空へ
ピシリ。
ピシピシピシピシピシ――。
亀裂が走る。
一本ではなかった。悪魔の右足を中心に、蜘蛛の巣のように、何十本もの亀裂が氷の大地を駆け抜けていく。北門の前から、すり鉢の縁まで。三十歩の距離を、一瞬で。
そして。
バキイイイイイイイイインッ!!
氷の大地が、砕けた。
テルモが作った分厚い氷が、無数の板となって跳ね上がった。傾く。ずれる。ぶつかり合う。平らだった荒野が、一瞬にして、割れた氷の山に変わった。
「うわああああッ!?」
三十歩向こうで、悲鳴が上がった。
すり鉢の縁で起き上がりかけていたフィールたちの足元が崩れていた。ロイが、傾いた氷の板の上を滑り落ちていく。ヴァイスが、折れた腕を庇いながら氷の隙間に膝まで呑まれていた。ユーリを背負おうとしていたリアムが、跳ね上がった氷の角に打たれて転がった。
「蓮ッ!! 蓮――ッ!!」
フィールの声が、割れた氷の向こうから聞こえた。
遠かった。
三十歩。
さっきまでは、走れば届いた距離だった。今は氷の山に阻まれて、どこまでも遠かった。
足一本。
たった一踏みで。
この悪魔は、北門と特務班を、切り離したのだ。
「失礼いたしました」
アスモデウスは、穏やかに言った。
「皆様にまとめてお越しいただくと、手のない身には、少々骨が折れますので」
北門の前に残されたのは。
剣を振り抜いた姿勢のまま、肩で息をする蓮。
壁際で焼けた両手を胸に抱えるサナトス。その体を抱きかかえる、腹を血に染めたテルモ。
門の内側で、泣きじゃくるレミエルを背に庇うキネシス。
そして、両手のない悪魔。
蓮は剣を構え直した。
手が震えていた。膝が笑っていた。それでも、剣先だけは悪魔の胸に向けていた。
「……通さない」
また、同じことを言った。ほかに言える言葉がなかった。
「ええ」
アスモデウスは頷いた。
「存じております。あなたは、通さない方です」
悪魔が、踏み込んだ。
速い。
見えなかった。
気づいた時には、悪魔の膝が、蓮の剣の腹を横から打っていた。
ガキィン!!
剣が、手から弾き飛ばされた。
次の瞬間、悪魔の足の甲が、蓮の脇腹に、そっと添えられていた。
そっと。
まるで、扉を押し開けるように。
「少しだけ、お待ちください」
トン。
蓮の体が、真横に吹き飛んだ。
北門の石壁に、背中から叩きつけられる。
ガンッ!!
肺の空気が、全部抜けた。視界が明滅した。ずるずると壁を滑り落ちる。立とうとする。膝が、言うことを聞かない。
――手がなくとも、武は、ございます。
その言葉の意味を、蓮は体で知った。
この悪魔にとって、手は武の一部でしかなかったのだ。膝も、足も、肩も、背も、体の全てが、長い年月をかけて磨き上げられた武器だった。
両手を失っても。
この悪魔は、何一つ、失っていなかった。
アスモデウスは、壁際へ歩いた。テルモとサナトスの前へ。
テルモが、顔を上げた。
その右手が、持ち上がった。悪魔へ。
「――燃え」
「無駄です」
悪魔は、静かに言った。
「触れていなければ、あなたの炎は、私には届きません」
テルモの手が、止まった。
知っている。
テルモは知っているのだ。窓が閉じていれば、いくら燃やそうと見えない壁に霧散するだけだと。
「そして、触れれば」
悪魔の右足が、ゆっくりと、持ち上がった。
テルモの、肩の上へ。
「窓は、両側から開く」
トン。
悪魔の足の裏が、テルモの肩に、置かれた。
接触の瞬間。見えない壁が阻む。
阻む。
だが足は、離れなかった。
テルモの肩を、上から、静かに押さえつけている。
触れている。
窓が、開いた。
「燃やしなさい」
アスモデウスは、言った。
「どうぞ。この足を。……ただし」
悪魔の左の膝が、わずかに曲がった。
右足一本で、テルモの肩を押さえつけたまま。
その重心が、ゆっくりと、前へ移っていく。
「あなたが燃やし尽くすのと、私がこの足に体を乗せるのと。どちらが先か、試してみましょうか」
テルモの肩が、みしりと鳴った。
一撃目は阻まれた。
今、悪魔は、二撃目の準備をしている。
足の裏で。
テルモの肩から胸へ、体重を乗せて、踏み抜くための。
「テルモ殿……!」
サナトスが、焼けた手を悪魔の足へ伸ばそうとした。その指は、もう何も掴めなかった。
「――燃えろッ!!」
テルモが吠えた。
悪魔の右足が、炎に包まれた。
ゴオオオッ!!
だが。
悪魔は、足を引かなかった。
燃える足で、テルモの肩を踏みしめたまま。
ゆっくりと。
体重を、乗せていく。
みしり。
みしり。
テルモの口から、押し殺した呻きが漏れた。肩の骨が、軋んでいく。
燃える。
踏む。
燃える。
踏む。
炎と重みの、我慢比べ。
だが、それは。
最初から、勝負になっていなかった。
悪魔は、焼かれることを、何とも思っていないのだから。
「――キネシス様ッ!!」
蓮は、壁際から叫んでいた。
立てない。
手が届かない。
叫ぶことしか、できなかった。
キネシスが。
門の内側で、動いた。
レミエルを突き飛ばすように離し、一歩、前へ。
そして。
跳ばなかった。
走った。
自分の足で。
「移動」の力を持つ貴族が、跳ばずに、走っていた。
視線を読まれるなら、跳ばなければいい。
五歩。
四歩。
三歩。
悪魔の目が、ちらりと、キネシスを見た。
だが、その体は、テルモを踏みしめたまま、動かなかった。動けなかった。今、足を離せば、テルモを仕留め損なう。
二歩。
一歩。
キネシスの両手が、悪魔の燃える右足に、しがみついた。
「――ッ!!」
青年の手のひらが、ジュウッと音を立てた。燃えている。テルモの炎に焼かれている足だ。熱い。熱くないはずがない。
それでも。
キネシスは、手を離さなかった。
接触の瞬間。見えない壁が阻む。
阻む。
だが、離さない。
触れた。
今、悪魔の右足には、二人の貴族が触れていた。
テルモの肩と。
キネシスの両手と。
「……何を、なさるおつもりですか」
アスモデウスが、初めて、キネシスをまっすぐに見た。
青年は、答えなかった。
ただ。
顔を、上げた。
夜空へ。
まっすぐに。
真上へ。
蓮には、分かった。
自分と、周り数歩の者を、見える場所へ跳ばす。
守りを持つ者は、触れていなければ運べない。
裏を返せば。
触れていれば、運べる。
そして今、キネシスに触れているのは。
窓の開いた、悪魔の足だった。
「読んでも構わん」
キネシスが、初めて口を開いた。
その目は、夜空の一点を見つめていた。
「どうせ、逃げ場のない場所だ」
アスモデウスの目が、見開かれた。
悪魔の足が、テルモの肩から、浮いた。
浮いたのではない。
消えた。
悪魔と、キネシスが。
北門の前から。
同時に。
風。
凄まじい風が、キネシスの全身を叩いた。
息ができない。耳が千切れそうに痛い。冷たい。夜の空気が、刃物のように肌を切り裂いていく。
眼下に。
サナトリアがあった。
白い都。丘の斜面を埋め尽くす、無数の灯り。北門の篝火。その前に広がる、砕けた氷の荒野。全てが、玩具のように小さかった。
視界の、一番高いところ。
キネシスが見上げた、夜空の一点。
そこに、二人は浮かんでいた。
一瞬だけ。
そして。
落ち始めた。
「――ッ!!」
アスモデウスの背で、たった一枚の翼が、激しく羽ばたいた。
バサッ!! バサバサバサッ!!
だが、一枚の翼では、体は浮かなかった。ただ、きりもみに回転するだけだった。悪魔の体が、夜空の中で、ぐるぐると回る。
キネシスは、悪魔の足にしがみついたまま、その回転に振り回されていた。
世界が回る。
星が回る。
都の灯りが回る。
それでも青年は、目を閉じなかった。
見なければ、跳べない。
回転する視界の中で、キネシスは、一点を探した。
北門。
篝火。
回る。回る。回る。
見えた。
一瞬だけ。
篝火の、橙色の光が、視界の真ん中を横切った。
キネシスは、悪魔の足から、手を離した。
離れた。
窓が、閉じた。
そして。
跳んだ。
篝火へ。
一人で。
ドサッ。
北門の石畳の上に、キネシスが転がり出た。
両手のひらが、焼け爛れていた。全身が、冷たい夜風に凍えていた。それでも、生きていた。
「キネシス様ッ!!」
蓮は、壁を這うようにして、青年の傍らへ寄った。
キネシスは、荒い息のまま、仰向けに倒れていた。その目が、夜空を見上げていた。
蓮も、見上げた。
夜空の、ずっとずっと高いところに。
小さな黒い影が、あった。
回りながら。
羽ばたきながら。
それでも、浮かび上がることはできずに。
落ちてくる。
北門から、遠く離れた、荒野の彼方へ。
ゆっくりと。
いや、恐ろしい速さで。
夜空に、黒い一本の線を引きながら。
そして。
ズウウウウウウウウウウウンッ……!!
遠く。
はるか遠くの荒野で。
地面が、揺れた。
大地が鳴った。夜の彼方で、土煙が月明かりの中に白く高く立ち昇っていくのが見えた。
北門の前に、静寂が降りた。
誰も、何も、言わなかった。
割れた氷の向こうで、フィールたちが呆然と夜の彼方を見つめていた。
城壁の上で、ミラが弓を下ろしていた。
テルモが、踏まれた肩を押さえたまま、夜空を見上げていた。
「……落とした」
キネシスが、仰向けのまま呟いた。
「窓の開いた悪魔を……私の力で、運べた」
それから、小さく息を吐いた。
「……だが、手を離した時に、窓は閉じた。地に落ちる痛みなど、あの殻には届いていまい」
蓮は、はっとして青年の顔を見た。
「掴んだまま落ちれば、窓は開いたままだった。あれを、地に叩きつけられた。……私ごと」
青年は、一度だけ、目を閉じた。
「先代なら、そうしたかもしれん」
それでも。
あの悪魔を、テルモの肩の上から引き剥がした。北門から、何百歩も彼方へ。
青年の焼けた手が、夜空へ向かって、わずかに持ち上がった。
震えていた。
「触れている間は……私の力も、悪魔に、届く」
蓮は、その言葉を胸の奥で繰り返した。
窓は、両側から開く。
貴族のスキルも、悪魔に届く。
遠い荒野の、土煙の中。
何も、動かなかった。
しばらくの間は。
そして。
白い土煙の向こうで。
何かが、ゆっくりと。
立ち上がった。




