閃光
白。
世界が、白に塗り潰された。
音が消えた。色が消えた。夜が消えた。目を開けているのか閉じているのか、それすら分からない。ただ、白。どこまでも、白。
遅れて。
音が来た。
ドオオオオオオオオオオンッ!!
鼓膜が破れたかと思った。いや、破れたのかもしれない。耳の奥で何かが弾け、その後はただ、キィィィンという甲高い音だけが頭の中を満たした。
そして。
風が来た。
熱い。
熱い熱い熱い熱い――!!
背中から、巨大な手に殴り飛ばされたような衝撃。蓮の体が、紙切れのように宙を舞った。剣が手から離れる。天と地が何度も入れ替わる。氷が、夜空が、氷が、夜空が。
叩きつけられた。
氷の上を、滑る。転がる。削られる。十歩。二十歩。三十歩。
止まった。
蓮は、動けなかった。
全身が痛かった。どこが痛いのか分からないほど、全身が痛かった。繋がったばかりの胸の骨が、また何本か、嫌な音を立てていた。
――二度目は、ありません。
サナトスの声が、頭の奥で聞こえた。
白い光が、ゆっくりと引いていく。
蓮は首だけを動かして、辺りを見回した。
氷の大地が、円く抉れていた。
悪魔が立っていた場所を中心に、テルモが作った分厚い氷が、すり鉢のように吹き飛ばされていた。その縁から、白い湯気がもうもうと立ち昇っている。
その周りに。
人が、転がっていた。
フィールが、うつ伏せに倒れていた。動いている。肘をついて、起き上がろうとしている。生きている。
ヴァイスが、仰向けに倒れていた。右腕があり得ない方向に曲がっていた。呻いている。生きている。
ロイが、膝をついていた。額から血を流しながら、呆然と自分の手を見つめていた。生きている。
リアムが、氷の上を這っていた。
ユーリが、その傍らで、槍を握りしめたまま、ぴくりとも動かずにいた。
そして。
最後の一人は。
どこにも、いなかった。
いや。
すり鉢の縁に、黒く焦げた槍の穂先だけが突き立っていた。
槍は自分で研がないと気が済まない。そう言っていた、オルトの槍だった。
蓮は目を逸らせなかった。逸らしてはいけないと思った。
北の丘で、ミラが数えていた。数えなければ、なかったことになってしまう、と。
――八、引く、一。
蓮は、心の中で数えた。
――七。
城壁の上で、ミラが弓を下ろしていた。その唇が震えながら何かを数えているのが、見えた気がした。
「タイタン様ッ!!」
フィールの叫び声で、蓮は我に返った。
すり鉢の底。
そこに、巨漢が倒れていた。
タイタン。
悪魔を背後から抱きすくめていた姿勢のまま、両腕を前に突き出して、仰向けに倒れていた。
その体から、白い煙が上がっていた。
胴着が焼け落ちていた。胸から腹にかけて、皮膚が赤黒く爛れていた。髭が焼け焦げ、顔の半分が火傷で覆われていた。
悪魔の真後ろで。
窓の内側で。
加護の消えた体で。
あの光を、真正面から受けたのだ。
「息は……息はある……!!」
フィールが、巨漢の胸に耳を押し当てて叫んだ。
「でも、ひどい……こんな……!!」
サナトスの癒やしは、もうない。最後の一度は、蓮が使った。
蓮は、自分の胸を掴んだ。
あの一度を、タイタン様に使っていれば――
「……考えるな」
声がした。
すり鉢の底から。
タイタンの唇が、わずかに動いていた。
「……オレが、乗ったんだ……小僧……お前の、せいじゃ、ねえ……」
そして巨漢は、焼けた顔で笑った。
「……離さなかったぜ……最後まで、な……」
その目が、閉じた。
胸はまだ、かすかに上下していた。
キネシスが現れた。無言で巨漢の焼けた肩に手をかけ、次の瞬間には、二人の姿はすり鉢の底から消えていた。北門の内側、白い長衣の老人の傍らに、巨体が横たえられていた。
湯気の向こうに、影が立っていた。
アスモデウス。
悪魔は、すり鉢の中心に立っていた。
ひどい有様だった。
右肩を、ミラの矢が貫いたままだった。左の翼は根元から斬り落とされ、黒い血が背中を伝って流れ落ちていた。脇腹に、ロイの剣が刺さっていた。太腿に、フィールの剣が刺さっていた。ユーリの槍の傷が、リアムの短剣が、その体のあちこちに残っていた。
そして胸の真ん中に。
蓮の剣が、深々と突き刺さっていた。
それでも、立っていた。
悪魔は、自分の胸に刺さった剣を見下ろした。
右手で柄を握る。
ゆっくりと、引き抜く。
ズ、ズズ、ズ。
黒い血が、噴き出した。悪魔の足元の氷を、黒く染めていく。
アスモデウスは、抜いた剣を眺め、それから、倒れたままの蓮の方へ顔を向けた。
「お返しします」
剣が、放られた。
くるくると回りながら夜空を飛び、蓮の目の前の氷に、ざくりと突き立った。
「良い突きでした。……本当に」
悪魔は、体に刺さったほかの剣や矢を一本ずつ丁寧に抜いては、足元に置いていった。借りたものを返すように。
「驚かせてしまいましたね」
穏やかな声だった。
だが、どこか、困惑していた。
「目くらましのつもりでした。あの方の腕をほどくための。……同胞同士であれば、目が眩むだけの、ただの光なのですが」
悪魔は、すり鉢の縁で動かないユーリを見た。黒く焦げた槍の穂先を見た。
「人の身には、重すぎましたか」
蓮の全身が、冷たくなった。
目くらまし。
ただの光。
悪魔同士なら、目が眩むだけの。
――そんなもので。
人が一人、消えたのか。
そしてもう一つ。
蓮の頭の中で、何かが繋がった。
「……エスクーダの、悪魔は」
蓮は、かすれた声で言った。
言ってから、しまったと思った。洗脳された者は、エスクーダの真実を覚えていない。覚えているはずがない。
だが、止まらなかった。
「エスクーダの悪魔は……討たれる瞬間に、自爆した」
アスモデウスが、首を傾げた。
「自爆?」
悪魔は、心底不思議そうに言った。
「我ら同胞は、自爆などいたしませんよ。そのような魔法は、持ち合わせておりません」
蓮の息が、止まった。
「おそらくその者も、今の私と同じことをしたのでしょう。触れ合いの中で、目くらましの光を放った。……討たれるその瞬間に」
悪魔は、自分の手のひらを見つめた。
「触れ合っている間は、貴族の方々の守りも消える。……ですから、貴族の方が、亡くなられた」
ムーヴ。
蓮は、あの夜を思い出していた。
三人の貴族が、同時に悪魔を貫いた。タイタンの拳が、テルモの炎が、ムーヴの剣が。三人とも、悪魔に触れていた。窓の内側にいた。
そこへ。
ただの、目くらましの光が。
ムーヴは自爆に巻き込まれたのではなかった。
窓の内側にいたから、死んだのだ。
タイタンが今、焼かれたのと、同じように。
――窓は、両側から開く。
その意味が、今、骨の髄まで分かった。
窓を開ければ、悪魔の魔殻が消える。同時に、貴族の加護も消える。そして悪魔は、ただの目くらましで、窓の内側の全てを焼き払える。
窓を開けた者は。
いつでも、殺されうる。
「さて」
アスモデウスが、顔を上げた。
全身から黒い血を流しながら。翼を一枚失いながら。胸に穴を開けながら。
それでも、その声は穏やかだった。
だが。
何かが、違っていた。
「客人の皆様には、存分にお相手いただきました。三手。いえ、四手でしょうか。……楽しい手合わせでした」
悪魔は、北門を見た。
門の内側。
タイタンが横たわっている。
テルモが壁に背を預けて座り込んでいる。
その傍らに、キネシスが立っている。
そして、白い長衣の老人。
「ここからは」
アスモデウスは、静かに言った。
「私の番です」
悪魔の姿が、消えた。
蓮には、見えなかった。
跳んだのでもない。「移動」の光もない。ただ、そこにいた悪魔が、次の瞬間には、いなかった。
狩りの間は、歩く。
北の丘で見た悪魔は、散歩でもするように野を歩いていた。
ならば今は。
もう、狩りの間ではないのだ。
ガアアアアンッ!!
北門が、鳴った。
蓮は首を捻じ曲げて、北門を見た。
開いたままの門の、その真ん中に。
アスモデウスが、立っていた。
たった一枚の翼を広げて。
三十歩の距離を。
瞬きよりも、速く。
「テルモ様ッ!!」
城壁の上で、誰かが叫んだ。
悪魔の真正面に、壁に背を預けたテルモがいた。
テルモは顔を上げた。
腹を押さえた指の間から、まだ血が滲んでいた。立ち上がろうとして、立ち上がれなかった。
悪魔の右の掌が、ゆっくりと、テルモへと伸びていく。
「先ほどは、良い炎をいただきました」
穏やかに。
丁寧に。
あの集落の人々に、そうしたように。
「お礼に」
触れる。
触れたら、窓が開く。
窓が開いたら、テルモの加護が消える。
そして、目くらましの光が。
それとも、あの掌が――
「――やめろおおおおおおおおおおッ!!」
蓮は、立ち上がっていた。
また。
剣を、掴んでいた。
三十歩。
悪魔の速さの前では、永遠に等しい距離。
それでも蓮は、走り出していた。




