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礼なき礼

 土煙の向こうで、影が立ち上がった。


 遠い。


 北門から、何百歩も離れた荒野の彼方。月明かりに照らされた白い土煙の中に、黒い影が一つ、ゆらりと揺れていた。


 誰も声を出さなかった。


 城壁の上で、外壁警備隊の兵士たちが弓を握りしめたまま凍りついていた。割れた氷の向こうで、フィールたちが剣を構えたまま動けずにいた。北門の石畳の上で、蓮は倒れたキネシスの傍らに膝をついたまま、その影から目を離せなかった。


 影が。

 

 歩き出した。


 こちらへ。


 ゆっくりと。


 一歩、また一歩。


 人の歩みほどの静かな足取りで。


「……まだ、来るのか」


 誰かが、かすれた声で呟いた。


 蓮の手が剣を探した。見つからない。さっき膝で弾き飛ばされたままだ。立ち上がろうとする。膝が言うことを聞かない。


 もう、誰も戦えない。


 タイタンは意識がない。テルモは肩を砕かれかけ、腹から血を流している。サナトスの両手は焼け爛れ、癒やしの力も尽きている。キネシスの両手も焼けている。特務班は氷の向こうで散り散りになり、オルトはもういない。


 あの悪魔が、あと一度でも北門に辿り着けば、この街は。


 影が近づいてくる。月明かりの中に、その姿がはっきりと浮かび上がった。


 蓮は息を呑んだ。


 あれほどの高さから落ちたというのに、落ちたことによる傷は、どこにも見当たらなかった。窓の閉じた体に、大地は何一つ傷をつけられなかったのだ。


 ひどい有様だった。


 左腕は肘から先が炭のように黒く焼け、指の形すら残っていなかった。右腕は手首から先がなかった。焼けた断面から、まだ細く煙が立ち昇っていた。右足は膝から下が焼け焦げ、一歩ごとにわずかに引きずっていた。背中の翼はヴァイスに斬り落とされて、一枚きりだった。


 胸の真ん中に蓮の剣が開けた穴があった。


 脇腹にロイの剣の傷があった。太腿にフィールの剣の傷があった。肩にミラの矢の傷があった。


 黒い血が、歩くたびにぽたりぽたりと荒野に落ちていた。


 歩いていた。


 背筋をまっすぐに伸ばして。


 一歩一歩の重心の移動に、無駄一つなく。


 北門の前、百歩ほどの距離で。


 悪魔は、足を止めた。


 最初に現れた時と、同じ場所だった。


「――皆様」


 アスモデウスの声が、夜の荒野に響いた。


 穏やかだった。


「今宵は、ここまでといたします」


 北門の前がざわめいた。


 自分の耳を疑った。


 ここまで。


 終わり。


 この悪魔が、自分から。


「糧をいただきに参りましたが」


 悪魔は自分の両腕を見下ろした。手のない両腕を。


「この体では、もう、糧をいただくことも、客人のお相手をすることも、満足にはできません。……国が飢えておりますので、本来ならば、一人でも多くいただいて帰りたいところなのですが」


 国が飢えている。


 その言葉が、蓮の耳に妙に引っかかった。


「中途半端な手合わせは、客人に失礼です。中途半端な狩りは、糧に失礼です」


 アスモデウスは、静かに言った。


「ですから、今宵は、ここまで」


 そして悪魔は、北門の前に並ぶ者たちを一人ひとり見つめていった。


 城壁の上の、ミラを。


「射た方。足場を撃つ一矢、お見事でした」


 割れた氷の向こうの、フィールを。


「礼を、と号令をかけた方。震えながら剣を下ろさなかった方」


 ヴァイスを。ロイを。ユーリとリアムを。


「弱い側を狙った方。仲間を刺してしまい、それでも剣を拾った方。最後まで、槍と短剣を離さなかった方々」


 北門の内側の、タイタンを。


「最後まで、離さなかった方」


 壁際の、テルモを。


「自らの腕を枷にされた方」


 サナトスを。


「糧の身で、自ら触れてこられた方」


 キネシスを。


「私を空へ連れて行ってくださった方」


 そして。


 最後に。


 蓮を。


「通さない方」


 悪魔の赤い瞳が、蓮の上で止まった。


「あなたの剣は、二度、私に届きました。胸と、手首と」


 長い沈黙があった。


「……覚えておきます」


 その一言だけで、蓮の背筋に冷たいものが走った。


 記憶されたのだ。


 獲物としてではなく、客として。


 アスモデウスは礼をしようとした。


 胸の前で拳を合わせようとして、合わせる手がないことに気づいた。


 悪魔は、少しだけ困ったように首を傾げた。


 手のない両腕を、胸の前で交差させた。


 腰を折った。


 深く。


 深く、深く。


 一枚きりの折れた翼が、夜風に揺れた。


 手のない礼。


 拳も、掌もない、形だけの礼。


 蓮がこれまで見てきたどの礼よりも、深かった。


 北門の前で、誰かが動いた。


 フィールだった。


 割れた氷の向こうで、剣を置き、拳を掌に打ちつけた。


 パン。


 頭を下げた。


 ロイが続いた。ヴァイスが、折れていない方の手で胸を叩いた。ユーリとリアムが続いた。城壁の上で、ミラが弓を置き、頭を下げた。


 蓮も。


 膝をついたまま、拳を掌に打ちつけた。


 パン。


 頭を下げた。


 なぜそうしたのか、自分でも分からなかった。


 なぜか頭を下げずには、いられなかった。


 アスモデウスが、顔を上げた。


 その口元が、微笑んでいた。


 これまでで一番、嬉しそうに。


「……ありがとうございます」


 悪魔は、背を向けた。


「傷を癒やし、手を取り戻しましたら、改めて参ります。……その時は、窓の開け方と、閉め方を、もう少しお学びになっておいてください」


 一歩。


「糧の方。あなたの番は、その時まで」


 また、一歩。


「通さない方。……あなたの鍵が、いつか開くことを」


 蓮の心臓が、跳ねた。


 問い返そうとした時には。


 悪魔はもう、夜の闇の中へと歩み去っていた。


 ゆっくりと。


 振り返ることなく。


 どれくらいの時が経っただろう。


 悪魔の姿が、完全に闇に溶けて見えなくなった後も、誰一人として、動こうとはしなかった。


 最初に音を立てたのは、レミエルだった。


 少女は門の内側から駆け出し、壁際のサナトスに縋りついた。焼けた両手を、自分の小さな手でそっと包み込む。触れれば痛むと分かっていながら、それでも触れずにはいられないというように。


「サナトス様……サナトス様……っ」


「……泣くことはない、レミエル」


 老人は疲れ切った声で、それでも微笑んだ。


「明日になれば、また癒やしの力が戻ります。……タイタン殿も、テルモ殿も、キネシス殿も、この手も。明日から、順番に。貴族の傷は、一日では癒えきりませんが」


「でも……でも、サナトス様の手は、ご自分では……」


「ええ。自分の手は、自分では癒やせません」


 老人は、少女の頭に焼けていない手首をそっと乗せた。


「ですから明日、この力を魔石に込めて、どなたか貴族の方に手を握っていただきましょう。貴族同士は、触れ合えば癒やしが届きますから」


「……私が、握ります」


「あなたが握っても、届かないのですよ」


 老人は、困ったように笑った。


「ですから、あなたは、そばにいてください。それで十分です」


 レミエルは、声を上げて泣いた。


 その泣き声が、合図だったかのように。


 城壁の上から、声が上がった。


 最初は、一人だった。


 それが、二人になり、十人になり、百人になった。


 歓声ではなかった。


 勝鬨でもなかった。


 ただ、生き残った者たちが生き残ったことを確かめ合うような、嗚咽混じりの声だった。


 守った。


 この街を。


 数千人の、動けない人々を。


 誰一人、悪魔に狩られることなく。


 割れた氷を乗り越えて、特務班が北門へと戻ってきた。


 フィールが、真っ先に蓮の前に膝をついた。何も言わなかった。ただ、蓮の肩を掴んで、額を押しつけてきた。その肩が、小刻みに震えていた。


 ロイが、ヴァイスに肩を貸しながら戻ってきた。


 ユーリとリアムが、互いを支え合いながら戻ってきた。


 最後に、城壁の階段を、ミラが降りてきた。


 少女は北門の前に立ち、戻ってきた仲間たちを一人ひとり見つめた。


 その唇が、動いた。


「……十」


 かすれた声だった。


 北の丘の夜以来、ミラが初めて口にした言葉だった。


「十、引く、三」


 トーレ。ネロ。そして今夜、すり鉢の縁に焦げた槍の穂先だけを残して消えた、オルト。


「……七」


 ミラはそこで、崩れるように座り込んだ。


 誰も、何も言わなかった。


 ただ、七人が、七人のままでそこにいた。






 夜が更けた頃。


 詰所の一室で、キネシスは帳面を開いていた。


 焼けた両手には、分厚く包帯が巻かれていた。羽根ペンを握ることすら痛むはずだった。それでも青年は、一文字ずつゆっくりと、紙の上に刻んでいった。


 蓮はその傍らに座っていた。報告のために呼ばれたのだった。


 サナトリア北門。悪魔アスモデウス、来襲。


 貴族タイタン、窓の内側にて爆裂の光を受け重傷。


 貴族テルモ、窓を枷にて固定し悪魔の左腕を焼く。腹部に掌打を受け重傷。


 貴族サナトス、素手にて悪魔の手首を掴み、窓を作る。両手に重度の火傷。


 貴族キネシス、窓の開いた悪魔を「移動」にて上空へ運ぶ。両手に火傷。


 特務班、窓の内側を突く。悪魔の胸、脇腹、太腿、肩、翼を貫く。蓮、悪魔の右手首を斬り落とす。


 斥候オルト、殉職。爆裂の光にて。


 悪魔アスモデウス、撤退。


 討伐、ならず。


 キネシスのペンが、そこで止まった。


「……討伐、ならず」


 青年は、自分の書いた文字を声に出して読んだ。


「貴族四人がかりで。特務班の全員で。何度も窓を開けて。……それでも、討てなかった」


 蓮は何も言えなかった。


「窓は開く。確かに開く。だが、開けるたびに、貴族が死にかける」


 キネシスは包帯の巻かれた自分の手を見つめた。


「タイタン殿は、明日の癒やしで命は繋がるだろう。だが、次に同じことをすれば、今度こそ死ぬ。……窓を開ける者の負担が、大きすぎる」


 蓮も感じていたことだった。


 窓は、貴族にしか開けられない。


 そして窓を開けた貴族は、その瞬間から、悪魔の間合いの内側に立つことになる。


 自分が開けられれば。


 蓮は、自分の手のひらを見つめた。


 北の丘で、悪魔の手首を掴んだ手。何も起きなかった手。


 ――あなたには、鍵がかかっている。


 自分には、窓が開けられない。


 開けられるのは、貴族だけ。


 自分にできるのは、貴族が命がけで開けた窓の中に、剣を突き入れることだけだった。


 キネシスが、ペンを持ち直した。


 そして、帳面の最後に、もう一行を書き加えた。


 蓮には、その文字が読めた。


 悪魔曰く、同胞は自爆せず。エスクーダの光もまた、目くらましの爆裂なり。


 蓮の心臓が、どくりと跳ねた。


 キネシスは、ペンを置いた。


 そして、顔を上げずに、言った。


「あの時。お前は、エスクーダの悪魔が自爆したと言ったな」


 蓮の喉が、凍りついた。


「……混乱して、いました」


 ようやく、それだけを答えた。


 キネシスは、しばらく何も言わなかった。指先が、机の縁を一度だけ叩いた。


「そうか」


 青年は、帳面を閉じた。


「今夜は休め」


 それだけだった。


 蓮は立ち上がり、頭を下げ、部屋を出た。


 扉を閉める直前に振り返った。


 キネシスは閉じた帳面の上に焼けた手を置いたまま、じっと窓の外の夜を見つめていた。


 その横顔が、何を考えているのか分からなかった。


 詰所の中庭に出ると、夜風が頬を撫でた。


 見上げた空に、星が瞬いていた。


 中庭の隅に漆黒の門の跡がうっすらと残っていた。


 ゲートが開いた門だ。


 あの男は戦いの間、一度も姿を見せなかった。


 ――門は、日に何度も開けるものではないんだ。今日はもう、あと一度がいいところでね。


 あと一度。


 その一度は、最後まで使われなかった。


 北門で貴族たちが死にかけていた、あの時にも。


 門の跡から目を逸らした。


 考えても、答えは出なかった。


 ただ、夜の底で。


 何かが、静かに、動き始めた。

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