を抱えた者。昨日の戦いの間も、ずっとそこで動けずに待っていた人々が。
「順番を、決めねばなりません」
サナトスは言った。その声が、ほんの少しだけ揺れた。
「魔石は、残っていないのか」
テルモが、天井を見たまま言った。
「この数日で、すべて使い切りました。北の集落から逃れてきた者たちと、警備隊の負傷者と、蓮殿に」
サナトスは静かに答えた。
「……私とタイタン殿の魔石も、空のままだ」
テルモが、低く言った。
「エスクーダで、ムーヴ殿に使い切った。幾度光を当てても、あの方は目を開けなかった。……上級の魔石を満たし直すには、サナトス殿の力を何日分も要する。まだ、満たされていない」
「魔石に力を込めることも、私の三度のうちの一度です。そうして作った魔石は、十四の国の従士のもとへ送られていきます。……この街の足元には、もともと多くは残っていないのですよ」
癒やしの国に、癒やしの石がない。蓮はその皮肉に、言葉を失った。
「それに」
老人は、白い布に覆われたタイタンを見た。
「タイタン殿の傷は、下級の魔石なら、十あっても足りないでしょう」
「……移動の館には、備えの魔石がある」
キネシスが、ぽつりと言った。
「ゲート殿の門なら、一瞬で運べる。だが」
青年の声が、わずかに硬くなった。
「ゲート殿は夜明け前に、自国へ戻られた。所用があると言い残して。……夕刻までは戻らぬそうだ」
大広間が、静まり返った。
昨夜、貴族たちが死にかけた時にも開かなかった門。そして今朝、癒やしの石が要る時にも、門の主はここにいない。
蓮は何も言わなかった。言える立場ではなかった。ただ、キネシスの包帯を巻いた手がほんのわずかに握りしめられるのを、見ていた。
「まずは、タイタン殿を」
誰も、異を唱えなかった。
サナトスは寝台の傍らに膝をつき、布に巻かれた両手で、タイタンの焼けた手を包んだ。指は使えない。それでも、手のひらと手のひらが布越しに触れ合えば、癒やしは届く。
淡い光が、巨漢を包んだ。
長かった。昨日、蓮の骨を繋いだ時よりも、ずっと長かった。光は何度も明滅し、そのたびにサナトスの額に汗が浮かんだ。焼けた肉の匂いが、少しずつ薄れていく。布の下で、何かがゆっくりと元の形を取り戻していく。
やがて光が消えた時、老人は膝をついたまま、しばらく立ち上がれなかった。
「……命は、繋がりました」
荒い息の合間に、サナトスは言った。
「ですが、焼けた肌が元に戻るには、あと二度、三度の癒やしが要ります。……今日は、ここまで」
一度目。
「次に、テルモ殿を」
「いらん」
寝台から、低い声がした。テルモだった。天井を見つめたまま、こちらを見ようともしなかった。
「腹の傷は、塞がりかけている。肩も、砕けてはいない。……私は、寝ていれば治る」
「テルモ殿」
「私に使うくらいなら」
テルモは、ようやく首を回した。その目が、サナトスの布に巻かれた両手を見ていた。
「その手に使え」
サナトスは、首を振った。
「私の手は、私では癒やせません。魔石に力を込め、どなたか貴族の方に手を握っていただく必要があります。……それで、一度を使います」
「ならば、使え」
「ですが、それでは」
老人は、大広間の窓の外を見た。通りに並ぶ、寝台の列を。
「今日の三度のうち、二度を、貴族のために使うことになります」
大広間が、静まり返った。
蓮は、その沈黙の意味を理解した。この街の人々は、毎日サナトスの三度の癒やしを待っている。一日に、たった三人。それでも、その三人は確かに救われてきた。今日、その三人のうち二人分を、貴族が使う。明日も、明後日も、タイタンが完全に癒えるまで。その間、通りの寝台の上で、誰かが待ち続ける。
待ちきれない者も、いるかもしれない。
「……代わりに、私が」
レミエルが、小さな声で言った。
「私が、皆様の手当てをします。包帯を替えて、薬を塗って……癒やしの力はなくても、できることは」
「レミエル」
サナトスは少女を振り返り、布に巻かれた手を、その肩に乗せた。
「では、お願いします。……今日の二度目は」
老人は、窓の外を指した。
「通りの東の端の、寝台の子どもに。胸の病で、明け方から息が細くなっています。……あの子は、今日を越せません」
テルモが、何かを言いかけて口を閉じた。
キネシスは何も言わず、包帯を巻いた自分の手を背中に回した。それが青年の答えだった。自分の手は、後回しでいい。
「三度目は」
サナトスは、静かに言った。
「夕刻まで、取っておきましょう。……何が起きるか、分かりませんから」
昼過ぎ。街の外れの小さな丘の上で、特務班の七人は、三つの墓標の前に立っていた。
トーレ。
ネロ。
オルト。
トーレとネロの亡骸は、北の丘に残されたままだった。回収する余裕などなかった。オルトの亡骸は、どこにもなかった。すり鉢の縁に残っていた焦げた槍の穂先だけが、墓標の下に埋められていた。
誰も、何も言わなかった。風が、丘の上の草を揺らしていた。
フィールが、一歩前に出た。隊長として、何かを言わなければならないのだと、蓮には分かった。
フィールは口を開き、閉じ、また開いた。
言葉は、出てこなかった。
代わりに、少女は膝をつき、丘の土を両手ですくった。そして三つの墓標の根元に、少しずつかけていった。
ロイが続いた。ヴァイスが、折れていない方の手で続いた。ユーリとリアムが続いた。ミラが続いた。
蓮も、膝をついた。土は冷たかった。
三つの墓標のうち、二つの下には何も眠っていない。オルトの下には、焦げた穂先が一本。
それでも、土をかけた。かけずには、いられなかった。
墓標の前から皆が引き上げた後も、フィールは一人そこに残っていた。蓮は少し離れた場所から、その背中を見ていた。
やがて、フィールが口を開いた。振り返らずに。
「……ねえ、蓮」
「ああ」
「キネシス様は、言ったわよね。見て、数えて、報せろ。……盾になって死ぬな、って」
キネシスの館の中庭で、初めて特務班が集められた朝の言葉だった。蓮も、覚えていた。
「でも、昨日は」
フィールの肩が、小さく震えた。
「窓を突けって、私が号令をかけた。全員で突けって。……オルトは、私の号令で、悪魔の懐に飛び込んだの」
「フィール」
「窓が開けば、悪魔に剣が届く。でも、剣が届くところまで近づけば、あの掌も届くのよ。私、それを知ってた。知ってて、号令をかけた」
少女は振り返った。
泣いてはいなかった。泣くことすらできないような顔をしていた。
「これって、盾になれって言うのと、何が違うの?」
蓮は、答えられなかった。
――悪魔の指一本、貴族様に触れさせるな。盾となれ。
ギードの声が、耳の奥で蘇った。あの時は、盾だった。剣が届かないから、身を投げ出して貴族を守るしかなかった。今は違う。窓がある。剣が届く。だからこそ、剣を持って窓の内側へ飛び込め、と号令をかける。それは、盾になれと言うのと何が違うのか。
「……違う、と思う」
蓮は、ゆっくりと言った。
「盾は、守るために死ぬ。でも、俺たちは」
言葉を探した。見つからなかった。
「……倒すために、行ったんだ」
「倒せなかったわ」
フィールは、静かに言った。
「倒せなかった。オルトは死んで、悪魔は生きて帰った」
蓮は、何も言えなかった。丘の上を、風が吹き抜けていった。
フィールは、また墓標の方を向いた。
「……次は、倒す」
小さな声だった。
「今度は、誰も死なせない号令を、かけてみせる」
その背中が、昨日よりも少しだけ小さく見えた。
夕刻。日が傾き、白い都が橙色に染まり始めた頃、蓮は詰所の中庭で剣を振っていた。
胸が痛む。背中が痛む。それでも、じっとしていられなかった。
自分には、窓が開けられない。開けられるのは貴族だけで、その貴族は今、誰も戦える体ではない。タイタンは眠っている。テルモは寝台の上。キネシスの手は焼けたまま。サナトスの手も。
次に悪魔が来たら。いや、悪魔でなくとも。
剣を振り下ろした、その時だった。
カーン。
鐘が、鳴った。
蓮の手が止まった。
カーン。カーン。カーン。
北の外壁の、見張り塔の鐘だった。昨日の夕刻、悪魔が現れた時にも鳴った、あの鐘。
カンカンカンカンカンカンカンカンッ!!
鳴り止まない。
狂ったように、鳴り続けている。
中庭に、外壁警備隊の若者が転がり込んできた。昨夜、見張り塔の屋上で血まみれの特務班を迎えた、あの若者だった。
「北の――北の荒野から!!」
若者は、喉を裂くように叫んだ。
「魔物の群れが!! 数え切れないほど!! 砂漠の方から、こっちへ!!」
蓮は、北の空を見上げた。
夕焼けの空の下。
荒野の地平線が。
黒く、うごめいていた。
砂煙。その下で、何百、いや何千という影が、波のように押し寄せてくる。
悪魔が去った後の、空白を狙うように。
中庭の空気が揺れた。キネシスが現れていた。その片手が、テルモの肩を掴んでいた。腹と肩に包帯を巻いたテルモが、青年に支えられるようにして立っていた。
「寝台に置いていけと言ったのだがな」
キネシスが、低く言った。
「運べと言ったのは、私だ」
テルモが、吐き捨てるように言った。その顔色は、紙のように白かった。
中庭の反対側から、もう一人、ゆっくりと歩いてくる男がいた。ゲートだった。飄々とした笑みを、いつも通り口元に貼りつけていた。
「やあ、騒がしいね。今戻ったところなんだが」
キネシスは、ゲートを見ようともしなかった。
「規模は」
「北の外壁の、端から端まで……!」
警備隊の若者が叫んだ。
「千、いや、もっと……!! 砂漠の方から、次から次へと湧いてきて……!!」
「北門は、私が焼く」
テルモが言った。
「見える限りは、全て」
「……テルモ殿、その体で」
「体は関係ない。私の炎は、目で燃やす」
テルモは、北の空を睨んだ。
「だが、私の炎は、まだ戻りきっていない。腹と肩の傷を塞ぐのに、体が力を食っている。一晩眠ったくらいでは、半分も戻らん。大きく燃やせるのは、あと二度か三度。……そして外壁は長い。私の目の届かぬところから、奴らは来る」
蓮は、北の外壁を見た。白い都を囲む外壁は、丘の斜面に沿って、東へ西へどこまでも続いていた。北門は、その一点に過ぎない。テルモが城壁の上に立っても、その目が届くのは北門の周りだけだ。
そして北門は、昨夜、悪魔の一撃を受けて歪んだままだった。
閉まらない。
「ゲート殿」
キネシスが、初めてゲートを振り返った。
「門を。移動の第一部隊を呼ぶ。炎氷と力の国にも、兵を出させる」
「もちろんだとも」
ゲートは、あっさりと頷いた。
「ただね。門は数十呼吸しか開けていられない。向こうで兵を揃えておいてもらわなければ、くぐらせようがないんだ。まず伝令を送るのに一度。揃った兵を迎えに行くのに一度。……揃うまでに、半刻。いや、一刻はかかるだろうね」
「伝令には、私が行く」
キネシスは即座に言った。
「私の声なら、移動の第一部隊はすぐに動く。館の備えの魔石も、ありったけ持たせる。……一刻。それまで持たせろ」
ゲートが右手を宙へ掲げた。中庭に、漆黒の門が音もなく口を開いた。キネシスは振り返りもせずに、その中へ消えていった。
門が閉じた。
蓮は、門の跡を見つめていた。昨夜、一度も開かなかった門。今朝、門の主はここにいなかった。そして鐘が鳴った途端に、その男はここにいて、門はすんなりと開いた。
ゲートは蓮の視線に気づいたのか、こちらを見て、にこりと笑った。
「何かな、新人くん」
「……いえ」
蓮は頭を下げた。今は、それどころではなかった。
増援が来るまで、一刻。
テルモの炎は、あと二度か三度。
北門は、閉まらない。
外壁警備隊は、回復の国の従士だ。傷病者を運び、手当てをするのが本分の者たちだ。昨夜、矢を射ていた彼らの手が、弓を引くたびに震えていたのを、蓮は見ていた。
タイタンは眠っている。サナトスの癒やしは、あと一度。
中庭の向こうから、フィールが駆けてくるのが見えた。その後ろに、ロイが、ヴァイスが、ミラが、ユーリとリアムが。
フィールが、蓮の前で足を止めた。夕日を背に、少女は北の空を見上げた。
その唇が、震えていた。
――今度は、誰も死なせない号令を、かけてみせる。
昼に、丘の上でそう言った唇が。
「……特務班」
フィールは、言った。
震えながら。
それでも、はっきりと。
「北門を、塞ぐ」




