↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
37/176

空へ

 ピシリ。


 ピシピシピシピシピシ――。


 亀裂が走る。


 一本ではなかった。悪魔の右足を中心に、蜘蛛の巣のように、何十本もの亀裂が氷の大地を駆け抜けていく。北門の前から、すり鉢の縁まで。三十歩の距離を、一瞬で。


 そして。


 バキイイイイイイイイインッ!!


 氷の大地が、砕けた。


 テルモが作った分厚い氷が、無数の板となって跳ね上がった。傾く。ずれる。ぶつかり合う。平らだった荒野が、一瞬にして、割れた氷の山に変わった。


「うわああああッ!?」


 三十歩向こうで、悲鳴が上がった。


 すり鉢の縁で起き上がりかけていたフィールたちの足元が崩れていた。ロイが、傾いた氷の板の上を滑り落ちていく。ヴァイスが、折れた腕を庇いながら氷の隙間に膝まで呑まれていた。ユーリを背負おうとしていたリアムが、跳ね上がった氷の角に打たれて転がった。


「蓮ッ!! 蓮――ッ!!」


 フィールの声が、割れた氷の向こうから聞こえた。


 遠かった。


 三十歩。


 さっきまでは、走れば届いた距離だった。今は氷の山に阻まれて、どこまでも遠かった。


 足一本。


 たった一踏みで。


 この悪魔は、北門と特務班を、切り離したのだ。


「失礼いたしました」


 アスモデウスは、穏やかに言った。


「皆様にまとめてお越しいただくと、手のない身には、少々骨が折れますので」


 北門の前に残されたのは。


 剣を振り抜いた姿勢のまま、肩で息をする蓮。


 壁際で焼けた両手を胸に抱えるサナトス。その体を抱きかかえる、腹を血に染めたテルモ。


 門の内側で、泣きじゃくるレミエルを背に庇うキネシス。


 そして、両手のない悪魔。


 蓮は剣を構え直した。


 手が震えていた。膝が笑っていた。それでも、剣先だけは悪魔の胸に向けていた。


「……通さない」


 また、同じことを言った。ほかに言える言葉がなかった。


「ええ」


 アスモデウスは頷いた。


「存じております。あなたは、通さない方です」


 悪魔が、踏み込んだ。


 速い。


 見えなかった。


 気づいた時には、悪魔の膝が、蓮の剣の腹を横から打っていた。


 ガキィン!!


 剣が、手から弾き飛ばされた。


 次の瞬間、悪魔の足の甲が、蓮の脇腹に、そっと添えられていた。


 そっと。


 まるで、扉を押し開けるように。


「少しだけ、お待ちください」


 トン。


 蓮の体が、真横に吹き飛んだ。


 北門の石壁に、背中から叩きつけられる。


 ガンッ!!


 肺の空気が、全部抜けた。視界が明滅した。ずるずると壁を滑り落ちる。立とうとする。膝が、言うことを聞かない。


 ――手がなくとも、武は、ございます。


 その言葉の意味を、蓮は体で知った。


 この悪魔にとって、手は武の一部でしかなかったのだ。膝も、足も、肩も、背も、体の全てが、長い年月をかけて磨き上げられた武器だった。


 両手を失っても。


 この悪魔は、何一つ、失っていなかった。


 アスモデウスは、壁際へ歩いた。テルモとサナトスの前へ。


 テルモが、顔を上げた。


 その右手が、持ち上がった。悪魔へ。


「――燃え」


「無駄です」


 悪魔は、静かに言った。


「触れていなければ、あなたの炎は、私には届きません」


 テルモの手が、止まった。


 知っている。


 テルモは知っているのだ。窓が閉じていれば、いくら燃やそうと見えない壁に霧散するだけだと。


「そして、触れれば」


 悪魔の右足が、ゆっくりと、持ち上がった。


 テルモの、肩の上へ。


「窓は、両側から開く」


 トン。


 悪魔の足の裏が、テルモの肩に、置かれた。


 接触の瞬間。見えない壁が阻む。


 阻む。


 だが足は、離れなかった。


 テルモの肩を、上から、静かに押さえつけている。


 触れている。


 窓が、開いた。


「燃やしなさい」


 アスモデウスは、言った。


「どうぞ。この足を。……ただし」


 悪魔の左の膝が、わずかに曲がった。


 右足一本で、テルモの肩を押さえつけたまま。


 その重心が、ゆっくりと、前へ移っていく。


「あなたが燃やし尽くすのと、私がこの足に体を乗せるのと。どちらが先か、試してみましょうか」


 テルモの肩が、みしりと鳴った。


 一撃目は阻まれた。


 今、悪魔は、二撃目の準備をしている。


 足の裏で。


 テルモの肩から胸へ、体重を乗せて、踏み抜くための。


「テルモ殿……!」


 サナトスが、焼けた手を悪魔の足へ伸ばそうとした。その指は、もう何も掴めなかった。


「――燃えろッ!!」


 テルモが吠えた。


 悪魔の右足が、炎に包まれた。


 ゴオオオッ!!


 だが。


 悪魔は、足を引かなかった。


 燃える足で、テルモの肩を踏みしめたまま。


 ゆっくりと。


 体重を、乗せていく。


 みしり。


 みしり。


 テルモの口から、押し殺した呻きが漏れた。肩の骨が、軋んでいく。


 燃える。


 踏む。


 燃える。


 踏む。


 炎と重みの、我慢比べ。


 だが、それは。


 最初から、勝負になっていなかった。


 悪魔は、焼かれることを、何とも思っていないのだから。


「――キネシス様ッ!!」


 蓮は、壁際から叫んでいた。


 立てない。


 手が届かない。


 叫ぶことしか、できなかった。


 キネシスが。


 門の内側で、動いた。


 レミエルを突き飛ばすように離し、一歩、前へ。


 そして。


 跳ばなかった。


 走った。


 自分の足で。


 「移動」の力を持つ貴族が、跳ばずに、走っていた。


 視線を読まれるなら、跳ばなければいい。


 五歩。


 四歩。


 三歩。


 悪魔の目が、ちらりと、キネシスを見た。


 だが、その体は、テルモを踏みしめたまま、動かなかった。動けなかった。今、足を離せば、テルモを仕留め損なう。


 二歩。


 一歩。


 キネシスの両手が、悪魔の燃える右足に、しがみついた。


「――ッ!!」


 青年の手のひらが、ジュウッと音を立てた。燃えている。テルモの炎に焼かれている足だ。熱い。熱くないはずがない。


 それでも。


 キネシスは、手を離さなかった。


 接触の瞬間。見えない壁が阻む。


 阻む。


 だが、離さない。


 触れた。


 今、悪魔の右足には、二人の貴族が触れていた。


 テルモの肩と。


 キネシスの両手と。


「……何を、なさるおつもりですか」


 アスモデウスが、初めて、キネシスをまっすぐに見た。


 青年は、答えなかった。


 ただ。


 顔を、上げた。


 夜空へ。


 まっすぐに。


 真上へ。


 蓮には、分かった。


 自分と、周り数歩の者を、見える場所へ跳ばす。


 守りを持つ者は、触れていなければ運べない。


 裏を返せば。


 触れていれば、運べる。


 そして今、キネシスに触れているのは。


 窓の開いた、悪魔の足だった。


「読んでも構わん」


 キネシスが、初めて口を開いた。


 その目は、夜空の一点を見つめていた。


「どうせ、逃げ場のない場所だ」


 アスモデウスの目が、見開かれた。


 悪魔の足が、テルモの肩から、浮いた。


 浮いたのではない。


 消えた。


 悪魔と、キネシスが。


 北門の前から。


 同時に。


 風。


 凄まじい風が、キネシスの全身を叩いた。


 息ができない。耳が千切れそうに痛い。冷たい。夜の空気が、刃物のように肌を切り裂いていく。


 眼下に。


 サナトリアがあった。


 白い都。丘の斜面を埋め尽くす、無数の灯り。北門の篝火。その前に広がる、砕けた氷の荒野。全てが、玩具のように小さかった。


 視界の、一番高いところ。


 キネシスが見上げた、夜空の一点。


 そこに、二人は浮かんでいた。


 一瞬だけ。


 そして。


 落ち始めた。


「――ッ!!」


 アスモデウスの背で、たった一枚の翼が、激しく羽ばたいた。


 バサッ!! バサバサバサッ!!


 だが、一枚の翼では、体は浮かなかった。ただ、きりもみに回転するだけだった。悪魔の体が、夜空の中で、ぐるぐると回る。


 キネシスは、悪魔の足にしがみついたまま、その回転に振り回されていた。


 世界が回る。


 星が回る。


 都の灯りが回る。


 それでも青年は、目を閉じなかった。


 見なければ、跳べない。


 回転する視界の中で、キネシスは、一点を探した。


 北門。


 篝火。


 回る。回る。回る。


 見えた。


 一瞬だけ。


 篝火の、橙色の光が、視界の真ん中を横切った。


 キネシスは、悪魔の足から、手を離した。


 離れた。


 窓が、閉じた。


 そして。


 跳んだ。


 篝火へ。


 一人で。


 ドサッ。


 北門の石畳の上に、キネシスが転がり出た。


 両手のひらが、焼け爛れていた。全身が、冷たい夜風に凍えていた。それでも、生きていた。


「キネシス様ッ!!」


 蓮は、壁を這うようにして、青年の傍らへ寄った。


 キネシスは、荒い息のまま、仰向けに倒れていた。その目が、夜空を見上げていた。


 蓮も、見上げた。


 夜空の、ずっとずっと高いところに。


 小さな黒い影が、あった。


 回りながら。


 羽ばたきながら。


 それでも、浮かび上がることはできずに。


 落ちてくる。


 北門から、遠く離れた、荒野の彼方へ。


 ゆっくりと。


 いや、恐ろしい速さで。


 夜空に、黒い一本の線を引きながら。


 そして。


 ズウウウウウウウウウウウンッ……!!


 遠く。


 はるか遠くの荒野で。


 地面が、揺れた。


 大地が鳴った。夜の彼方で、土煙が月明かりの中に白く高く立ち昇っていくのが見えた。


 北門の前に、静寂が降りた。


 誰も、何も、言わなかった。


 割れた氷の向こうで、フィールたちが呆然と夜の彼方を見つめていた。


 城壁の上で、ミラが弓を下ろしていた。


 テルモが、踏まれた肩を押さえたまま、夜空を見上げていた。


「……落とした」


 キネシスが、仰向けのまま呟いた。


「窓の開いた悪魔を……私の力で、運べた」


 それから、小さく息を吐いた。


「……だが、手を離した時に、窓は閉じた。地に落ちる痛みなど、あの殻には届いていまい」


 蓮は、はっとして青年の顔を見た。


「掴んだまま落ちれば、窓は開いたままだった。あれを、地に叩きつけられた。……私ごと」


 青年は、一度だけ、目を閉じた。


「先代なら、そうしたかもしれん」


 それでも。


 あの悪魔を、テルモの肩の上から引き剥がした。北門から、何百歩も彼方へ。


 青年の焼けた手が、夜空へ向かって、わずかに持ち上がった。


 震えていた。


「触れている間は……私の力も、悪魔に、届く」


 蓮は、その言葉を胸の奥で繰り返した。


 窓は、両側から開く。


 貴族のスキルも、悪魔に届く。


 遠い荒野の、土煙の中。


 何も、動かなかった。


 しばらくの間は。


 そして。


 白い土煙の向こうで。


 何かが、ゆっくりと。


 立ち上がった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。