最後の癒やし
「蓮――!!」
フィールが駆け寄ってきた。
ロイが、ヴァイスが、オルトとユーリとリアムが駆けつけた。キネシスをその場に座らせ、全員で蓮の周りを囲むように剣を構える。フィールの肩が蓮の脇に滑り込み、崩れかけた体を支えた。
「馬鹿……! 馬鹿、馬鹿、馬鹿……ッ!!」
「……ごめん」
声がかすれていた。一言ごとに、砕けた胸が内側から軋んだ。
アスモデウスは動かなかった。
六人が蓮を囲むのを、ただ静かに眺めていた。
「どうぞ」
悪魔は言った。
「客人のお仲間は、客人です。お揃いになるまで、お待ちいたします」
待っている。
また、この悪魔は待っている。
蓮は歯を食いしばった。待たれたところで、何が変わる。胸は砕けている。サナトスの癒やしは、あと一度きりだ。それはタイタンかテルモのために使うべきものだ。従士一人のために使っていいものではない。
その時。
背後で、氷を踏む音がした。
ざり。
ざり。
ゆっくりとした、老人の足音だった。
蓮は振り返った。北門から、白い長衣の老人が氷の荒野へと歩み出ていた。
「サナトス様ッ!!」
門の奥で、レミエルの悲鳴が響いた。
城壁の上の誰もが、凍りついた。
武を持たぬ者は糧。
この戦場で唯一、悪魔に狩られる側に立つ貴族が、その悪魔の前へ自ら歩み出てきたのだ。
サナトスは蓮の傍らまで来ると、ゆっくりと膝をつき、アスモデウスを見上げた。
「悪魔殿」
その声は、穏やかだった。震えてもいなかった。
「この者を癒やす時を、いただけますか」
アスモデウスは老人を見下ろした。しばらく何も言わず、それから、ゆっくりと頷いた。
「……どうぞ」
サナトスは、蓮の手を取った。
皺だらけの、温かい手だった。
「サナトス様……駄目です」
蓮は首を振った。
「最後の一度は……タイタン様か、テルモ様に……」
「あのお二人は貴族です」
サナトスは静かに言った。
「私の癒やしがなくとも、すぐには死にません。……あなたは違う」
「でも、俺は、ただの――」
「ただの、何ですか」
老人の目が、蓮をまっすぐに見ていた。
「従士ですか。人間ですか。貴族ではない者ですか」
蓮は答えられなかった。
「私はこの街で、四百五十年、人を癒やしてきました。貴族も、従士も、民も、子どもも、年寄りも。……傷の重さは、身分では変わりません。命の重さも」
淡い光が、蓮の体を包んだ。
「あなたは私の民を守るために、立ってくださった。……ならば私も、あなたを守るために、ここに膝をつきましょう」
温かかった。
胸の奥に、湯を注がれたようだった。砕けた骨の破片が、一つ、また一つと、ゆっくりと元の場所へ戻っていく。そのたびに鈍い痛みが走ったが、それは壊れていく痛みではなかった。治っていく痛みだった。
息が、少しだけ、深く吸えた。
門の奥で、レミエルが両手で顔を覆って泣いていた。
サナトスは、その光を長く放ち続けた。重い傷ほど、癒やしには時がかかる。老人の額に汗が浮かび、皺だらけの手が震え始めても、光は途切れなかった。
やがて。
光が、消えた。
「……骨は、繋がりました」
サナトスが、深く息を吐いた。
「ですが、効きが弱い……まだ脆い。二度目はありません。……どうか、それを忘れずに」
最後の一度が、蓮のために使われた。
老人がゆっくりと立ち上がる。膝が笑っていた。その体をキネシスが支え、「移動」で門の内側へと連れ戻していった。
アスモデウスは、その背中を見送っていた。
「糧の身でありながら、客人を救うために、糧の身を晒す」
悪魔は、小さく呟いた。
「……あなたの番は、最後にいたしましょう」
それは慈悲ではなかった。ただ、順番を決めただけだった。
蓮は立ち上がった。
胸はまだ軋む。一呼吸ごとに、鈍い痛みが走る。それでも、さっきまでとは違う。剣を握る手に、力が入る。
フィールが、蓮の腕を掴んだ。
「一人で行かないで」
「行かない」
蓮は首を振った。
「行かないけど……一つ、試したいことがある」
蓮はフィールの耳元に口を寄せた。早口で、短く。ロイとヴァイスにも聞こえるように。
「キネシス様が跳ぶ前に、行き先を見る。悪魔はそれを読んで、先回りする。……だったら」
蓮は、悪魔の方を見ずに言った。
「読ませればいい」
フィールの目が、見開かれた。
「わざと見せる。跳ぶふりをして、一点を見る。悪魔はそこへ先回りする。……悪魔が立つ場所が、こっちに分かる」
「そこに、誰かを置いておけば――」
「――その誰かってのは、オレのことだな」
声がした。
そこに、巨漢が立っていた。
タイタン。
胸の傷は、まだ治りきっていない。口の端には乾いた血がこびりついている。それでも、二本の足でしっかりと氷を踏みしめていた。
「治りきってねえが、動ける」
巨漢は、太い首を鳴らした。
「聞こえたぜ、小僧。……面白え。一口乗った」
その腰には、上級の「移動」の魔石が下げられていた。
門の内側で、キネシスが蓮を見て、小さく頷いた。
全てが、一瞬で決まった。
「お待たせいたしました」
蓮は、悪魔の前に進み出た。
拳を掌に打ちつける。
パン。
深く、頭を下げた。
「……お相手を、お願いします」
アスモデウスは、嬉しそうに目を細めた。
「喜んで」
悪魔が構える。
蓮が構える。
そして。
蓮が、踏み込んだ。
真正面から。
馬鹿正直に。
剣を振り下ろす。
ガキン!!
弾かれた。当たり前だ。窓は開いていない。だが、それでいい。蓮は弾かれた勢いのまま体を回し、横薙ぎに剣を振るう。
ガキン!!
弾かれる。
突く。
ガキン!!
弾かれる。
斬り上げる。
ガキン!! ガキン!! ガキン!!
届かない。届かない。一太刀も届かない。それでも、蓮は剣を振るい続けた。養成所で、ガレンに叩き込まれた型の全てを。ゲイルとの実技試験で振るった全てを。イライザに一度も当たらなかった、あの剣の全てを。
悪魔は、避けもしなかった。
ただそこに立ち、蓮の剣が見えない壁に弾かれ続けるのを、じっと見つめていた。一太刀ずつ、味わうように。
「良い剣です」
アスモデウスが言った。
「型が綺麗です。愚直です。……そして、全く届かない」
悪魔の右の指先が、ふわりと動いた。
トン。
蓮の肩に触れた。
それだけで、蓮の体は宙を舞っていた。
背中から氷に叩きつけられる。繋がったばかりの骨が悲鳴を上げた。
立つ。
トン。
また宙を舞う。叩きつけられる。
立つ。
トン。
叩きつけられる。
立つ。
立つ。
立つ。
「――まだ」
口の中に、血の味がした。
「まだ、終わってない……ッ!!」
五度目に立ち上がった時。
蓮の視界の端で、キネシスの目が動いた。
悪魔の左斜め後ろ。
五歩の位置。
青年の視線が、その一点に、はっきりと注がれた。
わざとだった。
誰の目にも分かるほど、あからさまに。
そして。
アスモデウスの赤い瞳が、ほんの一瞬、その視線を追った。
読んだ。
悪魔が動いた。
キネシスが跳ぶより先に。キネシスが現れるはずの、左斜め後ろ五歩の位置へ。ふわりと、音もなく、先回りして――
そこに。
キネシスは現れなかった。
代わりに。
ドゴォッ!!
大地が爆ぜた。
悪魔が先回りしたその場所の、真後ろ。
上級の「移動」の魔石の光を纏って、巨漢が現れていた。
タイタン。
キネシスの視線の先。悪魔が必ず先回りする場所。そこを見ていたのは、キネシスだけではなかった。北門の前で魔石を握りしめたタイタンもまた、同じ一点を、ずっと、見つめていたのだ。
「――捕まえたァッ!!」
丸太のような両腕が、悪魔の体を背後から抱きすくめた。
接触の瞬間。見えない壁が阻む。
阻む。
だが、タイタンの腕はほどけなかった。
抱きしめる。
締め上げる。
桁外れの腕力で。
悪魔の右腕ごと。
「ッ――!?」
アスモデウスの顔に、初めて焦りが走った。
右腕が、胴体ごと締めつけられている。左腕は焼けて動かない。関節の技も掌打も、繰り出す手がどこにもない。
タイタンの握りを、ほどいた技。
テルモの枷を、利用した技。
キネシスの跳躍を、読み切った技。
その全てが、今、封じられていた。
窓が。
大きく、開いた。
「――全員ッ!!」
フィールの声が、夜の荒野を裂いた。
「突けえええええええええッ!!」
走った。
全員が走った。
フィールが。ヴァイスが。ロイが。オルトが。ユーリが。リアムが。城壁の上から、ミラの矢が。
そして、蓮が。
ドスッ!!
ミラの矢が、悪魔の右肩を貫いた。
ザシュッ!!
ヴァイスの剣が、左の翼を根元から斬り落とした。
ブシュウッ!!
ロイの剣が、脇腹に深々と突き刺さった。
ズブッ!!
フィールの剣が、太腿を貫いた。
オルトとユーリの槍が、リアムの短剣が、次々と悪魔の体に吸い込まれていく。黒い血が噴き上がる。夜の闇に、黒い雨が降る。
そして。
蓮の剣が。
悪魔の胸の、真ん中へ。
真正面から。
馬鹿正直に。
五度叩きつけられ、五度立ち上がった、その全てを込めて。
ズブリ。
手応えが、あった。
刃が、悪魔の胸に沈んでいく。
通った。
通ったんだ。
ダイン。
イライザ。
ムーヴ。
トーレ。ネロ。
俺の剣が、今、届いた――!!
「……お見事」
声がした。
すぐ目の前から。
蓮の剣を胸に受けたまま、アスモデウスは蓮を見下ろしていた。
その口元が、微かに笑っていた。
「本当に、お見事です。……ですから」
悪魔の右の手のひらが、タイタンの腕の中で、わずかに下を向いた。
締めつけられた腕の、その先の、手首から先だけが。
足元の、氷の大地を指していた。
そこに。
光が、生まれた。
円。
幾何学の紋様が、悪魔の足元の氷の上に、青白く浮かび上がっていく。一重。二重。三重。複雑な線が、恐ろしい速さで円の内側を埋め尽くしていく。
蓮は、その光を知っていた。
エスクーダの訓練所で、イライザが手を向けた時の。
魔法陣。
――陣は、手のひらで編むの。手のひらを向けた先に、陣が生まれる。……悪魔でも、陣を描くのに一呼吸くらいは要るはずよ。
イライザの声が、耳の奥で蘇った。
手のひら。
一呼吸。
悪魔も、同じだったのだ。
そして蓮は、もう一つの光を思い出していた。
エスクーダの夜。
三人の貴族に貫かれ、焼かれ、砕かれた悪魔の、炭になりかけた手が。ゆっくりと、手のひらを下へ向けた。
その直後に放たれた、あの光。
ムーヴを。イライザを。クレベスを。一瞬で呑み込んだ、あの光。
「――離れろおおおおおおおッ!!」
蓮は叫んだ。
叫んだ時には、もう。
魔法陣が、完成していた。




