癒やしの手
走る。
走る。
走る。
氷が砕ける。足が滑る。胸の骨が軋む。構わない。構わない。構わない。
三十歩。
遠い。
あまりにも、遠い。
北門の真ん中で、悪魔の右の掌がテルモへと伸びていく。ゆっくりと、丁寧に。眠る子どもの額に触れるように。
テルモは動けなかった。壁に背を預けたまま、腹を押さえたまま、ただその掌を見上げていた。その目に、恐怖はなかった。ただ、静かだった。燃え尽きた後の灰のように。
間に合わない。
間に合わない。
間に合わな――
その時。
白い長衣が、揺れた。
悪魔の掌と、テルモの間に。
一人の老人が、立っていた。
「――サナトス様ッ!!」
レミエルの絶叫が、門の内側に響き渡った。
サナトスは、テルモを背に庇うように両腕を広げていた。武を持たぬ手を、何も持たぬ手を、ただ広げて。
アスモデウスの掌が、止まった。
老人の胸の、指一本手前で。
「……おや」
悪魔は、静かに首を傾げた。
「あなたの番は、最後だと申し上げたはずですが」
「ええ」
サナトスは頷いた。
「ですから、お願いしに参りました」
老人の声は、震えていなかった。
「私の番を、今にしていただけませんか」
城壁の上の誰もが、息を呑んだ。
蓮の足が、一瞬止まりかけた。
何を。
何を言っているんだ、あの人は。
「私はもう、癒やせません」
サナトスは静かに続けた。
「今日の癒やしは、全て使い果たしました。……ですが、この身はまだ、ここに立てます。剣を持てずとも、この身を盾には、できるのです」
詰所で聞いたのと、同じ言葉だった。
アスモデウスは、しばらく老人を見つめていた。そして、ほんの少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「……承知いたしました」
掌が、動いた。
老人の胸へ。
その瞬間。
サナトスが、動いた。
伸びてくる悪魔の右の手首を。
両手で。
しっかりと。
掴んだ。
「――ッ!?」
アスモデウスの目が、見開かれた。
接触の瞬間。見えない壁が、老人の手を阻む。
阻む。
だが。
老人の手は、離れなかった。
皺だらけの、細い指が。四百五十年、人を癒やし続けてきた指が。悪魔の手首に、ぴたりと吸いつくように、絡みついていた。
触れた。
窓が、開いた。
「糧の方が……自ら、触れますか」
悪魔の声に、初めて、驚きが混じった。
サナトスは、微笑んだ。
「癒やしの手というものは」
老人は、悪魔の手首を握りしめたまま、言った。
「触れるために、あるのですよ」
貴族同士は、触れ合わなければ癒やしが届かない。
だから、この老人は。
四百五十年間。
ずっと、誰かに触れ続けてきたのだ。
触れることの意味を、この戦場の誰よりも、知っている男だった。
「――テルモ殿!!」
サナトスが叫んだ。
老人の背後で。
壁に背を預けていた男の目に。
灰の底から。
火が、灯った。
ゴオオオオオオオオッ!!
悪魔の右腕が、燃え上がった。
肘から先。サナトスが握りしめている手首から、指先まで。紅蓮の炎が、悪魔の腕だけを包み込む。
テルモだった。
座り込んだまま、立ち上がることもできないまま、その右手だけがまっすぐに悪魔の腕へ向けられていた。
視界の全ての温度を変える力。
何を変えるかは、テルモが選ぶ。
悪魔の腕だけを。
サナトスの手には、触れずに。
だが。
サナトスの顔が、歪んだ。
「ぐ……ッ!」
炎はサナトスを焼いていない。テルモの炎は、選んだものしか焼かない。
だが、悪魔の腕は燃えている。
その燃える腕を、サナトスは、素手で握りしめている。
熱が。
伝わる。
老人の手のひらから、白い煙が上がり始めた。
「サナトス殿、手を――!!」
テルモが叫んだ。
「離しません」
サナトスは、歯を食いしばっていた。
「離せば、窓が閉じます」
老人の手のひらの皮膚が、赤く、黒く、変わっていく。四百五十年、人を癒やしてきた手が。癒やしの光を放ち続けてきた手が。
燃える悪魔の腕に、焼かれていく。
「熱くは……ありません」
嘘だった。
誰の目にも、嘘だと分かった。
「サナトス様ぁぁぁぁッ!!」
レミエルが、門の奥から駆け出そうとした。キネシスがその肩を掴み、引き戻した。少女は青年の腕の中で暴れ、叫び、泣きじゃくった。
アスモデウスは、燃える自分の腕を見ていた。
それから、その腕を握りしめる、焼けていく老人の手を見た。
「……素晴らしい」
悪魔は、呟いた。
「本当に、素晴らしい。けれど」
悪魔の手首が、くるりと、回った。
タイタンの握りをほどいた、あの技。
老人の細い指が、あっけなく、押し広げられていく。
握りが、ほどける。
窓が。
閉じ――
「――させるかあああああああああッ!!」
蓮は、跳んでいた。
三十歩。
届いていた。
どうやって届いたのか、分からなかった。ただ、走った。走って、走って、走った。その先に、あの手があった。焼けていく老人の手が。ほどけかけた、老人の指が。
蓮は、剣を振りかぶっていた。
窓は、まだ閉じていない。
老人の指が、まだ一本だけ、悪魔の手首に引っかかっている。
一本。
たった、一本。
それで、十分だった。
「おおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
振り下ろす。
全身の力を込めて。
砕けた胸の痛みも。焼けた老人の手も。消えたオルトも。倒れたタイタンも。ダインも、イライザも、ムーヴも、トーレも、ネロも。
全てを。
この一太刀に。
ザンッ!!
手応えが。
あった。
硬い。
骨だ。
止まるな。
止まるな止まるな止まるな止まるな――!!
通れえええええええええええッ!!
ザシュウウッ!!
刃が、抜けた。
蓮の剣が、振り抜かれていた。
悪魔の右の手首から先が。
燃えながら。
宙を、舞っていた。
くるくると。
くるくると。
夜空に、炎の輪を描きながら。
そして。
ぼとり、と。
氷の上に、落ちた。
静寂が、北門を満たした。
サナトスが、焼けた両手を胸に抱えたまま膝から崩れ落ちた。その体を、テルモが這うようにして受け止めた。
蓮は、剣を振り抜いた姿勢のまま、動けなかった。
肩で息をしていた。
視界が、揺れていた。
アスモデウスが、自分の右腕を見下ろしていた。
手首から先が、なかった。
黒い血が、ぼたぼたと、氷の上に落ちていた。焼けた断面から、白い煙が細く立ち昇っていた。
左腕は、テルモに焼かれて動かない。
右手は、今、失った。
悪魔は、足元に落ちた自分の手を見つめていた。
白い布を巻いた、その手を。
礼をするたびに、胸の前で合わせていた、その手を。
長い、長い沈黙の後。
アスモデウスは、ぽつりと言った。
「……ああ」
その声は、どこまでも穏やかだった。
「これでは、礼ができませんね」
蓮の背筋に、冷たいものが走った。
怒りではなかった。
悲しみでもなかった。
ただ、純粋に、困っていた。
両手を失ったことよりも。
礼ができなくなったことに。
そして。
蓮の頭の中で、もう一つの事実が、静かに形を結んだ。
――手を塞いでしまえば、何も撃てないわ。
イライザの声。
悪魔も、手のひらで陣を編む。さっき、この目で見た。
手がなければ。
撃てない。
左手は、焼けて動かない。
右手は、もう、ない。
この悪魔は。
もう、あの光を、放てない。
「――今だ」
蓮の口から、声が漏れた。
「今しか、ない……!!」
三十歩向こうの、すり鉢の縁で。フィールが、起き上がっていた。ロイが、剣を拾っていた。ヴァイスが、折れた腕を押さえながら左手で短剣を握っていた。リアムが、気を失ったままのユーリを背に庇っていた。城壁の上で、ミラが最後の一本の矢を番えていた。
キネシスが、レミエルを離して、一歩前へ出ていた。
テルモが、サナトスを抱えたまま、燃える目で悪魔を睨んでいた。
誰もが、同じことを考えていた。
両手のない悪魔。
魔法の撃てない悪魔。
今なら。
今ならば。
アスモデウスは、そんな彼らをゆっくりと見回した。
一人ひとりの顔を。
確かめるように。
覚えるように。
そして、静かに、微笑んだ。
「手がなくとも」
悪魔は、一歩、後ろへ下がった。
たった一枚の翼が、夜の闇の中で、大きく広がった。
「武は、ございます」
悪魔の右足が、氷を踏んだ。
その足元から。
ピシリ、と。
テルモが作った分厚い氷の大地に、北門の端から端まで、一本の亀裂が走った。




