↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
34/156

最後の癒やし

「蓮――!!」


 フィールが駆け寄ってきた。


 ロイが、ヴァイスが、オルトとユーリとリアムが駆けつけた。キネシスをその場に座らせ、全員で蓮の周りを囲むように剣を構える。フィールの肩が蓮の脇に滑り込み、崩れかけた体を支えた。


「馬鹿……! 馬鹿、馬鹿、馬鹿……ッ!!」


「……ごめん」


 声がかすれていた。一言ごとに、砕けた胸が内側から軋んだ。


 アスモデウスは動かなかった。


 六人が蓮を囲むのを、ただ静かに眺めていた。


「どうぞ」


 悪魔は言った。


「客人のお仲間は、客人です。お揃いになるまで、お待ちいたします」


 待っている。


 また、この悪魔は待っている。


 蓮は歯を食いしばった。待たれたところで、何が変わる。胸は砕けている。サナトスの癒やしは、あと一度きりだ。それはタイタンかテルモのために使うべきものだ。従士一人のために使っていいものではない。


 その時。


 背後で、氷を踏む音がした。


 ざり。


 ざり。


 ゆっくりとした、老人の足音だった。


 蓮は振り返った。北門から、白い長衣の老人が氷の荒野へと歩み出ていた。


「サナトス様ッ!!」


 門の奥で、レミエルの悲鳴が響いた。


 城壁の上の誰もが、凍りついた。


 武を持たぬ者は糧。


 この戦場で唯一、悪魔に狩られる側に立つ貴族が、その悪魔の前へ自ら歩み出てきたのだ。


 サナトスは蓮の傍らまで来ると、ゆっくりと膝をつき、アスモデウスを見上げた。


「悪魔殿」


 その声は、穏やかだった。震えてもいなかった。


「この者を癒やす時を、いただけますか」


 アスモデウスは老人を見下ろした。しばらく何も言わず、それから、ゆっくりと頷いた。


「……どうぞ」


 サナトスは、蓮の手を取った。


 皺だらけの、温かい手だった。


「サナトス様……駄目です」


 蓮は首を振った。


「最後の一度は……タイタン様か、テルモ様に……」


「あのお二人は貴族です」


 サナトスは静かに言った。


「私の癒やしがなくとも、すぐには死にません。……あなたは違う」


「でも、俺は、ただの――」


「ただの、何ですか」


 老人の目が、蓮をまっすぐに見ていた。


「従士ですか。人間ですか。貴族ではない者ですか」


 蓮は答えられなかった。


「私はこの街で、四百五十年、人を癒やしてきました。貴族も、従士も、民も、子どもも、年寄りも。……傷の重さは、身分では変わりません。命の重さも」


 淡い光が、蓮の体を包んだ。


「あなたは私の民を守るために、立ってくださった。……ならば私も、あなたを守るために、ここに膝をつきましょう」


 温かかった。


 胸の奥に、湯を注がれたようだった。砕けた骨の破片が、一つ、また一つと、ゆっくりと元の場所へ戻っていく。そのたびに鈍い痛みが走ったが、それは壊れていく痛みではなかった。治っていく痛みだった。


 息が、少しだけ、深く吸えた。


 門の奥で、レミエルが両手で顔を覆って泣いていた。


 サナトスは、その光を長く放ち続けた。重い傷ほど、癒やしには時がかかる。老人の額に汗が浮かび、皺だらけの手が震え始めても、光は途切れなかった。


 やがて。


 光が、消えた。


「……骨は、繋がりました」


 サナトスが、深く息を吐いた。


「ですが、効きが弱い……まだ脆い。二度目はありません。……どうか、それを忘れずに」


 最後の一度が、蓮のために使われた。


 老人がゆっくりと立ち上がる。膝が笑っていた。その体をキネシスが支え、「移動」で門の内側へと連れ戻していった。


 アスモデウスは、その背中を見送っていた。


「糧の身でありながら、客人を救うために、糧の身を晒す」


 悪魔は、小さく呟いた。


「……あなたの番は、最後にいたしましょう」


 それは慈悲ではなかった。ただ、順番を決めただけだった。


 蓮は立ち上がった。


 胸はまだ軋む。一呼吸ごとに、鈍い痛みが走る。それでも、さっきまでとは違う。剣を握る手に、力が入る。


 フィールが、蓮の腕を掴んだ。


「一人で行かないで」


「行かない」


 蓮は首を振った。


「行かないけど……一つ、試したいことがある」


 蓮はフィールの耳元に口を寄せた。早口で、短く。ロイとヴァイスにも聞こえるように。


「キネシス様が跳ぶ前に、行き先を見る。悪魔はそれを読んで、先回りする。……だったら」


 蓮は、悪魔の方を見ずに言った。


「読ませればいい」


 フィールの目が、見開かれた。


「わざと見せる。跳ぶふりをして、一点を見る。悪魔はそこへ先回りする。……悪魔が立つ場所が、こっちに分かる」


「そこに、誰かを置いておけば――」


「――その誰かってのは、オレのことだな」


 声がした。


 そこに、巨漢が立っていた。


 タイタン。


 胸の傷は、まだ治りきっていない。口の端には乾いた血がこびりついている。それでも、二本の足でしっかりと氷を踏みしめていた。


「治りきってねえが、動ける」


 巨漢は、太い首を鳴らした。


「聞こえたぜ、小僧。……面白え。一口乗った」


 その腰には、上級の「移動」の魔石が下げられていた。


 門の内側で、キネシスが蓮を見て、小さく頷いた。


 全てが、一瞬で決まった。


「お待たせいたしました」


 蓮は、悪魔の前に進み出た。


 拳を掌に打ちつける。


 パン。


 深く、頭を下げた。


「……お相手を、お願いします」


 アスモデウスは、嬉しそうに目を細めた。


「喜んで」


 悪魔が構える。


 蓮が構える。


 そして。


 蓮が、踏み込んだ。


 真正面から。


 馬鹿正直に。


 剣を振り下ろす。


 ガキン!!


 弾かれた。当たり前だ。窓は開いていない。だが、それでいい。蓮は弾かれた勢いのまま体を回し、横薙ぎに剣を振るう。


 ガキン!!


 弾かれる。


 突く。


 ガキン!!


 弾かれる。


 斬り上げる。


 ガキン!! ガキン!! ガキン!!


 届かない。届かない。一太刀も届かない。それでも、蓮は剣を振るい続けた。養成所で、ガレンに叩き込まれた型の全てを。ゲイルとの実技試験で振るった全てを。イライザに一度も当たらなかった、あの剣の全てを。


 悪魔は、避けもしなかった。


 ただそこに立ち、蓮の剣が見えない壁に弾かれ続けるのを、じっと見つめていた。一太刀ずつ、味わうように。


「良い剣です」


 アスモデウスが言った。


「型が綺麗です。愚直です。……そして、全く届かない」


 悪魔の右の指先が、ふわりと動いた。


 トン。


 蓮の肩に触れた。


 それだけで、蓮の体は宙を舞っていた。


 背中から氷に叩きつけられる。繋がったばかりの骨が悲鳴を上げた。


 立つ。


 トン。


 また宙を舞う。叩きつけられる。


 立つ。


 トン。


 叩きつけられる。


 立つ。


 立つ。


 立つ。


「――まだ」


 口の中に、血の味がした。


「まだ、終わってない……ッ!!」


 五度目に立ち上がった時。


 蓮の視界の端で、キネシスの目が動いた。


 悪魔の左斜め後ろ。


 五歩の位置。


 青年の視線が、その一点に、はっきりと注がれた。


 わざとだった。


 誰の目にも分かるほど、あからさまに。


 そして。


 アスモデウスの赤い瞳が、ほんの一瞬、その視線を追った。


 読んだ。


 悪魔が動いた。


 キネシスが跳ぶより先に。キネシスが現れるはずの、左斜め後ろ五歩の位置へ。ふわりと、音もなく、先回りして――


 そこに。


 キネシスは現れなかった。


 代わりに。


 ドゴォッ!!


 大地が爆ぜた。


 悪魔が先回りしたその場所の、真後ろ。


 上級の「移動」の魔石の光を纏って、巨漢が現れていた。


 タイタン。


 キネシスの視線の先。悪魔が必ず先回りする場所。そこを見ていたのは、キネシスだけではなかった。北門の前で魔石を握りしめたタイタンもまた、同じ一点を、ずっと、見つめていたのだ。


「――捕まえたァッ!!」


 丸太のような両腕が、悪魔の体を背後から抱きすくめた。


 接触の瞬間。見えない壁が阻む。


 阻む。


 だが、タイタンの腕はほどけなかった。


 抱きしめる。


 締め上げる。


 桁外れの腕力で。


 悪魔の右腕ごと。


「ッ――!?」


 アスモデウスの顔に、初めて焦りが走った。


 右腕が、胴体ごと締めつけられている。左腕は焼けて動かない。関節の技も掌打も、繰り出す手がどこにもない。


 タイタンの握りを、ほどいた技。


 テルモの枷を、利用した技。


 キネシスの跳躍を、読み切った技。


 その全てが、今、封じられていた。


 窓が。


 大きく、開いた。


「――全員ッ!!」


 フィールの声が、夜の荒野を裂いた。


「突けえええええええええッ!!」


 走った。


 全員が走った。


 フィールが。ヴァイスが。ロイが。オルトが。ユーリが。リアムが。城壁の上から、ミラの矢が。


 そして、蓮が。


 ドスッ!!


 ミラの矢が、悪魔の右肩を貫いた。


 ザシュッ!!


 ヴァイスの剣が、左の翼を根元から斬り落とした。


 ブシュウッ!!


 ロイの剣が、脇腹に深々と突き刺さった。


 ズブッ!!


 フィールの剣が、太腿を貫いた。


 オルトとユーリの槍が、リアムの短剣が、次々と悪魔の体に吸い込まれていく。黒い血が噴き上がる。夜の闇に、黒い雨が降る。


 そして。


 蓮の剣が。


 悪魔の胸の、真ん中へ。


 真正面から。


 馬鹿正直に。


 五度叩きつけられ、五度立ち上がった、その全てを込めて。


 ズブリ。


 手応えが、あった。


 刃が、悪魔の胸に沈んでいく。


 通った。


 通ったんだ。


 ダイン。


 イライザ。


 ムーヴ。


 トーレ。ネロ。


 俺の剣が、今、届いた――!!


「……お見事」


 声がした。


 すぐ目の前から。


 蓮の剣を胸に受けたまま、アスモデウスは蓮を見下ろしていた。


 その口元が、微かに笑っていた。


「本当に、お見事です。……ですから」


 悪魔の右の手のひらが、タイタンの腕の中で、わずかに下を向いた。


 締めつけられた腕の、その先の、手首から先だけが。


 足元の、氷の大地を指していた。


 そこに。


 光が、生まれた。


 円。


 幾何学の紋様が、悪魔の足元の氷の上に、青白く浮かび上がっていく。一重。二重。三重。複雑な線が、恐ろしい速さで円の内側を埋め尽くしていく。


 蓮は、その光を知っていた。


 エスクーダの訓練所で、イライザが手を向けた時の。


 魔法陣。


 ――陣は、手のひらで編むの。手のひらを向けた先に、陣が生まれる。……悪魔でも、陣を描くのに一呼吸くらいは要るはずよ。


 イライザの声が、耳の奥で蘇った。


 手のひら。


 一呼吸。


 悪魔も、同じだったのだ。


 そして蓮は、もう一つの光を思い出していた。


 エスクーダの夜。


 三人の貴族に貫かれ、焼かれ、砕かれた悪魔の、炭になりかけた手が。ゆっくりと、手のひらを下へ向けた。


 その直後に放たれた、あの光。


 ムーヴを。イライザを。クレベスを。一瞬で呑み込んだ、あの光。


「――離れろおおおおおおおッ!!」


 蓮は叫んだ。


 叫んだ時には、もう。


 魔法陣が、完成していた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。